(四)ノ4
カロンが急いたので、森に入ってからは思いのほか早くに目的地へと着いた。カロンはオルフェの傍らで、「おっほほー」とテンションの高い、妙な声を上げながら手を揉んでいる。
目の前を指先ほどの小さなミツバチが、横切っていく。
ぶうん、ぶうん、と控えめな羽音が空気を震わせながら、それがいくつも重なる。
あちこちで飛び交うミツバチたちの動きを目で追えば、そこには腰の高さ程の木箱。行儀よく等間隔にいくつも並んでいた。
ここは、ニンフの森にある養蜂場だった。
養蜂は教会の主導で、教区の至るところで近年、急速に導入が進んでいる。
蜂蜜が採れるのはもちろんだが、ロウソクの原料となる蜜蝋が、教会にとって必要不可欠なものだからだ。
そしてここムーサイの村では、オルフェがパーン司祭からの依頼で、五年ほど前からニンフの森での養蜂に取り組んでいた。
設置したミツバチの巣は、藁を釣鐘状に編んだものから始まり、現在は木製の箱へと進化していた。教会から届いた設計図にパーン司祭が手を加えたもので、ニクスが木を切り出して製作した。
少しずつ数を増やし、巣箱は現在、ちょうどニ十個。もちろんこれらは教会の所有のもので、勝手な採取は許されていない。
ただオルフェの場合、十分の一を養蜂の管理報酬として与えられていた。
つまり二十ある巣箱の内の二つはオルフェのものである。この二つに限れば、いつでも自由に採取が出来るというわけだ。
「さあ、さあ、先生!」
期待に満ちた目をカロンが向けてくる。一息をつく間が欲しかったが、精神的圧迫がすごいので、オルフェはすぐに蜂蜜採取の準備に入ることにした。
巣箱からはやや距離を残した所で肩に提げていた布袋を地面へと下ろし、その中身を取り出す。
まずは燻煙器を手に取った。すると、「先生、それ貸してくれ」と、横からカロンの手が伸びてきた。
「オレがやるよ」
「そう? では頼むね」
蜂蜜はもう目の前。カロンは何かしていないと落ち着かないみたいだ。正直に言ってしまえば、さしたる手間ではないのだが任せることにした。
燻煙器を手渡すと、カロンはその場で胡坐座になった。燻煙器の金属製の容器部分に、使い古しの麻布の切れ端を詰め込む。
火打ちで麻布を燃やし、容器を煙で充満させる。ここに吹子革で空気を送り込めば、煙が勢い良く放出される仕組みだ。
オルフェはカロンの手際を横目で確認しながら、それまで羽織っていたクロークを外した。
代りに防護用の厚手のローブを纏う。全身をつま先まですっぽりと覆い、頭部は後ろ襟からフードを引っ張って目深に被った。
「先生、これでどうだ?」
カロンが試みに吹子革を手で押すと、その度に燻煙器は白い煙をシュッ、シュッとたっぷり放出した。上出来である。
オルフェは丈夫な皮手袋をはめながら頷いた。
「うん、いい感じだね。ありがとう、カロン」
「へへ」とカロンは鼻の下を指でこすり、照れ笑いを浮かべる。
「じゃ、カロン。私は行ってくるから」
「お、おう。あ、先生、まだ他に何かオレに手伝えることがあれば――」
「いや、もう大丈夫。ここからは私一人で充分だよ」
「そ、そうか?」
カロンは物足りないらしい。少しつまらなそうに口をすぼめた。それを見て、オルフェは少し意地悪を言ってみたくなった。
「それに強面のキミを見たら、ミツバチが怖がるかもしれない。巣から逃げて戻って来なくなったら大変だ。だから近付かないほうがいい。ここで待っていてくれ」
「え? あ、そ、そうなのか?」
分かった、じゃあ、じっとしている、と素直にカロンは頷いた。
そんな訳がない。冗談のつもりだったのだが、まあ、いいか、とオルフェは流すことにした。
オルフェは燻煙器を受け取り、巣箱へと近付いた。採取はこれまでに幾度となくやってきたが、やはり緊張が伴うものである。
この森のミツバチの性格は穏やかで、めったに針で刺してきたりはしないが、それでも巣箱一つに数千匹が密集しているのだ。パニックを起こして一たび攻撃に転じれば、危険な事態となるのは免れない。
オルフェは息を潜めるようにして、そっと巣箱の前に立った。
