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(三)ノ4

 パーン司祭は昂った感情を逃がそうと息をつき、そして意識を前へと向けた。

 視線の先では、ビワのおすそ分けの約束で機嫌を直したオルフェが、仕切り直しでニクスへと挑んでいる。

 右に駆け、左へ跳び、その度にアッシュブロンドのポニーテイルが忙しなく揺れた。その毛先の動きを目で追うだけでも、とても懸命なのだと伝わる。


「ハルモニア、あなたは何故、先生がニンフの森へと入るのか、その理由を知っていますか?」

 パーン司祭は前を見据えたまま、尋ねた。

「それは、薬を作る為の材料が必要だからと、そう認識しておりますが」

 ハルモニアが応え、パーン司祭は「ええ、そうですね」と、頷いた。

「その通りです。でも本来であれば、彼がそこまでする義務はないと、そうは思いませんか?」

「それは、どういう……」

 ハルモニアが言葉を詰まらせた。この村に赴任してからまだ間がないとはいえ、それでももう、三ヶ月ほどが経っている。

 ムーサイの教会に仕える身となりながら、まだその程度の認識でしかない彼女に、パーン司祭は落胆した。


「良いですか? ハルモニア。先生は教会に雇われているだけの立場です。教会からの運営費が充足さえしていれば、ダイタロスで必要な薬や医療道具を買い求められます。それが本来あるべき形です。診療所は教会の福祉施設。先生は村人から治療費を頂いているわけではありませんよ」

 つまり診療所は、いくら盛況しても収入にはつながらない。それどころか支出が嵩んでいくだけであった。

 ハルモニアは少し考えてから、口を開いた。

「では、オルフェ先生が森に入るのは、教会からの運営費が少ない所為で薬が買えず、その不足分を補う為だと。そういうことでしょうか?」

「はい、そうです。先生は不平めいたことは一切口にしませんが」


 もちろん村の人たちとて人頭税に加え、『十分の一税』を教会に納めており、教区領民としての務めを果たしているので、診療を受ける権利がある。

 十分の一税とは名前の通りそのままに、収穫した農作物や、川魚、解体した家畜の肉、鶏卵、牛乳、羊毛、醸造酒、またはそれらを売って得た貨幣など、とにかく己が得た全ての物の十分の一を教会に納める税で、教区の村人の義務である。


 アスクレラスの頃、診療所を立ち上げてしばらくは、運営費の不足はあまり深刻とはならなかった。

 診療所がどのような施設なのか、それすらも知らぬ村人が殆どだった。そこからのスタートだったのだ。パーン司祭は、当時のことを思い返した。


 元領主別邸マナーハウスの改装を快く手伝ってくれた村人も、いざ診療所を始めてみれば、なかなか寄り付こうとしなかった。

 いきなり余所者の子連れ女が現れて、あなたの怪我を手当てします。病気になれば薬をお出しします。ああ、お代は結構ですよ、である。

 猜疑心を抱き、警戒するのも無理はなかった。創設してしばらくは、閑古鳥が鳴く日々が続いた。


 それでも腰が痛いと、グライア婆が最初にドアを叩いた。老婆はそのまま診療所の常連となり、二人の子供の守り役となった。

 その後間もなくして、エウリーケが同い年のオルフェと友達になり、次に破水した妻を抱きかかえたヘファイトが、藁にも縋る思いで駆けこんできた。

 パーン司祭も人手に駆り出され、グライア婆と見守る中、一晩かかる難産の末に、エクニオスはこの世で産声を上げた。もしアスクレラスがいないこれまでならば、間違いなく死産だった。

 ヘファイトは涙と鼻水で自慢の髭を濡らし、アスクレラスにこれまで疑っていたことを詫びて、何度も何度も頭を下げながら感謝の言葉を繰り返した。


 パーン司祭は、その光景に涙した。診療所を立ち上げられて良かった。心からそう思えた瞬間だった。

 医療施設のなかった村では、子供が無事に生まれ、大人にまでなれる割合は決して高くない。エクニオスも、名付けられることもないままに教会の墓地の土の中へと還っていただろう。

 この診療所によって、一つの命が救われたのだ。

 すべてアスクレラスのおかげ。彼女が診療所に訪れる者を笑顔で迎え入れ、どんな怪我や病気にも真摯に向き合ったから。だから診療所は、村に存在意義を持つようになったのだ。


