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(二)ノ5

 朝の診療を終え午後に入ると、オルフェは診療所の裏庭で、昨日森で採取した薬草の乾燥作業に取りかかっていた。

 井戸の水で薬草を丁寧に洗ってから、根、花、茎に分けてザルに広げ、風通しの良い場所にしばらく保管しておく。

 せっかくの薬草も、ぞんざいに取り扱えば腐らせて台無しにしてしまう。オルフェは森に入った翌日までには、この作業を終わらせるようにしていた。


 昨日はホシユキノシタがなかなか見つからず、森の奥深くまで入ったので、結果として収穫量が多い。

 薬草は多様に用いるので、すべてを乾燥させるわけではないが、それでも積み上げた薬草の山を前に、オルフェは自らの華奢な腰に手を添えて、一つ息をついた。

 今日はこの乾燥作業だけで、晩課(十八時)の鐘の音が鳴るぐらいまでかかるだろうか。

 そのように考えが及ぶと、ものぐさな感情が顔を覗かせるものである。オルフェは小休止に、診療所の裏庭からの景色を眺めた。


 遠くにある、ディスヴィアと呼ばれる形を歪に崩した山が、まず目についた。正確にはその山がぽっかりと開けたカルデラの口に、である。

 それはかつての大噴火の痕であった。大量の火砕流が広がり、麓のニンフの森の大半をあっという間に焼き払ってしまったと伝わるが、それも遠い七百年も前の出来事だ。

 今では雄大に蘇った自然の中に、その火口が名残として伺えるだけになっていた。

 そんなディスヴィア山が属しているのがキュレネー山脈である。

 雪化粧された鋭角な峰を尾根でいくつも連ね、森林限界を超えた中腹辺りは裸の岩肌を武骨に晒している。裾野に近付くにつれ、緑の絨毯が密度を増していき、やがてそれは大地を覆い尽くす豊かなニンフの森へと呼び名が変わる。


 オルフェが立つ丘は、それ自体が教会であった。鐘塔がそびえる礼拝堂と外回廊でつながった司祭館。裏手には墓地が広がっていた。それからこのアスクレラスの診療所も、教会の管理下にある。

 そしてこの丘からは、約四十世帯、百五十人ほどが暮らすムーサイの村が、キュレネー山脈の谷へと延びていく様が分かりやすく伺えた。

 穏やかな気候のこの時季ならば、村の多くを占めるのは麦の青畑である。

 それに次ぐのが乳牛が白詰草クローバーをはむ放牧地の丘陵だろうか。茶白模様のカンジー牛が数十頭の群れで各々、のんびりと寛ぐ様子が豆粒ほどの大きさながら見て取れた。

 そういったゆったりとした中に茅葺屋根の家がある。これは整然とはしておらず、計画性と無秩序が混在していた。

 並んでみたり、あるいはそれぞれが好き勝手に向いてあったりした。群れている場所もあったし、点々とあちらこちらに散らばってもいたが、そのほとんどがニンフの森から切り出した木材を用いている為か、村の景色としての一体感は損なわれていない。


 あと、村にとって欠かせないのがレーテ川だ。山々からの支流が村の谷間へと集まり、豊かな水を運んでくれる。水の女神の名を冠するこの川がもたらす恩恵は大きい。

 網を仕掛ければ魚やウナギが獲れたし、川からの水路を張り巡らせた灌漑かんがい農業は作物を安定して実らせた。

 水の流れは村共用の水車の動力源である。水車は脇に備えた小屋内の臼を動かし、収穫した麦の粉挽きに役立った。

 それに何よりも川は、ニンフの森から村へのじゅうの進入を阻んでくれた。

 レーテ川が森と村を別っているおかげで、家畜を安心して放牧し、夜は獣の気配に怯えなく、眠ることが出来るのだった。


 つまり、山と森と川に囲われた村。それがムーサイである。

 オルフェがこの村で暮らし始めてから十五年。それは飽くことのない眺めだった。

 風が、土の匂い、作物の匂い、家畜の匂い、そういった村のさまざまな存在を混ぜ込んで、オルフェの鼻孔をくすぐってくる。


 家畜の番をする牧童の姿もあった。今きっと唄っているであろう牧歌を、ここまで届けてくれまいか。オルフェはなびく長い髪を手で押さえつけながら、そう風にねだってみた。

 戯れに耳を澄ましてみたが、どうやらその願いは聞き入れてもらえそうにない。それでもオルフェは、「よし」と小さく自分に気合を入れた。

 大きく息を吸い込み、村の空気を体内に取り入れる。そしてゆっくりと鼻から抜いた。

 オルフェは乾燥作業を再開させることにした。


 やはり気分転換は必要である。モチベーションを取り戻したオルフェは、届くことのなかった牧歌を口ずさみながら薬草を選り分けていく。作業の手際は、休憩前とは格段の違いで良くなっていた。

