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(三)ノ1

「それでどのような感じですか? クロトちゃんとは」

 パーン司祭は、発酵させたチャキの葉で煎れた紅茶を一口啜ってから、そう尋ねてきた。

 ダイタロスから取り寄せているという茶葉は、清貧を神に誓い、節制を旨とするパーン司祭にとって、白磁に青の濃淡で草花を描いた上品なティーカップと共に、それでも手放せない数少ない嗜好品のようだった。


 パーン司祭と同じテーブルにつくオルフェは、「そうですね」と微笑む。

「確かにクロトは口がきけませんが、コミュニケーションに苦労はありませんよ。こちらの言うことは理解が出来ていますし、クロトもしっかり意思表示して伝えてくれますから」

 ほほう、とパーン司祭はやや垂れ下がった目を、嬉しそうに細めた。

「そうですか。今日でええっと、もう十日ほどになりますか。ならばそろそろ落ち着いてきた頃ですね」

「いえ、新米のパパとママですからね、私とエウリーは。毎日がもう、バタバタです。でも診療所が忙しい午前中なんかは、お婆に見てもらって。エクニオスも遊んでくれます。みんなの助けがあるので、それでまあ、なんとか」そう言って、オルフェは苦笑いを浮かべた。

「クロトのほうがよほどしっかり者ですよ。あの子も最初こそは戸惑って、怯えた態度を見せたりもしていましたが、子供の適応力には感心させられます。すぐに今の状況を理解し、私たちのことも、庇護者としてはどうやら受け入れてくれたようです。落ち着いたものですよ、本当に。それなのに、どうにも私やエウリーのほうがあたふたと」

 アハハ、とパーン司祭は声を上げて笑った。

「まあ、あなたたちはともあれ、クロトちゃんがその様子なら、まずはなによりです。安心しましたよ」

「ええ、まあ、そうですね」

 オルフェは応えて、紅茶に口をつけた。

 熱すぎない、ただそのほうが香りは華やぐ。苦味は柔らかで、日頃から愛飲しているセージのツァイと比べれば、これは明らかに上質な美味しさである。

 ただ、この紅茶を淹れてくれた助祭のハルモニアは、今日もやはり淡々とした応対で、それはもう、キュレネー山脈からの雪解け水のような冷やかさだった。

 それを思い返すと、「ごゆっくり」という言葉とは裏腹に、長居するなよと暗に言われているようで、なにやらお尻の座りが悪くなってくる。


 オルフェはこの日、診療所の隣にある教会の司祭館を訪ね、その応接室に通されていた。

 先日行ったクロトの洗礼式の礼を述べる名目であるが、それにかこつけて、パーン司祭と二人で駄弁に興じる腹積りだった。

 パーン司祭もそろそろ五十歳が近い。オルフェとは親子ほどの年齢差となるが、それでも不思議と気が合い、二人は茶飲み友達である。


「先立っての洗礼式、あのぐらいの子であればぐずったりするものですが、最後まで大人しくしてくれましたね。おかげで良い式になりました。ええ、とても利発な子だと感心しましたよ」

 パーン司祭は言ったが、オルフェは返事をしなかった。代りに口を両手で覆うようにして隠した。

「どうしました?」

 パーン司祭が怪訝そうな目を向けると、オルフェは「いえ」と、小さく首を横に振った。

「親バカの自覚はなかったのですが……。どうも、これは――。嬉しいものですね、子供を褒められると」

 そう言って照れた。


 パーン司祭は、ふふ、と髭を丁寧に剃った口元に皺を刻み、目を細めながら微かな笑みを携えた。それは少々、気障な表情の作り方だった。

 唇は薄く、大きな鼻は直線的で筋が通っている。垂れ下がり気味の瞼の直ぐ上に、きりりとした濃眉。

 オールバックに丁寧に撫でつけらた髪は、いつ見ても一筋の乱れもなく、そんなナイスミドルを気取る司祭だが、実は神職にありながら能動的な肉体派で、鍬を担いでは、村の農作業の手伝いを嬉々として買って出るような人物である。

