(一)ノ2
カロンに先導され、オルフェは自らが見定めた場所へと足を踏み入れた。
腰を屈めながら注意深く、足元の草花の種類を見極める。しかし見当たらない。
顔を上げ、カロンに向けて首を横に振った。ここは外れだった。
さらに奥へと場所を変える。また同じようにして探すが、やはり無かった。ここも違うようだった。
ホシユキノシタは特に珍しい種類の野草ではないはずだが、ここニンフの森にはあまり自生していない。岩場を覆う苔が、繁殖の邪魔をする所為だと考えられる。
それでも森に入れば、多少なりとも手に入るはずだが、今日はまったく見つけられずにいた。
正午の六時課を最後に、村の教会の鐘の音が届かなくなって久しい。
これ以上は時間をかけたところで、森の深みにただ嵌ってしまうだけであり、オルフェも理屈ではそれを理解していた。
それに休みながらではあるが、朝から歩き回っている。いかにも優男なオルフェは体力に乏しい。疲労に抱きつかれ、足枷を引きずる囚人のように、一歩一歩が重くて仕方なかった。
引き返すべき材料は揃っている。分かっている。しかし踏ん切りがつかない。感情がそれを認めようとしないのだ。
せっかくカロンが、森の奥へと進む決断をしてくれたのもあり、ここまできて収穫無しでは甲斐がないというもの。
次こそは、せめて一つだけでも見つけねばと、意地になっていた。
だがやはり、次の場所でも見つからなかった。
落胆が、意気込みを上回った。肩ががっくりと落ち、体の中から何かが抜けていく。
オルフェは苦笑しながら、カロンにまた首を横に振った。
それを見たカロンが、まるで自分の所為かのように顔を歪めた。もちろんホシユキノシタが見つけられないことに、カロンが責任を感じる必要はどこにもない。
もう今日はそういう日なのだ。さすがに諦めが心の大勢を占め、オルフェは見失いかけていた引き際を悟りつつあった。
あともう一度だけ。それで無ければ仕方がない。もう最後にしよう――。そう決めた。
と、いうのをそれから二度ほど繰り返した。往生際は少々悪い。
三度目の一縷の望みをかけて、次へと移った。
そこは生い茂る木々に囲まれて、昼間でありながら蒼然とした月光の下にいるかのような、そんな場所だった。
オルフェは足元の野草を気にしながら歩いていて、だからすぐには気付かなかった。
立ち止まり、顔を上げる。
そして見た光景――
「あっ」と、声がでた。
咲いていた。ホシユキノシタだ。
オルフェは最後の賭けに勝ったのだ。
その名が示す通りの星形で、小さな白い花の姿があった。しかしそれは、一つ二つなどではなかった。
ホシユキノシタが群れている。広がっている。
辺り一帯の岩場が、白い花で埋め尽くされていた。
思わず感嘆の息が漏れる。
その様子で察したらしいカロンが振り返り、「やったな」と声を弾ませた。
「これなんだな? 先生が探していたのは」
「ああ、まさに」
「それにしても、すげーな。これ、全部そうなんだよな?」
「そう。そうなんだよ、カロン。すごいよ。これだけあれば……」
興奮で声が上擦る。これほど群生しているのを、かつて見たことがなかった。
俄かには信じがたい光景を前にして、オルフェは諦めないで良かったと喜びを噛みしめた。粘ってみるものである。
もちろん、こんなにも森の奥へと入れるのは、カロンの存在があればこそ。
「カロン、ありがとう。キミのおかげだ」
オルフェが嬉しそうに顔を向けると、カロンは「へへっ」と照れ臭そうに人差し指で自分の鼻の下を擦った。
オルフェはさっそく腰を下ろし、ホシユキノシタをまずは一つ摘み採った。そして、ようやく出会えたその姿を、感慨深く見つめた。
ホシユキノシタの草丈は二十センチほど。赤みを帯びた茎は細く頼りなさ気だが、積雪の重みにも耐えられるほどにしなやかで、枝分かれさせながらその先端に、小指の先ほどの小さな五枚花を十輪程度咲かせる。
葉は茎の根本付近に数枚。ただその姿形は花茎の謙虚さに反して随分と広く、くっきりとした葉脈が強く主張するものだった。
せっかくの群生地。オルフェは無暗に採るのではなく、当面が必要となる分だけの量を確保することにした。
生育具合を見極めながら、丁寧に摘み取る。そうしながらオルフェの口元は自然と緩んだ。
この場所さえ覚えておけば、次回からも入用なときに採りに来れる。少々森の奥深い所ではあるが、真っ直ぐに目指せば時間に無理はないはずだ。
つまりこれで、慢性的なホシユキノシタ不足が解消されるのだ。
そう思うと、オルフェは心が浮き立って仕方なかった。
その様子を傍らで胡坐を組んで見守っていたカロンが、やがて「あの、先生よ」と、後ろ頭をボリボリと掻きながら訪ねてきた。
「オレさ、こーいうのはからっきしなんだが、この草って、そんな必死になって探すほどのものだったのか? なんか、全然大層なものには見えないんだが」
