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(二)ノ7

 オルフェとテュケは、診察室から隣の部屋の食堂へと移った。部屋の中央には、簡素な四人掛けのテーブルを置いている。

「ツァイでも淹れよう」

 オルフェはそう告げて、続き間である調理場の土間へと降りた。ツァイとは野草茶のことで、オルフェはセージを煮出して飲むのを好んだ。

「ああ、いいよ、そんなの」とテュケは言った。

「気使ってくれなくても」

「私が飲みたいんだよ」

 オルフェは笑って応えた。

 調理場はレンガ積みにモルタルで塗り固めた窯と、グリルする為の炉が並んで備わっている。古い建物ではあるが、元々が領主の別邸であったので、造りはしっかりとしており、設備に不足するものはなかった。

 窯には今朝に入れた炭火の余燼で、熱が溜めこまれていた。オルフェは手押しポンプで少量の井戸水をくみ上げて湯沸し鍋に注ぎ、それを窯に乗せた。


「私は焦っていたみたいだね……」

 オルフェは窯の前で湯が沸くのを待ちながら、自嘲するようにつぶやいた。

「どうしたのさ? らしくもない」

 テュケの口調は優しかった。彼女はテーブルの席にはつかずに、食堂の床と調理場の土間との段差部分に腰を下ろした。

「事情が知りたくて……。エウリーの気持ちや、お婆や村の人たちの声が――、いや、これは言い訳になってしまうね。とにかくゆっくりで良かったんだ。なのに、あの子を混乱させてしまった。目を覚ましたばかりで、何も状況を分かっていなかっただろうに。エウリーが諌めてくれなかったら、私はどうしたら良いのか分からなかった」

「それを言うなら、私だって興奮してさ、ちょっと調子にのちゃってたし。エウリー義姉さんも同じようなところはあったよ。でも兄貴が来てくれて間が持てたから。だから義姉さんは気付いたのだろうし」

「それでも――。やはり、エウリーには敵わないな」

 オルフェは微苦笑を浮かべた。

 沸いた湯に、乾燥させたセージを少量投じる。

「まあ、義姉さんはね、ああいう人だから。でもね、兄貴。さっきのも別に、兄貴に落ち度があったとは思わないよ。あんなのは想定外だよ」

「どうした?」オルフェはテュケへと顔を向け、笑みを浮かべる。

「ん?」

「今日はやけに庇ってくれるじゃあないか」

「これでもね、少しは反省しているんだ」

 テュケは立てた膝を抱きかかえ、唇を尖らせるようにして歪ませた。

「騒がしくして、あんな形であの子を起こしちゃった。ゴメンね、お兄ちゃん」

 ポロリと口をついた昔の呼び方。テュケの本質は、きっと子供の頃から変わっていない。オルフェはそんな妹に目を細め、「いいさ」と首を横に振った。

「そろそろ目を覚ましてほしいな、と思っていたところだったんだ。だからちょうど良かった」

「なんだ」テュケは小さく笑う。

「謝って損したな」

 オルフェも短く笑った。立ち昇る湯気が、セージの野生味ある匂いを漂わせ始めた。

「そろそろ良いかな?」

 オルフェは五分ほど煮出したセージのツァイを、陶器のコップ二つに注いだ。その内の一つを床と土間の段差に腰かけるテュケに「熱いから気を付けて」と手渡し、自身は食堂に戻ってテーブルの席に座った。


