(二)ノ6
オルフェは診察室の出入口のところで壁に手をついて、肩を上下させる。さしたる距離ではなかったが、あまりに全力で駆けた所為で息がぜいぜいと切れた。
呼吸を整えながら気付く。なぜわざわざ表玄関まで回って入ったのだろうか、と。裏庭にいたので勝手口を使えばすぐだった。つまり、それだけオルフェも慌てたのだ。
最後に大きく深呼吸をしてから咳払いを一つ。ゆっくりと歩き、そしてベッドを仕切っていたカーテンを、そっと引き開けた。
オルフェと同じ母譲りのアッシュブロンドの髪の後ろ姿。肩に触れないようにざっくりと切られたその毛先が揺れた。
「ああ、兄貴」
妹のテュケが振り返り、助けを求めるように声を上げる。
かつては内気だった少女の可憐さは、今は母に似た容姿に辛うじて名残りを伺わせる程度にとどめていた。力仕事も多いのだろう。葡萄酒農家の娘らしく、体つきもしっかりとしてきており、肌は健康的に日に焼けていた。
そしていつの頃からか、勝気に吊り上り気味な目が向けられた。オルフェは黙ってその目に頷いて返し、女の子へと視線を移す。
ベッド脇の丸椅子に座っていたエウリーケがそっと立ち上がり、オルフェに場所を譲った。
オルフェは枕元に立って上体を折りながら、女の子の顔を覗き込んだ。
その瞳は髪の色のように黒くはなかった。アンバー・アイというのか、いわゆる琥珀色で赤みのある黄茶色であった。
きめ細やかな浅い褐色の肌。幼く丸い頬に、パッチリとした大きな瞳が描かれる。なんと愛らしい顔立ちか。オルフェの心は一瞬にしてときめいた。
ずっと見ていたい。そんな思いにも駈られるが、女の子のほうは、その視線が右に左にと、落ち着かない。
無理もないと、オルフェは思った。今のこの状況が理解出来ないのだろう。
「はじめまして」
オルフェは丸椅子に腰を落としながら、優しく声をかけた。女の子の視線がオルフェへと定まる。その瞳に、オルフェは柔和に浮かべた笑みを映させた。
「ここはね、ムーサイの村だよ。聞いたことはあるかな? あ、私はオルフェといって、この村でお医者さんのようなものをしているんだ」
オルフェはゆっくりとした口調で自己紹介をした。すると、一度は場所を譲ったエウリーケが背後から上体を乗り出して「わ、私はエウリーケよ」と割って入り、負けじと妹も「テュケだよ。よろしくね」と、兄の体を押しのけようとしてきた。
オルフェは高揚を抑えきれていない女性二人に対して、「いいから」と、両手をそれぞれの顔の前にかざして諌める。
「体の調子はどう? お腹痛かったりしない? 気分が……胸がモヤモヤしたりとか、どこかおかしなところはないかな?」
オルフェは尋ねたが、返事はない。無視しているわけではなく、小首を傾げるようにして見せた。
言葉が通じていないのだろうか、とオルフェは思った。女の子の容貌が明らかにこの辺りの者とは異なるので、ありえることだと考えた。
改めて女の子の様子を伺う。戸惑いの色は消えていないが、特に怯えてもいなさそうだ。
「少し、ごめんね」
オルフェは立ち上がり、女の子の額に自分の手をあてがった。女の子は抵抗しなかった。
幼い子の場合、環境の変化に戸惑い、いきなり熱をぶり返えしたりもするがそれはなく、平熱のまま落ち着いている。下まぶたをそっとひっぱり、白目の色と、まぶた裏の赤み具合を一応、確認した。これも大丈夫であった。
それから手首をゆるく掴んで脈を計った。若干速くなっている。ただこれは、今の置かれている状況に緊張状態にあるからだろう。
身体の状態に問題はなさそうだ。根治したとみて良い。なので話を続けても大丈夫と判断した。
「ねえ、どうして森にいたの? 覚えてる?」
オルフェは椅子に座り直し、幼い手をシーツの中へとしまいながら尋ねた。
またも返事がなかった。オルフェの顔を凝視して微動だにしなかった。
敵かあるいは味方なのか、正体を見極めようとしているのかもしれない。
オルフェは戸惑い始めていた。
子供の扱いが上手だと自惚れてはいないが、それでも仕事柄、接する機会は多い。それなりにやれている自負はあった。
ただ、無反応の子はこれまでにいなかった。このような場合、どう話を進めれば良いのかが分からなかった。
「え、っと……」
加えて言えば、オルフェの顔を立ててこの場を任せてくれている妻と妹の視線が背中に刺さるようで、痛い。
「お、お名前は? 教えてほしいな」
オルフェは、浮かべた笑みが引きつらないように意識しながら質問を重ねた。
すると女の子が、ようやく口を開いた。オルフェは、ほっと、安堵の息をついた。
だが期待した可愛らしい声は聞けなかった。
代りに、ひゅうと空気が漏れような音が発せられた。それは女の子自身も予想外だったようだ。元々大きな目をより大きく見開き、驚いていた。
それまでオルフェの顔を一点に見つめていた視線が動き、忙しくなる。
「え? あれ」
オルフェは今度は本当に戸惑った。混乱といってもよい。
丸椅子から腰を上げて手を伸ばす。女の子は体をびくりと固くした。シーツを引き寄せながら、オルフェの手から逃れるように背を向けて身を丸める。
一体これは、急にどうしたのだろうか? とにかく落ち着かせようと、オルフェは女の子を追いかけて、さらに手を伸ばそうとした。
「オルフェ」
エウリーケの固い口調に、オルフェは手の動きをピタリと止める。
振り返ると、いつになく真剣な表情のエウリーケの姿があった。
「少しだけ、私にやらせてほしいの」
「え? いや、しかし」
エウリーケの申し出に、オルフェは女の子へと視線を送って躊躇った。この状態で任せてしまっても良いのか判断に窮した。
「目を覚ましたら、いきなり見知らぬ大人三人に囲まれて、怖がって当然よ」
「うん、それは、そうかもしれないのだが……」
「だから、この子と二人だけにさせて。お願い」
「いや、しかし」
「兄貴」
それまで、黙っていたテュケが口をはさんだ。
「わたしも、それが良いと思うよ。ここは義姉さんに任せようよ」
オルフェはチラリとテュケへと視線を向けて、またすぐにエウリーケへと戻した。彼女の目を見つめる。
診療所に女の子を連れ帰ってから、エウリーケは付きっきりであった。片時も離れようとはせず、ずっと見守り続けていた。
確かにテュケの言うとおりだ。この場は彼女こそが相応しい。
「分かった」オルフェは冷静さを取り戻し、頷いた。
「ごめん、エウリー。お願いするよ」
「うん」とエウリーケは、いつもの柔らかな表情に戻って頷いた。
オルフェも小さく頷き返す。そして静かに息をついた。
「テュケ、行こう」
妹を促し、オルフェは席を外した。テュケも素直にそれに従った。