「うん? ああ、そうだね」
オルフェは作業の手を止めないまま、上機嫌に応える。
「とても多岐にわたって使える薬草だよ。例えばこの葉はね、喉に良い。生葉を絞って蜂蜜なんかと混ぜるんだ。咳も抑えてくれるから随分と楽になるはずだ。あと、茎の部分は乾燥させてから煎じれば、解熱の効果がある」
「へえ、蜂蜜かあ」
カロンの目がいきなり輝いた。
薬草の効能よりも、自らの好物に興味を惹かれたらしく、オルフェはそんな彼の、子供のような素直な反応に短く笑った。
「内服だけじゃあないよ。外傷にも使える。茎や葉を潰した汁は、切り傷や虫刺されに塗り付けてやる。腫れた場合は葉を炙ってから貼っておくのも良いね。せっかくたくさんあるんだ。カロンも少し持っておいたらどうだい? いざとなれば食用にもなるし」
「へ? 食えるのか、これ」
素っ頓狂な声を上げたカロンは、手近にあったホシユキノシタを一つもぎ取り、疑わしげな目を向ける。
オルフェは「もちろん」と、応えた。
「空腹を紛らわすには物足りないけど、栄養素はある。百薬の元となる野草だ。食べて体に害をなすと思うかい?」
「ああ、まあ、そうだな。なるほど、確かに、な」
「ただし食べられるといっても、苦味は強い。とくに採取した直後は――」
いきなり、踏みつぶされたカエルのような呻き声がした。オルフェは驚いて手を止めた。
顔を上げ、声のしたほうへ視線を向けると、苦悶に顔を歪めたカロンの姿があった。
自らの首を両手で絞めるようにして悶えている。何が起こったのかは、すぐに理解した。
オルフェは呆れて、ため息を鼻から抜いた。
「エグくて、そのままで食べる人はまずいないよ、と」
「そ、それを……、先に」
だらしなく開かれたカロンの口から、半分ほど齧ったホシユキノシタがこぼれ落ちた。
強面の三十男は、その見た目からは想像し難いが、大の甘党。そして苦い物がまったく駄目だった。大げさに見えても、彼は本気で悶えている。
野草が苦いのは、普通に分かりそうなものだが、なぜ無警戒にそんな真似をしたのか。
オルフェは短く考えて、ああ、と口の中で呟いた。
先ほどのオルフェの、蜂蜜という言葉が頭に残ったのかもしれない。それでつい試してみたのか。蜂蜜と混ぜて、と言ったはずだが――
オルフェは、やれやれと息をつき、それからふと思い出した。そう言えばと、懐に忍ばせてあった包み紙を取り出す。
飴玉が二つ。これは妻のエウリーケの手製で、森で採れた蜂蜜が練り込んである。村の牛のミルクと混ぜて固形にしたものだ。薬の苦みを嫌がる村の子供たちの為に作るのだが、稀に余りものを森に入る際などに持たせてくれる。
カロンと分け合うつもりのまま、すっかりと失念していた。
「ほら、カロン、これを舐めて」
オルフェが包み紙を開いて差し出すと、カロンの目が鋭く光った。すかさず手を伸ばすと、飴玉の一つをつまみ上げ、急いで口の中へと放り込む。
カロンはとにかく甘い物に目がない。もちろんエウリーケの飴玉も大好物だ。診療所に遊びにきた際には、子供たちに混じって、しれっと手を差し出してくるほどに。
だからこれで機嫌が良くなるはずと、オルフェはそう期待した。
しかしカロンの表情は冴えないままだった。よほどホシユキノシタのエグさが堪えたらしい。
それに飴といっても、高価な砂糖を水飴にして固めたものとは違い、食感は粘土のように柔らかく、咥内の温度で簡単に溶けてしまう。
なので長く持つものではなかった。
やがてカロンは俯いた。そのまま動かない。どうやら飴玉が無くなってしまったようだ。
「もう一つあるよ。どうだい?」
機嫌を直すのに、飴玉一つでは足りなかったか。オルフェは自分の分の残り一つを薦めた。
しかしカロンは顔を上げることなく、首を横に振った。
え? と、オルフェは声に出して驚いた。
まさか、そんな――。カロンが甘味物を断るなんて。
今までそんなことがあっただろうか? いや、ない。
記憶を辿るまでもなく、即座にそう言い切れた。それほどにカロンは甘いもの好きなのだ。
これは天変地異の前触れかと、オルフェが大げさに驚き呆けていると、カロンがいきなり、勢いよく立ち上がった。
オルフェはびくりとして見上げた。
「ど、どうした?」
「――吐いてくる」
「ええ?」
そこまでなのかと、オルフェはまたも驚いた。たかだか野草を一齧りしただけである。
ただカロンはもう、すでに脱兎のごとく駆け去っていた。
適当な所で木の幹に手をかける。長身の背中が丸くなった。込み上げてくるものを待っている様子だ。
「草花にはかけないでくれよ」
呼びかけると、それを合図にしたわけではないだろうが、カロンは体を折り、間をおかずに嘔吐し始めた。
不快な音が、美しい森の中でこだまする。
オルフェは静かに目を閉じて、両手で自分の耳を塞ぐのだった。