(三)ノ2
パーン司祭は、司祭館から礼拝堂へとつながる外回廊に出て、石畳を敷き詰めただけの中庭を望んだ。
その中央では既に、オルフェとニクスの二人が対峙している。
腰を低く落としているのがオルフェ。逆手に持つ短剣の刃をニクスへと向ける。
アッシュブロンドの長髪は、体を動かすのに備えてだろう、朱色の組み紐で、ポニーテイルに結い直されていた。
一方のニクスは木刀を中段に構え、その切先でオルフェをけん制した。
まだ十八歳と、少年の面差しを残すニクスは小柄ではあるが、袖なしのチュニックからむき出しの腕は力瘤が逞しい。単純な力比べに限れば、カロンを凌ぐほどに、この若者は強かった。
そんなニクスを相手にして、オルフェはこれまで度々手合せで挑んできた。森に入る際に自分の身ぐらいは守れるようになりたいと、その為に続けてきた鍛錬である。
二人の実力差からすれば、それは定番の歌劇のように結末の見えるものだが、それでもそんな舞台にも、今日は珍しい観客の姿があった。
何の気まぐれか修道女のハルモニアだ。彼女は中庭の端で、石を長方形に切り出しただけのベンチに腰掛けていた。
「横を、失礼しますよ」
パーン司祭は断りを入れて、彼女と同じベンチに肩を並べて座った。「どっこいしょ」と、年寄りくさいと思いながらも、つい口に出してしまう。
「珍しいですね、あなたが――。どういう風の吹き回しです?」
パーン司祭は思ったままを訪ねた。ハルモニアはチラリと横目を向けてから、またすぐに視線を戻し、「いえ」と無表情に応えた。
「特に、理由は。少し中途半端に時間が出来ましたので。こちらにある本はあらかた読み終えてしまいましたし」
なにか言い訳じみて聞こえたが、深追いすれば怒られそうなので、パーン司祭は「そうですか」とだけ返し、意識を前へと向けた。
「先生、良いっすか? いきますよ」
「ああ、遠慮はいらない。どんどんと来てくれ」
オルフェが応えると、ニクスは幼さのある顔にニヤリと、悪戯っ子の笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちゃんと防いでください、ね」
言い終わらぬうちから身軽に跳び、あっという間にオルフェの横へとつけてきた。
「右っ!」
掛け声と共に木刀を薙いだ。
オルフェは辛うじて躱すが、もう反対側へと立ち位置を変えたニクスが、「はいっ、左!」と続けて打ちつけてくる。今度はそれを短剣で凌ぐ。
「いい感じっすよ、先生。上からいきます」
ニクスは高く跳び、オルフェの頭上から木刀を振り下ろした。
「ほいっ」と、ニクスはごく軽くといった感じだが、それでもオルフェの細腕には重すぎたようだ。
「くっ!」
短剣で受け止めたものの、堪えきれずに腰を落として片膝をついた。オルフェの動きが止まった。
「まだまだあ」
しかしニクスは、それでも攻勢の手を緩めない。片足で着地すると、不十分な体勢もお構いなしに、オルフェの顔面へと木刀を叩き込む。
「うわあっ!」
端正な顔が崩れ、思わずといった声が上がる。既の所でオルフェは上体を仰けに反らして躱すと、そのまま石畳の上を転がった。
すぐに体を起こそうとしたが腰を上げきれずに、結局はへたれ込み、しりもちをつく格好となる。
ニクスは、ほうと息を吐き、一連の動きを止めた。
「やるじゃないっすか、先生。ちゃんと反応出来てたっすよ」
「今のは意地が悪いぞ。どこを狙うのか言ってくれていない」
「獣がわざわざ予告して仕掛けてくるわけないでしょ。先生はオレの掛け声をアテにし過ぎっすよ」
「それでもニクス、少しやりすぎだと思わないか? 危ないじゃないか」
「遠慮するなって言ったの、先生っすよ」
「言葉はそのまま受け取るものでない。遠慮してくれ」
「鍛錬にならないっすよ、そんなの」
ニクスは木刀を肩に担ぎながら呆れ顔になった。
そんな二人のやり取りに、パーン司祭は思わず苦笑をもらした。
ニクスはああ言ったが、実際のところ充分に遠慮して手加減していた。オルフェがどうにかこうにか凌げたのも、ニクスが寸前で勢いを緩めていたからだ。
当事者はともかく、傍から見ていれば分かりやすい。それは荒事とは縁遠いハルモニアですら、そうと察せられるものだったようだ。
「ニクスは随分と強いのですね。驚きました」
ハルモニアは感想を述べた。ただし、驚いたという言葉の割には、平坦な口調にさほどの熱量はない。
「ええ、あの子は体が小さかった所為もあり、それはもう、懸命に鍛錬を積んできましたからね」
ニクスを息子同然に思うパーン司祭は、小鼻を蠢かすようにして応えた。
「何故、でしょうか?」
「何故とは?」
「いえ、どうしてそのように鍛える必要があったのかと」
「ほう」
パーン司祭は意外に思い、それを声に出した。なにか? とハルモニアが顔を向けてくる。
「いや、失礼。まさかあなたが、ニクスに興味を持ってくれるとは思わなかったもので」
「興味? ああ、いえ、違います。ただの疑問です。下男の立場で強くあろうとする必要性が思い浮かびません。それで尋ねてみただけです」
「そうですか。ただの疑問――、ですか」
にわかに期待した分だけ「まあ、そうなのでしょうねえ」と、パーン司祭は小さな落胆の息をつく。
「まあ、お答えしますと、私の代りに先生の護衛役を務める為、といったところでしょうか」
