(四)ノ2
カロンは森の中をグングンと進んでいく。岩の足場の悪さも意に介さない。藪が行く手を阻めば、鬱陶しそうに乱暴に手で薙ぎ払った。
わき目も振らずに突き進む。その背中は、油断すればすぐに遠のいてしまいそうで、オルフェは逸れまいと付いて行くのがやっとの状態だった。
「カ、カロン」
クロークの裾をウツギの枝に引っ掛けないように気を遣い、オルフェは藪を躱しながら、上がった息で呼びかけた。
「ん?」と、カロンは前を見据えたまま生返事をする。
「ペースが速すぎる。もう少し落としてくれないか?」
「あっ――。ああ、そうか」
カロンは気付いて声を上げた。やはり無意識だったのだ。立ち止まり、「いや、悪い。先生」と後ろ頭を掻きながら背後のオルフェへと振り返る。
オルフェは追い付くと、カロンのその顔を見て、乱した息を鼻から抜いた。
カロンの顔は、額から顎にまで八本の筋状に赤く腫れ上がっている。クロトにやられたそれは、人に爪で引っ掻かれたものだと一目瞭然だ。
娘の所業故に、親としては言えた立場にないが、それでもやはり、少々恰好が悪い。
ただそれ以上に、日頃のカロンの精悍な鋭さを台無しにしているものがあった。
ハの字に垂れ下がった目じりと、緩んで半開きの口元。表情にまるで締りがない。
「そうだったあ、気が逸って、つい」と、声もまた緩かった。
オルフェは胸に手を当てて、呼吸を整える。
これでもう、三度目。先ほどから同じことを繰り返していた。普段であればあり得ないが、カロンは浮かれていた。それも気持ち悪いぐらいに。
理由はこの上なく単純明快で、「今日は蜂蜜を採りに行こう」とオルフェが提案したからだ。
甘党のカロンは、蜂蜜が大好物だった。
「ささ、先生、行きますよお」
なにやら言葉づかいまでも変になっている。カロンは向き直り、二度あったこれまでと同様に、とりあえずゆっくりと歩き始めた。オルフェはその後に続いた。
今さらながらに見渡せば、森のこの辺りは、野草の葉が朝の陽光を照り返すようで明るかった。
小鳥が一羽、忙しなく羽ばたきながら木枝へと降り立った。ルリビタキだ。青く宝石のように鮮やかな姿をしていた。
きっと迷ったのだろう。このような明るい場所では珍しい。
やはり落ち着かないのか、幸せを呼ぶと伝わる青い小鳥は、クッ、クッと、短く鳴くとすぐに飛び立ち、本来の住処の森の暗い中へと、あっという間に姿を消してしまった。
あまりにも短すぎる遭遇に、オルフェは物足りなさを覚え、もう一度迷い出てこないかと、消えていった暗がりを探った。
そうすることが出来る程度に、先導するカロンの足取りは緩やかだ。
いつまで持つかな?
そんなことを思いながら、逸る気持ちがだだ洩れの、うずうずと落ち着かない長身男の背を見つめて歩く。
どうせそのうち、またペースが上がっていくのだろう。
ただもっとも、目的地へと急ぐこと自体はオルフェも異論なかった。今日は森に入るのが遅くなったので、探索時間が短くなってしまっていたからだ。
その原因はもちろん、クロトの件でオルフェが約束の時間を守れなかったからでもあるが、実はそれだけではない。
カロンと、そしてアルゴルの所為でもあった。
オルフェはカロンの背中に付いて歩き、森に入る手前でのことを思い返していた。
こんなやり取りがあった。
「やっぱりダメだ。もう、ガマンできねえ」
カロンはレーテ川に架かる橋の前で立ち止まり、堪えていた感情をいきなり吐露した。
約三十メートル向こうの対岸へと伸びるこの木造橋は、ムーサイの村とニンフの森をつなぐ唯一のものだった。
「先生、悪いが」と、カロンは傍らのオルフェへと顔を向けてきた。
「ここで少し、待っていてもらえないか? ちょっと、ひとっ走りしてきたいんだが……」
バツがわるそうに後ろ頭をかく長身男の姿に、オルフェは彼の目的が何であるかをすぐに察した。
そして、そわそわとした足の動きを見れば、止めるのは可哀そうだと思った。
「仕方ないね。いいよ、行っておいで」