まずは、ミツバチが出入りする巣門の小さな穴に燻煙器を近付け、吹子を使って煙を送り込んだ。ミツバチは煙を浴びると、何故だが大人しくなる習性があった。
しばらく続けていると、箱の中から盛んに響いていた羽音が弱くなり、やがて殆ど聞こえなくなる。そうしてから蓋を、慎重に開けた。
箱の中身は巣素網を張った木枠が六枚。並べて吊り下げてある。その内の一枚を取り出してみた。
ミツバチたちは煙で燻されて動きが鈍く、怯えるかのように小刻みに震えていた。可哀そうではあるが、ただ少し時間が経てば、また元気が戻るので心配はいらない。
鵞鳥の羽ブラシで、群れたミツバチを優しく撫で払う。すると規則正しく並ぶ、無数の六角形の幾何学模様が姿を現した。
定規を当てたかのような正確さには、本当に感心させられるが、その六角形の小部屋は、今は半分ほどしか蓋がされていなかった。蜜はまだ、充分に集められていない。
ただこれは想定通りで、実は時期的に蜂蜜の採取にはまだ早く、本来であれば、後一ヵ月は先の予定であった。
なので今回は少しだけ。手のひら程のガラスの小ビンに、一つの巣箱から一本分づつ。それだけをミツバチから分けて貰うつもりだった。
木ヘラで蜜蝋の蓋を剥がすと、粘度のある黄金色の液体が、とろりと垂れてきた。
木綿布で濾過しながら、漏斗を使ってガラスの小ビンへと注ぐ。
外から戻ってきたらしい一匹のミツバチが、オルフェの目の前を横切った。ぶうんと小さな羽音を立てながら、革手袋の上へと降り留まる。
煙を浴びせていなくとも、このミツバチに攻撃性はなかった。ただ、じっとしていた。オルフェはその姿に目をやった。
黄と黒の縞模様の腹部。これは外敵に対する警告色なのだが、小さくて丸っこいフォルムの為か、精一杯に虚勢を張る子供のようで、愛嬌がある。
ただ見ているにつれ、だんだんと別の感情が湧き上がってきた。
ミツバチは、オルフェの手の上からなかなか動こうとしない。
せっかく一生懸命に集めた蜂蜜が奪われていく、その始終を見届けるつもりなのだろうか。
なんだか切ない。
「ゴメンね」
オルフェは小さく呟いて、そのミツバチに謝った。
ガラスの小ビンは、木枠一枚で八分目ほどまでが満たされた。
そして別の巣箱からも、同じようにして蜂蜜を採取した。今回はこの二本で終いとした。
ミツバチの寿命は三十日程度と短い。そしてその一生で集められる密の量は、指で一掬いほどでしかない。
ならばこの小ビン二本に、一体どれだけの数のミツバチの一生分が詰まっているのだろうか。
オルフェは採取を終え、カロンの元へと戻った。カロンは尻尾をふる犬のように、そわそわと、落ち着きない様子で待っていた。
オルフェはフードを外し、ほうと息を吐く。
「せ、先生……」
カロンがにじり寄ってくる。鼻息が荒い。
「うん」
オルフェは頷き、小ビンの一つをカロンに手渡した。これはカロンの分だ。
「おおっ!」
カロンは嬌声を上げ、両手で恭しく受け取った。そしてあろうことか、いきなりコルクの蓋を開けようとした。
オルフェはぎょっとした。この場でもう舐めるつもりなのか。
「待つんだ、カロン」オルフェは慌ててそれを諫める。
「イーオおばさんの焼き立てパンが待っている。それと一緒に食べるのが最高に美味しいのだろう?」
「あ、ああ、そうか――。そうだった」
カロンはハッとして、動きを止めた。「危ねえ、興奮して、つい」と、自分を戒めるように呟く。
「今回は量が少ないけど、だからと言って一度で食べきってしまうのは勿体ないよ。カロン、なるべく大切にね」
この蜜を集めてくれたミツバチたちを思えば、オルフェはせめて大切に、ゆっくりと味わってほしかった。ただ言いながら、これはダメだなと分かった。
カロンにオルフェの言葉はまったく届いていない。表情は恍惚に溶け、小ビンの中の黄金色の液体に魅せられていた。
せいぜい今夜までだろう。イーオおばさんの焼き立てパンに、たっぷりと垂らして、あっと間に無くなってしまうはずだ。
オルフェは一つ、大きな息をついた。
まあカロンであれば、一滴たりとも無駄にしないと確信できるので、それで良いかと、そう思うことにした。




