(三)ノ5
中庭での鍛錬はまだ続いている。肩で息をしながら短剣を構え直すオルフェに対して、ニクスはまだ余力充分に見えた。
攻守がまた入れ替わる。攻め手になったニクスは、オルフェの疲労を考慮してか、腕一本で木刀をごく軽く振るう。
だが、それでもオルフェにはもう、それを躱しきれるだけの体力は残っていなさそうだ。攻撃を受ける度にバランスを崩し、足元がおぼつかない。
オルフェの消耗はもはや昭然たるものだが、それでも容易に根を上げないのは彼の美点ではある。
ただ、もう終いにすべき頃合いだろう。このまま続けさせれば怪我をする恐れがあった。パーン司祭は二人に動きを見ながら、その切っ掛けを探った。
オルフェが後ろに跳び退き、ニクスとの距離が生じたのを見計らい、声を張ろうと息を吸う。
と、傍らのハルモニアが小さく息をついた。
パーン司祭は機先を削がれ、開きかけた口を噤んだ。視線を横へ向け、そっと彼女を盗み見る。
ハルモニアは、いつもの無表情だった。瞳の色は暗く、沈んでいるようでもあるが、やはり感情が見えてこない。
ただそれでも、とパーン司祭は思った。彼女の心の内で、オルフェに対して何か変わるものがあればと、そう期待することにした。
ゴンッ! と唐突に派手な音が響いた。
「あっ!」
同時にニクスが声をあげた。
パーン司祭は何事かとが視線を戻す。見るとニクスの木刀が、オルフェの額を捉えていた。受け損ねた短剣が、オルフェの手から滑り落ちて、石畳の上を小さく弾みながら転がる。
「オッフゥ」と、奇妙なうめき声。オルフェが両手で額を押えながらその場に蹲った。
「わあっ!」狼狽したニクスが木刀を放り投げた。
「先生っ! ゴメンっす」
すぐにオルフェの傍らにしゃがんで、下から様子を覗き込もうとする。
だが、自分ではもうどうして良いか分からないのだろう。すぐにパーン司祭の方へと顔を向けて、助けを求めてきた。
「司祭様あ」
親を求める子ネコのようなか細い声に、パーン司祭は即座に腰を上げた。
「あなたも来てください」と、ハルモニアに声をかける。彼女もすばやく立ち上がった。
急いでオルフェたちの元へ駆け寄ろうとする。しかし、後ろから付いてくる気配がなかった。
足を止めて振り返ると、なんとハルモニアは、背を向けて司祭館へと戻ろうとしていた。
「ハルモニア!」
パーン司祭は声を尖らせて咎めた。ハルモニアは落ち着いていた。静かな足取りのままで顔を横に向け、肩越しに視線を寄越す。
「あれでは腫れてしまいます。なにか手当するものを用意して戻ります」
彼女は平坦な口調で告げて、向き直った。姿勢よく、真っ直ぐに伸びた背中が遠ざかる。
これは少々、意外であった。パーン司祭は気を取られ、彼女が建物の中へと消える迄を見つめ続けた。
「し、司祭様あ」
ニクスの情けない声。
「あ」
パーン司祭は小さく声を上げた。そうだった。
「先生! 大丈夫ですか?」
パーン司祭は踵を返し、慌ただしくオルフェの元へと駆けていった。
*
オルフェは額の青あざに、濡らした亜麻布を当てながら診療所へと戻った。
痛みに目がチカチカとする。打ち込まれた瞬間は、視界に銀粉が舞うかのような衝撃だった。
ニクスとの手合せで怪我をしたのは初めてだ。ただこれは、躍起になった挙句のことなので、自業自得でしかない。
以前よりもニクスの動きが見えるような、そんな気がしたのだが、やはりそれは、本当にただの気の所為だったみたいだ。
オルフェは自らを嘲るように、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ただいま」
玄関ドアを開けてホールへと入ると、しんと静まり返っていた。
オルフェは小首を傾げた。人の気配が感じられない。エウリーケはクロトと二人で出掛けたのだろうか。
散歩かな、と思いながらそのまま診察室に入る。壁掛け鏡の前に立ち、額の青あざの具合を確認した。
見事に腫れあがっていた。指先で強めに押してみる。頭の中にまで響くような痛みが走った。
「イタタッ」
顔を歪め、薬棚の引出しから、乾燥粉末にしたオトキリクサの包み取り出す。
それを乳鉢に落とし、アルコールを少量づつ垂らしながら、乳棒で練るようにして溶いた。さらに亜麻仁油を適量、混ぜる。
亜麻布に染み込ませて、青あざに塗った。しばらくすれば痛みは緩和され、腫れの引きも早くなるはずだ。
オルフェは薬液を塗布しながら思い出し、つい苦笑した。
この亜麻布は、ハルモニアが持たせてくれたものだ。彼女が水を張った容器を手にして戻って来たのには驚いた。
水は井戸から汲み上げたばかりで冷たかった。亜麻布に浸して絞り、彼女が自らそっと額に当ててくれた。
ただ愛想の無さは相変わらずで、あんなにも緊張して受けた手当ては初めてだった。痛みに悶えると、「じっとしていなさい」と叱りつけてくるのである。
緊張のあまり、二クスと約束したビワを貰い忘れて帰る始末だ。
オルフェは額の手当を済ませると、二階の寝室へと入った。すると、出掛けたものと思っていた二人が、そこにいた。
オルフェは気付いて、物音を立てぬように足を忍ばせた。
二人はエウリーケのベッドで、仲良く眠っていた。クロトをお昼寝させようとしているうちに、エウリーケも一緒に夢の中へと付いて行ったようだ。
傾き始めた陽光が深く入り込んで、二人の上に長い影を落としている。
開け放たれた窓から風が一流れ。遠慮がちに、カーテンの裾を持ち上げた。風は少し冷やかな空気を運び入れ、オルフェは二人が寒がらぬようにと、そっと窓を閉めて遮った。
そして息を押し殺しながら、そろりとベッドの枕元に腰を下ろす。
二人は同じようなリズムで、微かな寝息を立てていた。オルフェは静かに見守った。
自然と口元が緩む。
オルフェは今、目に映っている光景の全てが、愛おしくて堪らなかった。
クロトが少し息を大きくした。眠りが浅くなっていたのか、僅かな空気の変化に目を覚ました。
瞼を半分だけ押し上げ、すぐにまた、ぎゅっと閉じた。瞼の上から丸い手で擦る。そうしてからもう一度、今度はしっかりと見開いた。
琥珀色の瞳が、オルフェへと向けられる。
「起きた?」
オルフェは囁いて、その瞳に柔らかな笑みで応えた。
クロトも返そうと口を動かした。声は発せられない。でも聞こえてくる。
しーっと、幼い唇に人差し指を当てる。
「ママが起きちゃう」
オルフェが声を潜めると、クロトの瞳は傍らのエウリーケへと動いた。彼女はまだ夢の中にいる。
クロト、もうこっちに帰って来ているよ――
心の中でエウリーケに呼びかけてみた。クロトもその小さな手で、母の手を握って呼びかける。何とも愛らしい仕草だ。
名状しがたい幸福感が、オルフェの心を満たした。
このまま、ずっと――
いつまでもこうしていたい。そう思わずにはいられなかった。