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(四)ノ1

「ダメです! クロト、いい加減に聞き分けなさい!」

 エウリーケは目は細めたまま、眉だけを器用に吊り上げる。朝から声を大きくしたのは、クロトが駄々をこねるからだ。

 オルフェの足に張り付いたままで、もうかれこれ三十分。クロトもなかなかの強情っ張りを発揮していた。


 今日は休診日。カロンと森に入る約束なのだが、これでは身動きが取れない。オルフェは困惑していた。

 ただ、悪い気もしていなかった。娘にべったりと抱きつかれて、あまりの可愛らしさに、黒髪の頭をついつい撫でてしまう。

「オルフェ?」エウリーケの声が低い。

「あ、うん」

 薄い笑みで咎められ、オルフェは、ぱっとクロトから手を離した。


「これはなんの騒ぎだよ?」

 聞きなじみのある声に、オルフェは振り向いた。いつの間にか、赤髪で上背のある男が開かれた玄関ドアの所に立っていた。

 カロンは革鎧を纏い、大剣を背に装着した武装の姿だった。手の甲で宙を叩く仕草をして見せる。

 気付かなかっただけで、どうやら何度もドアをノックしていたようだ。


「ああ、カロン、おはよう」

「おはよ、先生。約束の時間になってもこねーから、何かあったのかと心配したが。荒ぶるエウリーケとはね。珍しいものが見れたな」

 ハハ、とオルフェは苦笑いする。

「すまなかったね、迎えに来させてしまって。ご覧の有様なんだ。実は私が森に入るのを知って、クロトが自分も行くと言って聞かなくてね」

「森に? 嬢ちゃんがか? それはダメだろう」

「とーぜんです」と、エウリーケが声を張る。

「本当はオルフェにだって行ってほしくないのに。私が毎回どれだけ心配しているか。その上クロトまでなんて――。ああ、もうっ! 考えただけで、心臓が止まりそうよ」

 彼女は完全にご立腹の様子で、オルフェから引き剥がそうと、駄々っ子の二の腕に手をかける。


 ただクロトも譲らない。オルフェの下腹部に顔を埋めたまま、何度も首を横に振って嫌々をした。絶対に付いて行くと言っている。

「なりません!」

 エウリーケが業を煮やし、また一段と声を大きくした。

 しかし剣幕の割には、どうにも強引になり切れていない。母親とはいってもまだ日が浅く、娘の細い腕の頼りなさに力の加減が分からないのだ。


「ったくよ」

 カロンがため息交じりの呆れ声を上げながら、ずかずかと中へと入ってきた。そして日焼けした逞しい腕をぬっと伸ばすと、無造作にクロトの襟首部分を掴んだ。

 大して力を込めたようには見えない。

 ただ、ひょいと、簡単に、まるで服についたオナモミでも取るかのようだった。気付けばクロトの足は宙に浮き、あっさりとオルフェから引き離されていた。

「これで良いのか?」と、カロンはエウリーケに顔を向ける。

「え? あ、うん……。ありが、とう――」

 これまでの苦労は何だったのか。エウリーケは拍子抜けした様子で応えた。


「それで、どうした?」

 カロンはクロトの襟首を掴んだまま、自身の肩の高さにまで持ち上げ、「なんで、そんなに森に行きたがっている?」と、幼い顔を覗き込む。

 クロトは親ネコに首根っこを咥えられた子ネコみたいに手足をだらんとさせるが、しかし表情は険しかった。眉間に皺を寄せて深く刻みながら、いきなり邪魔をしてきたカロンを厳しく睨みつけた。

「おっ?」

 カロンはその反応を面白がった。たかが幼子と、その憤りを甘く見ていた。揶揄うつもりで顔を近付けていく。

 クロトはすっと、両手を高く挙げた。指を折り曲げて爪を立てる。

 そして、いきなりである。

 怪訝な表情へと変化しかけたカロンの顔面を、上から下へと一気に引っ掻いた。それも目一杯に。この子はまだ、容赦と加減というものを知らなかった。


「イィ――ッテ!」

 診療所に絶叫が響き渡る。カロンはその場に蹲りながらクロトを離し、両手で自身の顔を覆った。

 オルフェも、これは予想が出来なかった。

 ただ驚きはしたが、同時に咄嗟でも子供を立ったままで落とさないのは、さすがだと、カロンに対して妙なところで感心もした。

 傍らでは、エウリーケが両手で口を押えながら、細めていた目を見開いて唖然としている。

 そんな大人たちの反応を尻目に、クロトはフンと鼻を鳴らす。そして、テテテッと駆けて、再びオルフェに抱き付こうとしてきた。


「はい、そこまで」

 すぐに気を取り直したエウリーケがそれを阻む。クロトの体を、寸前で後ろからがっちりと抱きとめた。

「ダメでしょう、クロト。カロンに謝りなさい!」と叱りつけりつけるが、クロトはそれでも馬耳東風。手足をバタつかせて、聞く耳を持とうとしない。

「もうっ!」

 この体勢であれば、エウリーケも遠慮の必要がなかった。体格差を存分に活かしてクロトを羽交い絞めにする。これで勝負ありだ。


「カロン、すまない。大丈夫かい?」

 オルフェはクロトの所業に謝罪した。

「ああ、でも、いてーよ」と、カロンがしかめっ面を上げる。

 出血はないようだが、赤い線が縦に八本、額から頬、顎にかけて浮き出ていた。この腫れは少し時間が経てば、よりくっきりとしたものになりそうだ。

「薬を塗らせてもらうよ」

 オルフェは申し訳なさに、神妙な面持ちで頭を下げた。

 塗り薬はオルフェがニンフの森で集めた材料を独自に配合した物で、傷の治りが早いと評判が良い。


「クロト」

 オルフェは向き直り、口調を改めた。

 すると感じ取ったのだろう。クロトはエウリーケの腕の中で体をよじり、なおも抵抗を試みていたが、その動きをピタリと止めた。

 それを認めて、オルフェはすぐに優しい笑みを携える。クロトの前に屈み、琥珀色の瞳を覗き込んだ。

「ゴメンね、森には連れて行けないんだ。でもママもイジワルしている訳ではないよ。クロトに怖い思いをさせたくないだけ。絵本にいた悪いオオカミが襲ってくるかもしれない。危ない所なんだ。だからママの言うことを、ちゃんと聞きなさい。分かった?」

