(四)ノ3
やはり、である。またもカロンのペースが速くなった。それも目的地が近付くにつれ、露骨だった。
森は深くなり、届く光は少ない。まだ午前中にも係わらず、周囲は薄暗く陰鬱で、乾くことのない苔むした土が、湿り気を帯びた独特の匂いを立ち込めていた。
カロンは乱立する木々の間を縫うように駆け抜けた。目印にと以前に付けた木の幹の浅い傷を瞬時に見分けながら、その動きには無駄がまるでなかった。
オルフェも懸命に追いかけた。
ただ、前ばかりを見て足元が疎かだった。露出した木の根に躓き、足が縺れてしまった。
「っと、と……」
なんとか堪え、すぐに体勢を直したが、一瞬、視線を切った。たったそれだけの間で、もうカロンの背中が遠ざかってしまった。
「ったく、もう」と、オルフェは不満を口の中で漏らしてから、カロンを呼び止めようと、大きく息を吸った。
その時だった。
視界の上のほうで動く影があった。オルフェは気付いて、ハッとした。
すぐにその影は、カロンの頭上へと落ちてくる。二つがほぼ同時だった。
影はピンクがかった白色に着色された。肌は薄汚れ、体つきは細く小さい。一瞬、裸の子供かとも思ったが違う。
尖り耳と、大きな鉤鼻。ゴブリンだ。
「カロン!」
オルフェは思わず叫んだ。
木枝に身を潜め、待ち伏せていた獣の奇襲。こん棒を高く掲げたゴブリンが、カロンに狙いを定めて飛び降りてきた。
しかし機先を制したのはカロンのほうだった。
カロンは鋭く右腕を伸ばし、ゴブリンがこん棒を振り下ろすよりも速く、まずは一匹の首を鷲掴みにした。
「ギッ?!」と、濁った奇声が上がった。
続けてもう一匹の攻撃も、カロンは身を反転させて難なく躱す。そして着地で動きを止めたゴブリンの、僅かなその隙を逃しはしない。
ゴブリンへと見舞った強烈な後ろ蹴り。
革の靴底が、薄い胸に遠慮なくめり込み、ゴブリンは衝撃に喚きながら吹っ飛んだ。
背中を激しく木の幹へと叩きつけ、それからゆっくりとずり落ちる。
大きな咳は一度だけ。激しく喀血すると、ゴブリンは失神して力なくうなだれた。泡にまみれた赤い血に、胸から下が汚れる。
肺を潰したのだとオルフェは診立てた。このゴブリンが、命を取り留められる見込みは、ない。
ゴキュッと嫌な音がした。オルフェはまたカロンのほうへと視線を戻す。
先に捕らわれたゴブリンは、おかしな方向へと顔を傾げていた。カロンが片手の握力だけで、首の骨をへし折ったのだ。
悲鳴を上げる間すら許されなかった。四肢が力を失い、だらりと垂れる。即死だった。
「おらよっ!」
カロンは、絶命したゴブリンを草の茂みへと投げ込む。すると更なるゴブリンが四匹ほど、飛び出てきた。
前のめりに倒れるもの、その背中に覆いかぶさるもの、四つん這い、腹這いのものと、ゴブリンはそれぞれが慌てふためいた姿で現れた。
後発組の伏兵の存在も、カロンはしっかりと見抜いていたのだ。
「よう、小鬼ども」
カロンは、群れて出てきたゴブリンを威圧的に見下ろしながら声をかける。四匹は動きをピタリと止めて、長身のカロンを仰いだ。
「どうする? やるか逃げるか、すぐに決めな」
不敵に口角を吊り上げて、指の関節を鳴らした。
ゴブリンに人の言葉が通じる訳ではない。それでも置かれた状況から、なんと告げられたかは理解したようだ。
ゴブリンは恐怖に支配され、叫んだ。濁った汚い声を盛んに上げた。
そして一斉に逃げ出した。蜘蛛の子を散らすように四方へと逃げ惑う。オルフェのすぐ傍も一匹が通り過ぎたが、目にも入らぬ様子の慌て振りだった。
カロンは、パンパンと手を払い叩き、「ふん」と鼻をならして、森の奥へと消えていくゴブリンを見送った。僅かに乱れた赤髪を、指で梳いて後ろへと流す。
森の獣の襲撃に場馴れしたのか、カロンは最早、この程度の数のゴブリンでは、まったく問題にしなくなっていた。
ゴブリンが得意とする連係を崩し、自慢の大剣のツヴァイヘンダーを振うまでもなかった。いとも容易く退けた。
そう、倒したのは二匹だけで、後のは退けたのだ。この辺りが、とオルフェは思う。ニクスと違う所だ。
カロンは獣の襲撃を受けても、護衛対象者さえ守れれば良い、という戦い方をする。深追いをしないのだ。
ニクスがこの状況下にあるならば、間違いなく違った。逃げるゴブリンを追いかけ、背後からでも容赦なく切り伏せて殲滅させる。
獣は殺せる時に殺しておけ。それがニクスの信条だった。
獣は人に害をなす存在。逃せばまた別の誰かを襲う。だから間違ってはいない。
それでもオルフェは、諸手を挙げての賛同はしかねた。
人と獣と、何が違うのだろうか。そう考えてしまうことがあるからだ。
獣は人を喰らおうと襲ってくる。
そして人も兎を狩るし、イノシシを罠に捉える。村の家畜だって、今年も相当数が冬を越すことなく屠殺されるだろう。すべては生きる為にそうしている。
それらの動物からすれば、人こそがまさに『獣』のような存在に違いない。
もちろんだからと言って、誰かが獣の犠牲になるのをやむなしと思っている訳では決してない。
ただ、何かの命を犠牲にせねば生きられぬのであるならば、人も獣と同じく罪深い存在ではないかと、オルフェはそう感じていた。
「先生、もう大丈夫だ」カロンが、鋭い眼光で周囲を見渡す。
「この辺りに他の獣はいない」
オルフェは小さく頷いて応えた。さすがはカロンといったところか。
蜂蜜に気を取られてばかりいたかと思ったが、護衛役としての本分は決して忘れていなかった。
オルフェが見直す思いで感心していると、ただカロンの表情がまた一瞬にして緩んだ。
「さあ、先生、先を急ごうかあ。ああ、もうすぐだな」
声もまた、緩くなった。先ほどまでの険しさはどこへやら。オルフェは、そのあまりの落差に、思わず苦笑を漏らした。
ただ、カロンのこういった純朴さは、決して嫌いでなかった。