 テュケはコップを両手で包むように持ちながら、フーフーと息を吹きかけて、ツァイを一口啜った。

「苦いや」と、兄に遠慮のない正直な感想を漏らした。

「兄貴は変わってるね。こんなのを好んで飲む人なんていないよ」

「クセになると嵌ると思うよ」

 オルフェは笑って応える。そして同じように息を吹きかけてから、ツァイを飲んだ。

 ほうと、息を吐くと人心地がついた。なにか心の澱みのようなものが、少し吐き出せたような気がした。


「それで、テュケはどう思った? あの子のこと」

「うん」テュケはコップの縁を指で弄びながら応える。

「最初は言葉が通じていないのかなって。でもそれは違うね。兄貴が名前を尋ねたとき、あの子はすぐに応えようとした」

「でも、言葉が出てこなかった」

「そうだね、それがあの子が混乱した一番の理由だよ」

「つまり、元々そうだったのではなく、以前は普通に喋れてたのだろうね」

「一時的なものだと良いけど」

 そうだな、とオルフェは頷いた。因果関係は証明できないが、状況から長く続いた高熱が要因とみて間違いない。発話障害が先天性でないのならば、何かの拍子に元に戻るだろうか。

「義姉さん、いまあの子とどうしているんだろ?」

「うん」

 オルフェは頷き、ツァイを飲みながらドアの向こうの診察室の様子を気にした。すると、微かな声が聞こえてくる。

 耳を澄ましてみると、エウリーケは唄っていた。


 (さあ、良い子ね、眠りなさい

  ゆらり、ゆらり、母の腕の中

  あなただけのゆりかごよ)


 (さあ、愛しい子よ、目を閉じて

  ヒバリの子も母の羽根の中

  牧場の子羊ももう寝たわ)


 それは子守唄だった。ゆっくりと話しかけるように。柔らかく澄んでいて、子を愛しむ母そのものに優しかった。

 オルフェは、そしてテュケも目を閉じて、その歌にそっと、耳を傾けた。


 (外は銀の月、しずしずと、あなたの頬を照らしてる

  中は暖炉の炎、パチパチと、あなたの頬を赤く染める)


 (さあ、わが子よ、夢の中のお国へ

  ひらり、ひらり、蝶に誘われて

  思う存分に遊んでいらっしゃい)