 クロトはじっと、オルフェの目を見つめた。それから体をぬっと伸ばして顔を突き出すと、オルフェの腕の辺りに鼻をくっ付けて、くんくんとさせる。

 そして、コクリと頷いた。


「いい子だね」

 オルフェは破顔して、娘の頭にポンと手を乗せた。撫でながら、クロトを抱くエウリーケに視線を向ける。

「エウリー、じゃあ、あとは頼むね」

「ズルいわ、オルフェ」

 エウリーケは、頬を膨らませながら応えた。クロトのオルフェに対する聞き分けの良さに嫉妬したのだ。


 診療所を後にして、ニンフの森へと向かう村の小道の上で、カロンは気になっていたのだろう、「先生、さっきのあれ、なんだったんだ?」と尋ねてきた。

「あれって?」

「いや、嬢ちゃん。先生の一言で、急に大人しくなっただろ。すげー暴れてたのに。それになんか、先生の匂い嗅いでなかったか?」

「ああ、うん、そうだね。確かに嗅いでたね、匂い」オルフェは小さく頷いた。

「最近になって気付いたのだけど、あれはクロトの癖なんだ。私の匂いを嗅ぐとね、どうも安心して落ち着くみたいだ」

「先生の匂いで? なんでだ?」

 甘い匂いでもするのか? とカロンが顔を近付けてくる。オルフェは「そういうことではなくて」と、苦笑しながら身を捩ってそれを躱す。


「ほら、あの子と出会ったとき、クロトは森の中で倒れていて、村へと連れ帰る間、ずっと私が抱いていたから。だからそれで匂いを覚えたのだと思う」

「いや、でもよ、あの時の嬢ちゃんは、ずっと意識なかったはずだぜ?」

「うん、それでも潜在意識には届いていたのかもしれない。そして自身の記憶を失った中で、私の声と匂いが残ったのかなと」

 うーん、とカロンは歩きながら腕組みして悩み、「つまり、あれか」と声を上げた。

「ヒナ鳥が最初に見たものを、親と思い込むやつ」

「すり込み、ね。うん、まあ、理屈は似たようなもの――、なのかな?」

 合っているような、違うような。娘をヒナ鳥と同じ扱いにして良いのだろうかと、オルフェは曖昧に首を傾げた。

 ただともかく、オルフェの声や匂いに素直な反応を示すのは確かで、それをエウリーケがズルいと感じるのも、無理からぬことだと思った。


「それにしても嬢ちゃん、中々の暴れっぷりだったな」

「うん、すまなかったね、カロン。痛むかい?」

 オルフェは、カロンの顔を横目に見上げて謝った。八本の赤い筋は、診療所を出る前よりも目立つものとなっていた。加えて言うと、塗り薬で顔は全面的にテカっている。

「ああ、いや」と、カロンは手を左右にふる。

「それは全然いいんだ。けどよ、なんだってあんなに森に行きたがったのかなって」

「うん……、そうだね」

 オルフェは呟き、その後は言葉が続かなかった。


 やはり森で倒れていたのと関係があるのかと、そう考えてしまう。クロトは記憶を失ってもなお、森から何かを感じ取っているのかもしれない。

 『妖精の住処』と呼ばれるあの森が、クロトに手招きをしているのだろうか。

 こっちへおいで、帰ってきなさいと。

 そしてあの子は、ある日忽然といなくなる。

 そうなったら、私は、エウリーは――


 いや、それは、とオルフェは思い直し、首を何度も横に振った。

 覚悟の上のはず。

 あの子の親になると決めた日。いつかあの子は記憶を取り戻す。いつか迎えがやって来るのだと。

 その”いつか”が、いつ来るのかは分からない。しかしその日は、確実に避けようもなく訪れる。

 ずっとずっと先であってほしいと、そう切に願っている。

 ただ一方では、記憶が戻らないままでいることが、あの子にとって本当に幸せと言えるのだろうか? そんな思いも、やはり付きまとっていた。

 この相反する思い。これはどれだけ考えを巡らせようとも、決してオルフェの中で折り合えるものではなさそうだった。


「先生、どうしたんだ?」

 傍らを歩くカロンが、心配そうにのぞき込んでいた。

「あ、いや」

 随分と思い詰めていたようだ。オルフェは気付いて苦笑した。

 まだ差し迫った問題ではないはずと棚上げにし、オルフェは無理にでも気持ちを切り替えることにした。

 クロトが駄々をこねたのだって、きっとオルフェがカロンと森に遊びに行くとでも思ったのだ。だから自分も連れて行けと、そうに違いない。

「ああ、そうだ。カロン」

 オルフェは、一つ伝え忘れていたのを思い出した。やや大きめの布袋の紐を、肩に掛け直す。

 診療所を出る直前で思いつき、森に持ち込む荷物を増やしたのだった。

「今日の森での探索なのだけど――」

 オルフェの言葉に、たちまちカロンの表情が一変した。

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