 村人を安寧に導くのが、この地に赴任した聖職者としての務めだと、その為の尽力を惜しまない。

 かつてはオルフェの母親のアスクレラスを説得し、上位階で教区の統括司教に直談判してまで、この村に診療所を立ち上げたのもパーン司祭だった。


 オルフェは、そんなパーン司祭とテーブル越しに向かい合いながら、先日のクロトの洗礼式を思い返した。

 かつての自分と重ねながら見つめたそれは、教区の村で生活するのなら、何を差し置いてでも受けるべき儀式サクラメントである。

 オルフェも、母アスクレラス、妹のテュケと共に、パーン司祭の手によって洗礼を受けていた。

 聖なる川、レーテの水で前世の原罪を洗い流し、罪のない清らかな体で神の加護の下、現世を生きる。そういう考え方である。


 あれから、もう十五年が経つ。

 目の前のパーン司祭も、今では髪に白いものが混じるようになり、目尻には皺が深く刻まれるようになった。

 毎日のように顔を合わせている為か、あまり印象が変わらないようでも、こうして思い返せば、やはり当時よりかは幾分、草臥れているようだ。


 オルフェの時と同じく、パーン司祭によるクロトの洗礼式。オルフェの時にはいなかった助祭が脇に控えている。ハルモニアはこの地に赴任して、まだ間がなかった。彼女は二十歳を迎えたばかりの修道女シスターだ。


 石積の壁。天井が吹き抜け、微かな物音も高く響く。ステンドグラスは陽光を彩りながら透かし、陰鬱な空間を神秘的なものへと演出する。

 見慣れていたはずの礼拝堂も、この日は厳かな空気に満たされていた。

 その独特な雰囲気に、クロトも只事とは思わなかったはず。それでも終始大人しく、従順に受洗した。

 胸の前で両手を組み、頭を垂れて祈るクロト。

 パーン司祭は女神レーテへと呼びかけ、クロトは信心深きあなたの子供だと告げて祝福を願う。

 助祭ハルモニアが差しだす銀杯からレーテ川の水を手に掬い、それをクロトの頭に注いだ。


 幼いクロトには、この儀式の意味を理解しようもない。それでも静かに受け入れるその姿は、ある種の高潔さを感じさせた。

 だからオルフェは、クロトが誇らしかった。

 パーン司祭の先ほどの言葉を真に受けたつもりはなくとも、うちの子は本当にお利口さんなんです、と拡声器を片手に村中を触れ回りたくなるほどだった。


「運命を紡ぐもの」

 パーン司祭が、つぶやくように言った。

「何です? それは」

「クロトちゃんのことです。教典に古くからある言葉ですよ。人の運命を司り紡ぐ存在――。概念とでも言うべきですか。それが『クロト』です」

「へえ」

「あなたとエウリーケさん。そしてクロトちゃんの運命は紡がれ、一つになる。つまりそれは家族です。エウリーケさんはそんな思いを込めたのでしょうね」

「なるほど、そんな意味があったのか」

 オルフェは感心して唸った。確かに名前決めの際に、エウリーケも「これは運命だから」と言っていた。教区外の余所から流れ着いたオルフェには、初めて知る言葉だったのだ。


 ドアがニ度、ノックされた。

 パーン司祭が「どうぞ」と応じると、澄んではいるが平坦な口調で「失礼します」と、若い女性の声がドアの向こう側から聞こえた。一拍の間を置いて、助祭を務めるハルモニアが応接室へと入って来た。

 彼女は簡素な黒い修道着を纏っており、それは少々痩せすぎな体をより強調させるものだった。平服で頭巾はしておらず、藍色の髪は真面目な彼女らしく、大きな三つ編みで一つに結わえてあり、前は眉の位置できっちりと切り揃えていた。


「司祭様、お邪魔して申し訳ありません」

 ドアの前に立った彼女は背筋を伸ばし、一礼をした。

「構いませんよ、ハルモニア。それで何でしょうか?」

「はい」

 ハルモニアはオルフェへと顔を向ける。切れ目の中の瞳の色は暗く、顔立ちは綺麗だがそれは大理石のように無機質で、およそ柔らかさを感じさせない。

「オルフェ先生、ニクスが今なら手合せの時間が取れると申しております。如何いたしますか?」

「え? あ、ああ、そうだな。うん、じゃあ、せっかくなのでお願いしようかな」

「承りました。準備するようニクスに伝えます」

 彼女は小さく頷いた。用件を済ませ、無駄口の一つや二つ愛想で交わしても良さそうなところであるが、ただハルモニアにはその気がないようだ。彼女は中礼をすると踵を返し、早々に立ち去ろうと、ドアノブに手をかける。