「先生とは、オルフェ先生のことですね。代り……、えっ、まさか司祭様がですか?」
ハルモニアの声色が、ようやく感情を含むものへと変わった。
「ええ、そうですよ。私は先生の最初の護衛役でした。先生が森に入る際には守る者が必要です。もちろん護衛も命がけですからね。村人の誰かに気安く頼めるものではありません。まあそれは建前で、一番は私が自分でやりたかっただけですが」
「そんな……、司祭様のお立場でそのような危険な真似。あまりに安易ではありませんか」
ハルモニアは言葉に非難の色を隠そうとはしなかった。それも無理のないことだと、パーン司祭は思った。
『司祭』とは、神職における祭式のほぼすべてを行う権限を有し、階級は上位に属する。
ハルモニアがムーサイの赴任に際して与されたのは『助祭』。その一つ上なだけとはいえ、それでも祭式の補助程度しか許されない彼女とでは、立場の違いに天と地ほどの隔たりがある。
「そうですね。おっしゃる通りです。ニクスにも同じように苦言を呈されました。まだあの子が子供と呼べる歳の頃にです。しかし私は聞き入れませんでした。先生を守るのは私の責務と思っていましたから」
「どうしてでしょうか? 何故、あのようなも――、いえ、オルフェ先生の為に、司祭様が体を張らなくてはならなかったのですか?」
「ニクスはあなたみたいに言いませんでしたね。一言も。あの子は子供ながらに理解していましたよ。先生がなさっていることの大切さを。そして誰かが先生を守らねばならないことも。だからこそ、あの子はがむしゃらに鍛えたのです」
ハルモニアは押し黙った。彼女は嫌いな苦瓜をしぶしぶ口にした時のように、眉間に皺を寄せて難しい顔となった。パーン司祭の言葉を、懸命に咀嚼しているのだ。
やがてハルモニアは、「ああ」と声を上げた。合点がいったようだ。
「それではニクスは、司祭様の為に自らが護衛の役目を担おうと?」
パーン司祭は頷いた。
「はい、ご明察です。なのでニクスは強くなる必要があったのです。私よりもずっと。先生の護衛は自分の方がよほど適任だと、私をそう説得する為に。私を危険から遠ざけようとしてくれたのです」
「そうでしたか、司祭様の身を案じてでしたか」
ハルモニアは納得の声をあげ、視線を前方の二人へと向けた。
「それはとても殊勝なことです」と、感心した口調になって言った。司祭という敬うべき対象へのニクスの献身に、彼女は満足した様子だ。
ただ本当のことを言えば、そればかりが理由ではなかった。しかしそれを、今は彼女には告げないでおこうとパーン司祭は思った。
――あの子は危うい。
オルフェは、ニクスをそう評した。それはパーン司祭も同意見だった。
パーン司祭は、軽快に動き回るニクスへと意識を向ける。
「先生の後ろ、もーらい」
オルフェの背後を取り、「へへん」と得意気なニクス。オルフェは、ぐぬぬ、と悔しがっている。
ニクスは、とても楽しそうだ。
こうやって屈託なく笑うニクスの姿は、パーン司祭にとって感慨深いものだった。
ニクスとは長い年月を共に暮らしてきた。立場は下男としてだが、貞潔を誓う聖職者として独身を貫くパーン司祭にとって、彼は息子も同然の存在である。
顔立ちこそ未だに少年であるものの、本当に逞しく育った。
髪の色は茶トラのようにムラがあり、毛質が固く、威嚇するネコさながらに逆立っている。身長はあまり伸びず、立ち並んだオルフェの目の高さにも届かない。
彼が今踏みしめている石畳。その隙間からは雑草が立っていた。いくら抜いても、またすぐに伸びてくる。
あの子も同じだな、とパーン司祭は思った。根が強い。
村の力自慢の大人たちが、子供の頃のニクスの特訓相手だった。最初はまったく歯が立たなかった。何度も負けた。
幾度となく叩きのめされたが、またすぐに立ち向かっていく。負けん気の強さは当時から一人前。そうやってニクスは強くなったのだ。
そんな彼を森から遠ざけさせたのは、実はパーン司祭だった。
これはニクスも知らないことで、もしそうと分かれば彼はどのような反応を示すのだろうか? 気持ちを知りながらどうしてと、詰め寄ってくるのかもしれない。
しかしそれでも、ニクスがそうであったように、パーン司祭もまた、ニクスの身を案じた。親を目の前で獣に殺されたあの子には、森に入ってほしくなかった。
森で獣に殺された人間は、ほぼ例外なく連れ去られ、そして喰われる。ニクスは親を弔うことすら出来なかった。
だからニクスは、獣に対して強い加虐性を見せるようになった。
実の親の断末魔の叫び、そして血まみれの死に顔。力なく項垂れ、森の奥へと消えていく――
薄れることのない記憶が感情を支配し、自身を見失う。オルフェの制止に耳も貸さず、人格が変わってしまうほどに。
そんな森での様子に、オルフェからは再三にわたって相談を受けた。あの子は危うい、と。
パーン司祭は理解した。ニクスが強くなったのは、パーン司祭やオルフェを自分の親と同じ目に合わせたくないから。そして同時に、自身の手で獣をひたすら殺す為。
ニクスを森にやるのは間違いだった。パーン司祭は誤りに気付いて後悔した。
しかしもう、中年司祭ではニクスに取って代わるのは不可能だった。強くなった彼に、村で敵う者など誰もいなくなってしまっていた。
だからニクスは、オルフェの護衛役として一番の適任者であり続けたのだ。
カロンが、この村に居つくようになる前までは――