 そして今、アスクレラスが得た村人からの信頼と愛情は、そのままオルフェへと受け継がれ、育まれ続けている。

 村にとって診療所はもはや欠かせない。自分の体をいつでも診てもらえる。不安が拭われる、その安心感を村人たちは知った。

 だから待ち合いの玄関ホールは順番待ちに溢れ、それが当たり前の場景となった。

 礼拝堂での朝の祈りを終えた村人たちは、そのまま挙って診療所へと向かう。パーン司祭の日課に、そんな彼らの後ろ姿を見送るのが加わった。聖職者として、これ以上に誇らしいものがあろうはずもない。


 ただ、そうなれば当然、運営費が嵩んでいく。これは一小教区の司祭の立場では、どうすることもできなかった。

 村の診療所は、教区の統括司教の管理下にあったからだ。パーン司祭に運営額を決める権限がなかった。

 それでもアスクレラスの頃はまだ、ニンフの森に入るのは時折程度で済んでいた。ただオルフェの代になり、今ではもう、ほとんど七日に一度の休診日ごとである。

 非力と自認し、それでも命がけで森に薬草を求め続けてきたその彼がいなければ、診療所はとっくに立ち行かなくなっていただろう。

 だからこそパーン司祭は、ハルモニアのオルフェに対する言いようを看過するわけにはいかなかった。


「おそらく」と、パーン司祭は言った。

「先生は村の人たちに、本当のことを言っていないでしょうね。気兼ねするでしょう? 診療所に来れば、それだけ運営が厳しくなるなんて知れば」

 ハルモニアは間を置いてから、小さく首肯した。

「あなたは先ほど、私が以前に先生の護衛をしていたことを安易と詰りました。ですが私とて、司祭という立場を軽んじていたわけではありませんよ。それでも、どれだけ祈りを捧げても、ただそれだけでは救えない命があるのです。私はそれを思い知らされてきました。だからこそ診療所を村に立ち上げられたのは、私の誇りなのです。そして診療所は、先生の献身のおかげで成り立っています。足りもしない運営費だけ渡して、あとは知らない顔なんてどうして出来るというのでしょうか? 先生は危険を承知の上で、命を掛けてなさってくれているのです。ならばせめて先生を守りたいと考えるのは、当然ではありませんか? 私はそう思います」

 パーン司祭は思いの丈を一気に口にした。オルフェに対するこれまでの感謝の念と、そして負い目。気持ちが溢れ、言わずにはいられなくなった。

 それは同時に、今はもういない、アスクレラスへと向けたものでもあった。


 ハルモニアは無言だった。ただそれでも彼女の表情が、これまでの峻拒の態度とは違った。

 それを認めてパーン司祭は、ハリネズミのように立てていた感情の針が寝ていくのを感じた。

「ハルモニア」と、口調を和らげる。

「あなたが先生を快く思っていないのは知っています。またその経緯や事情も理解しますよ。先生の情けない姿でも拝めれば、溜飲を下げれると期待しましたか?」

「あの、司祭様、私は――」

 ハルモニアは言いかけたが、パーン司祭は静かに首を横に振って遮った。

「良いのです。聖職者も人です。そしてそういった考えを持つのも、人としての当然の一面でしたね。それなのに私もつい、あなたに感情的になってしまいました。謝罪します。このとおりです」

 パーン司祭はハルモニアに対して頭を下げた。これにはさすがのハルモニアも慌てた。

「そんな、お止めください、司祭様。おっしゃる通りなのです。私は確かに浅ましい考えを持ちました。許しを請うべきは私の方です。ですからお願いです。どうかお直り下さいませ」

 パーン司祭は頭を下げたまま、上目使いにハルモニアを見た。その表情には茶目っ気が多分に含まれていた。

「そうですか? では」

 ケロッとした様子で頭を上げる。彼女が挙措を失うさまを見て面白がった。そうと気付いたハルモニアは、「まあ」と呆れ声をあげて抗議した。

「人が悪いですよ。司祭様」

 パーン司祭はアハハ、と笑った。それから「ただ」と、声を改めた。

「あなたに分かってほしかった。彼はあなたが望むような軟弱な臆病者ではありません。勇敢で、尊敬に値する人物なのだと――。先生は、私のとても大切な友人です」

 ハルモニアは応えなかった。ただ黙って顔を前にやった。

 その視線を辿れば、呼吸を乱す青年の姿があった。村の人たちの為に危険に身を投じながら、それでもただ守られるだけの自分を良しとしない。懸命に強くありたいと自己研鑽に勤しんでいる。


 手を膝につき、オルフェは背中を丸めた。汗が垂れ、アッシュブロンドの髪が白い肌の額に張り付いて濡れていた。疲労の色が濃い。

 それでも端正な顔を上げて、目の前で仁王立ちする若者を、キッと見据えている。

 パーン司祭はそんな彼の横顔が、とても美しいと感じた。

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