 同じ唄をもう一度繰り返し、そしてやんだ。

 オルフェは名残惜しく思った。余韻に浸っていた。テュケもそうだった。今はいない母の温もりを思い出した。

 オルフェとテュケは、互いに口を開かないでいた。しばらくそのままの状態でいると、やがてエウリーケが食堂へと入って来た。

 オルフェは顔を上げ、ドアの前に立つエウリーケへと顔を向ける。


「あの子は、眠ったのかい?」オルフェは夢見心地から気を取り直し、尋ねた。

 ドアを後ろ手で閉めながらエウリーケは「ええ」と、微笑を浮かべて返す。

「落ち着いてくれたわ。もう大丈夫よ」

「そうか。ありがとう、エウリー。キミがいてくれて本当に良かった」

「さすがだよ、義姉さん」

 ううん、とエウリーケは首を横に振った。

「それでね、少しだけだけど、お話もしたわ」

「え? でも、あの子は」テュケは意外そうに言った。

「そうね、声が出ないのね。でも会話は出来た。小さな意思表示だったけど、ちゃんと通じ合えたわ」

「ああ、そっか。いいなあ、義姉さん。それで、どんなお話をしたの?」

 テュケは床座から立上りながら尋ねた。そしてテーブルのオルフェの向かいの椅子を引いて、エウリーケに薦めた。

「いろいろ。あなたのことを教えてって。お名前は? 幾つになりますか? どこから来たの? どうして森にいたの?」

 エウリーケはまたすぐに戻るつもりなのか、腰を落ち着けたくないらしく、小さく首を横に振りながら応えた。

 テュケは束の間考えて、結局自分がその椅子に座った。

「それで、どうだった? あの子はなんて?」

 オルフェが尋ねると、エウリーケは「うーん」と唸って、曖昧に首を傾げた。

「なにもね、分からなかった」

「え? しかしさっきは――」

「違うの、あの子自身も分からないの。自分の名前や、どこに住んでいるとか、何故、あの森で倒れていたのかも」

「そ、そんなことって」テュケの言葉は、後が続かなかった。

「あの子、嘘なんかついていないわ。誤魔化してもいない。本当に覚えていなかった。私ね、やっぱりって思った」

「え? じゃあ、エウリー義姉さんは最初のあの子の反応で気付いたの?」

「確信したわけではないわ。ただ、もしかしたらって」


 そうか、それでエウリーケは、すぐにオルフェ達に下がって欲しいと言ったのだ。そのことを確かめる為に。

 つまり女の子が見せたあの戸惑いは、声が出なかったからだけでなく、自分の記憶がないことに対しての反応でもあったのだ。

 幼いとはいえ、あれぐらいの年齢の子であれば自我の形成はとっくに始まっている。それが目覚めたら突然失われていたのだから、女の子の混乱は当然と言えた。

 解離性障害と呼ばれる症状が該当しそうだ。母のアスクレラスから習い知った言葉ではあるが、それを実際に目にする機会はこれまでになく、気付くことが出来なかった。

 とんだ藪医者だと、オルフェは心の中で自分を罵った。エウリーケのほうがよほどしっかりと本質を見ている。


「それって、やっぱり熱の所為かな?」

 テュケはオルフェへと顔を向けて訊いた。オルフェは頷いた。

「その可能性が高いと思う。発話障害もそうだろう。同じ外的要因なら、何かの拍子に一緒に治るかも知れない」

「でも、それがいつかは……」

「分からないな。明日かもしれないし、一年後、あるいはもっと先になるかも」

 オルフェは言ってから悩んだ。手にしていたツァイのコップに視線を落とす。

 これは想定外だった。

 女の子が目を覚ましさえすれば状況が整理され、これから先、どうするかを考えられると思っていたのだ。

 しかし期待したその手がかりは、艶やかな絹のように、するりとオルフェの手から滑り落ちてしまった。


「ね、ねえ!」

 エウリーケが、不意に強い声を発した。オルフェは弾かれたように顔を上げる。

彼女は意を決したような、そんな口調だった。

「オルフェ……。私、私ね」

「うん」

「だから、その――」

 エウリーケは言葉を詰まらせ、ためらいを見せた。心の丈を打ち明けようと、賢明に勇気を振り絞ろうとしている。

 エウリーケは大きく息を吸う。


「あの子の、その、ママになりたいのっ!」

 切ない声。

 昨日、森から女の子を連れ帰ってから、エウリーケの心に募り続けた思い。堪えようと我慢して、でも溢れ出てしまった。そんな彼女の気持ちが、オルフェにも痛いほど伝わった。