森に入るのがこれでまた遅くなってしまうが、カロンの心の葛藤を慮り、オルフェは了承して頷いて見せる。
「良いのか? すまねえ」と、カロンの表情がぱっと明るくなった。
「すぐに戻る。本当にすぐだ。だから先生。えっと、と、とにかくじゃあ、行ってくるわ」
ホントにすぐにだからなあ、と言い終えぬうちからカロンは踵を返し、森とは反対の村の方へと駆け出した。
「うぉおー」と声を上げ、ものすごい勢いで来た道を戻り、どんどんと遠ざかっていく。
これなら確かに相当に早く戻ってきそうだ。オルフェは苦笑しながら、微笑ましく小さくなるその姿を見送った。
カロンが村の彼方へと姿を消すと、オルフェは、やれやれと鼻から息を抜いた。
そしてすぐ傍の、木組みの物見櫓を見上げた。フフン、と悪戯じみた笑みを浮かべる。
「おはようっ!」
いきなり声を大きく張った。
「へっ? あ、うわ!」と、慌てた声が頭上三メートルほどの高さから聞こえてきた。
やはり居眠りをしていたか。橋に到着しても声がかからなかったので、そうではないかと踏んでいたのだ。
「あ、ああ、先生か。おはよーございます」
アルゴルが物見櫓の木の手摺から、ひょっこりと顔を覗かせる。短く刈り込んだ茶髪に、細く吊り上った眉。ヤンチャそうな見た目をしているが、声は十九歳の割には高く、まだ多少の幼さを残していた。
「なんだ」オルフェは仰ぎながら、拍子抜けした声を上げた。「今日は、アルゴルが当番だったのか」
「なんだって、なにさ」アルゴルは不服そうに返す。
アルゴルは村の少年や、同年代の若者たちのリーダー的存在だ。
この木組みの物見櫓は、森の獣が唯一、村へと侵入可能な木造橋を見張る為に建てられたもので、アルゴルが若者たちを取り仕切って、当番制で見張役を担っていた。
「いや、すまない。へんな意味で言ったのではないんだ」オルフェは短く笑って言い訳をした。
「ただカロンがね、たった今、キミの家に走って行ったものだから」
「カロンさんが?」
「うん、イーオおばさんに頼むつもりみたいだ」
「母さんにって、ああ、パンか」
アルゴルは手摺の上で頬杖をついて、納得の声を上げた。アルゴルの母、イーオは夫のエウパボと共に村で居酒屋を営んでおり、彼女はとにかく料理が旨い。とりわけパン作りは名人といっても良いほどだ。
ムーサイの村では、パンはライ麦やオーツ麦の挽いた粉をこねて焼くのが基本で、日持ちはするが黒くて固いものだった。
ただ、イーオはそこに小麦を混ぜる。些細な贅沢ではあるが、彼女の焼くパンはしっとりと柔らかい。絶品なのだ。これは村人の誰がその配合を真似ても、及ぶものではなかった。
このパンを居酒屋で出すことはないが、イーオは頼めばパン一つにつき、四分の一銅貨一枚で焼いてくれる。
カロンは、このパンを焼いておいてもらおうと駆けて行ったのだ。森から戻るつもりの時間を伝えるに違いない。
イーオの焼き立てパンに、森で採れた蜂蜜を垂らす。これが甘味物好きのカロンいわく、最高に美味しい食べ方らしい。
「言ってくれれば、伝えたのに」と、アルゴルは唇を尖らせた。
「母さん、ここに昼飯を持ってくるのだし」
「うん、そうだね。アルゴルが居眠りさえしていなければ、そう出来たのにね」
「ああ、いや」
「どうせまた、夜遅くまで麦酒を飲んで騒いていたのだろう? 見張りの当番が控えていたのにも係らず」
「えっと、その……」
「その所為で、カロンはとんだ無駄足を踏んだわけだ。そして私も、ここで無駄に待たされている」
「あ、あの、先生っ!」
「ん?」
「寝てたの、その、どうか母さんには内密に」
アルゴルは、手摺から身を乗り出すようにして頭を下げた。
ヤンチャな見た目をしているが、年下の面倒見は良いし、村思いの好青年だ。そして、いかにも肝っ玉が据わった母親には、からっきし弱い。
オルフェはそんな若者に向けて、理解ある大人の笑みを浮かべる。
それを見て、ほっとした表情になった彼に、こう告げた。
「どうしよっかなー」