「ああ、シスター」オルフェはそれを引き止めた。

「何でしょうか?」

 ハルモニアは振り返る。オルフェは紅茶の入ったティーカップを手に取って、軽く持ち上げた。

「あなたが淹れてくれたこれ、とても美味しいです。ありがとうございます」

 オルフェは礼を述べたが、しかし彼女の表情はまったく緩まなかった。

「湯を注ぐだけです。誰が淹れても味が変わるものではありません」

「ハルモニア」

 にべもない物言いに、パーン司祭はさすがに顔を歪めて彼女を咎めた。それでもハルモニアは一向に構う様子を見せない。

「それでは中庭のほうにニクスを向かわせますので、オルフェ先生もおいで下さいませ。失礼します」

 そう告げて改めてもう一度、中礼をして、ドアを静かに閉めて立ち去った。その彼女の足音が遠ざかるまで、オルフェとパーン司祭はドアを黙って見つめた。

 ハルモニアの所作はどこまでも折り目が正しく、ただそれだけに隙のない、相手に堅さを与えるものだった。


 やがて、やれやれ、とパーン司祭がため息を交えながら言った。

「申し訳ないですね、先生。ハルモニアには後で言って聞かせますので」

「いえ」と、オルフェは首を横に振った。彼女に良い感情を持たれてないのは自覚していた。

「それはよしてください。なにか、逆効果になりそうです」

「そうですか? まあ、そうなのでしょうね」

 パーン司祭はもう一度ため息をつく。


 ハルモニアがこの村に赴任してから、まだ三か月ほどと日が浅い。

 彼女は元々は交易都市ダイタロスの外、人里離れたキュレネー山脈の麓の女子修道院の中に居た。物心ついた頃からのようだと、オルフェはパーン司祭にそう聞かされていた。

 ずっと修道院という狭い世界の、女性だけの中で育ってきた彼女が、上位階からの命令とはいえ、ムーサイ村の教会への赴任に不満があるのは間違いない。

 貞潔を神に誓った修道女ハルモニアにとって、男はその誓いを汚そうとするだけの存在に過ぎない。同じ聖職者のパーン司祭やその下男のニクスはともかく、オルフェに対しては殊更に風当たりが強かった。


 その理由もどうやら、自分と似たような年頃の村娘たちが、先生オルフェ何処其処どこそこを見られた触られたと、診察の様子を嬉し恥ずかしそうに話しているのを、耳にしたからのようだ。

 加えて言うならば、オルフェは赴任してきて早々の彼女の体に触れてしまい、めでたく不埒者の烙印を押されていた。その所為もあり、ハルモニアの心は、板金鎧プレートアーマーを纏ったかのように頑ななものであった。


「それでは先生は、これから鍛錬ですか……」

 話し足りないらしく、パーン司祭は「すぐに行っちゃいます?」と、上目遣いで名残り惜しそうに言った。

「ええ、せっかくニクスが相手をしてくれるようなので。待たせては申し訳ないですし。なので司祭様、今日のところはこれで」

「精がでますね。ならば私も見学に伺います」

「私のへっぴり腰を笑いに? 趣味が悪いですよ」

 アハハ、とパーン司祭は笑った。オルフェも微笑を浮かべて、残った紅茶を飲み切ろうとティーカップを手に取る。

 赤褐色の液体に映った自身の影が波に揺らいだ。


 この紅茶は確かに美味しい。彼女は誰が淹れても同じだと言ったが、それは違う。

 お湯の温度や蒸らす時間、注ぎ方一つとっても、いい加減に淹れれば、それはそのまま味に現れる。

 だからこの美味しい紅茶を淹れてくれたハルモニアに、オルフェはただそれだけで悪感情を抱けそうになかった。


 そういえばと、先日の洗礼式での彼女の祭服姿を思い出す。いつもとは違い、頭巾で前髪を収めていた。

 彼女の日頃はお目見えしないおでこは、案外と丸く、それが妙に可愛らしく思えて印象に残った。

 もしそれを、正直にハルモニアに伝えてみたら、彼女はどのような反応を示すだろうか。想像してみると、それだけで身がすくみそうになった。

 オルフェはそっと苦笑して、カップに残った紅茶を飲み干し、席を立った。

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