 だがオルフェは、彼女の訴えにすぐに反応が出来なかった。どうするべきか、その正解がまだ見えていなかった。

 するとエウリーケは顔を伏せた。肩を張り、強く握った両手は小刻みに震えている。


「お願い、お願いよ、オルフェ。私、私――」

「で、でも、義姉さん、あの子は」

 オルフェはテュケの顔の前に手をかざして、口をはさむのを許さなかった。そして真っ直ぐに、ドアの前で目をきつく閉じて震えているエウリーケを見つめた。

「エウリーケ」

 オルフェは固い声で、彼女に呼びかけた。エウリーケは量刑を言い渡される被告人のようにビクリとして、体をさらに強張らせた。

「いつか、あの子の記憶は戻るかもしれない。いや、その可能性の方がずっと高い」

「うん」エウリーケは弱々しい声で、小さく頷く。

「あの子の親が、ある日突然、村にまで迎えに来るかもしれない」

「うん」

「その時、私たちに引き止める権利はない。あの子を手放さなくてはならない。そんな日が、いつくるか分からない」

「分かってる。分かっているわ。それがあの子の幸せなら、その時はちゃんと見送る。約束するわ」

「そうか」

 オルフェは頷き、椅子を引き席を立った。そうしながらオルフェは、思い知らされていた。


 子を望んできた気持ちはオルフェも同じであった。同じつもりだった。

 だが違った。

 エウリーケの思いの深さは、強さは、母性とはこの世の何ものでも敵わないもののかもしれない。

「だから、お願いよ。オルフェ――」

 オルフェはエウリーケのすぐ目の前に立った。彼女の両肩に手を添える。エウリーケは顔を上げ、普段は細めている目をゆっくりと開いた。

 ヘーゼル色の瞳が不安そうに揺れる。

 目の縁に溜った涙のなんと清らかなことか。


 オルフェはそんな彼女を見つめながら、思い出していた。去年の話である。

 結婚してから四年、子を授からぬことに思い悩んでいたエウリーケに、オルフェはダイタロスの孤児院を訪ねてみようかと、提案したことがあった。

 ダイタロス孤児院には、入れ替わりながら常時二十人ほどの子供が暮らしていると聞く。

 血のつながりは大切だが、それだけが全てではない。もしかしたら、この子だ、という出会いが待っているかもしれない。

 だが、エウリーケは静かに、しかし迷いなく首を横に振った。


 その中からどうやって選べというの? 見た目が良い子? 利発そうな子? 大人しくて言うことを聞いてくれそうな子のほうが良いかしら?

 なら、そうでない子は?

 この子はウチで引き取るけど、キミは要らないからと、そう告げるの?

 もしかしたらその子らは、兄弟姉妹のように仲良しなのかもしれないのに――

 それって、引き裂くことにならない?


 身寄りのない子を引き取って、里親になる人を否定するわけでは決してない。それでもエウリーケには選べないのだという。


 親に子を選ぶ権利なんてないわ。そんなの傲慢よ。子のほうが来てくれるのよ。私たちの元に。それは、とてもとても素敵なこと。

 ねえ、オルフェ、そう思わない?

 ただそれだけ。私はそれだけで、もう充分なの。私は、私たちの元へ来てくれたその子を、只々ひたすらに愛するわ。


 エウリーケのあの時の言葉を借りるなら、まさにニンフの森で出会った女の子がそうなのだ。

 オルフェとエウリーケの元に来てくれた子。あの子だからこそ愛する。

 迷いが――、心の中にあったそれが溶けて、そして今、消え去った。


「なら、私はあの子のパパになろう」

 オルフェは毅然とそう告げた。

「オルフェ……」

 鯱張っていたエウリーケの体から力が抜けていくのが、オルフェの両手に伝わった。そして彼女の口元は微かに綻んだ。

「いいの?」と、エウリーケは念押しをする。

「オルフェ。私、ママになっても、いいの?」

 オルフェは深く頷いた。そしてエウリーケに感謝した。

 理屈ばかりを前に並べて、素直な気持ちから隠れていた。向き合う勇気が持てなかった。

 エウリーケの思いの強さが、背中を押してくれたのだ。

 すると途端に、不思議な感覚に見舞われた。無性に女の子の様子が気になって、落ち着かなくなったのだ。


「あの子の顔が見たいな」

 オルフェは思ったことを、素直に口にした。

「起こしちゃダメよ」

 エウリーケは身体を反転させて、ドアノブに手をかける。

「分かってる。静かに見守るよ」

「あのね、ずっと見ていられるの。すごくね、すごく可愛いんだから」

 二人で食堂を後にして診察室に入る。

「おーい」と、背後からテュケの呆れ声がした。それをオルフェは、そしてエウリケーも気にしなかった。構わずにドアをバタンと閉める。

「名前、何にするか決めないとな」

「もう、いっぱい考えたわ。オルフェ、聞いてくれる?」

「もちろんだとも」


 二人で肩を並べて、ベッドに眠る女の子の枕元に立った。オルフェはその顔を見つめる。

 なんだろうか? この感情は。

 これまでとはまた違ったものが、心に満ちてくるのを感じていた。ただの愛情だけではない。

 なにか、とても強い、意志のようなもの。

 この子の親になる。

 これを、自覚と、そう呼ぶのだろうか?

 人差し指をのばし、我が子の頬をそっと突いた。柔らかな感触。愛おしすぎて胸が苦しくなる。

「ありがとう」オルフェはつぶやいた。

 私たちのもとに来てくれて――

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