 それに午後は、何をするにしても集中しやすい環境でもあった。診療所は午前中が慌ただしい分、午後に診察に訪れる者は稀だからだ。

 なのでオルフェは、この時間を調薬に充てることが日頃から多かった。ただ、村から出さえしなければ、診療所を空けていても問題なかったので、そればかりではない。それなりに出かけたりもした。


 麦酒エールと歌を愛する村人たち。その繋がりは親密で、ムーサイは村人同士、殆どが見知った顔である。

 もし急患がでたとしても、診療所に運び込まれるまでには、村人の誰かがオルフェがどこにいようとも必ず知らせてくれるので、対応が遅れる事態にはならなかった。

 なのでオルフェは、安心して診療所を空けることが出来た。診療所に足が遠のいている村人の元を訪ねて往診したり、呼び止められ頼まれれば、その場で家畜の健康状態の確認をしたりもした。


 そしてその傍らには大抵、エウリーケがいた。彼女は望んで付いてきた。二人で肩を並べての散歩は、心を穏やかにしてくれる。

 天気が良ければ、ランチボックスを下げて、見晴らしの良い場所で一緒にサンドイッチを頬張ったりした。

 オルフェももちろんだが、特にエウリーケはそういった時間の過ごし方を愛していた。なので午前中の診療が終わると、オルフェに出かける意思があるのか、そわそわと様子を伺ってくるのである。


 ただ今日に限れば、彼女はそれどころでなかった。

 オルフェはザルにオトキリクサの茎を等間隔に並べながら、診療所の中の様子を気にした。

 エウリーケの心は、今はその全てが女の子のものだった。日頃、献身的にオルフェの手伝いをしてくれる彼女も、朝の混雑時はなんとか堪えていたが、少しでも時間に余裕が生まれるとすぐに女の子の枕元に立ち、様子を気にかけていた。

 そして今は女の子に付きっきりでそばを離れようとしない。

 グライア婆のあの言葉が、エウリーケの心の中で空気を送り込まれたゴム風船のように大きく膨らんでしまったのは明らかだった。


 朝の診療が一段落したところでオルフェは改めて女の子を診たが、平熱のままで、脈も呼吸も安定している。後はとにかく、ひたすら身体を休ませ、目が覚めるのを待つだけだった。

 昼食を取る際に、オルフェはエウリーケにそう伝えた。エウリーケは「そう」と、安堵の笑みを浮かべた。そして「ねえ、私この後、あの子に付いていてもいい?」と訊いてきた。

 彼女は昨日から寝ていない。オルフェはそれを心配したが、エウリーケは聞き入れようとしなかった。

 なのでオルフェは、仕方なしに頷くほかなかった。


「兄貴ぃ、いる?」

 オルフェの思考を中断させたのは、堅牢な石造りの壁の防音性を物ともしない賑やかな声だった。遠慮のないそれは、診療所の中から裏庭のオルフェの耳へと些かの減衰もなく届いた。

 やはり来たか、とオルフェは胸中でつぶやく。

 話好きの村人が、診療所の黒髪の女の子の件を黙っていられるはずもなく、もはや村中で知らぬ者はいないほどに広まっているのは想像に難くない。

 そして、その話を聞いてじっとしていられない性分の人物が一人。それは妹のテュケである。年はオルフェより七つ下って、もうすぐ十八歳になる。


「あらテュケちゃん、いらっしゃい」

「うん、お邪魔してます、エウリー義姉さん。それで兄貴、いやそれより、その女の子っていうのは――」

 そこでいったん詰まった声が、「ああっ!」と大きくなった。そして体重の軽い駆ける足音が短く響く。

「この子だね! 例の森で兄貴が連れ帰ったのは」

「え? ええ、うん。でも、あのね、テュケちゃん……」

「おおっ!」とまた声が大きく跳ね上げる。

「本当に真っ黒なんだね! 髪。すごーい。綺麗、可愛い。ねえ、触ってもいい? いやもう触ってるけどさあ」

「テュケちゃん、お願い。あの、もう少し静かに――」

「わあ、柔らかい。初めて見たけど本当にステキだね、この黒い髪って」

「だからね、聞いて。もう少し優しく、あ、そんな」

「ねえ、義姉さん、ほっぺぷにぷにだよ。ほらあ」

「なっ! な……、ダメ、やめて……」

「可愛いーな。ちょっとつねっちゃお。むにゅっとな」

「いやあ!」と、エウリーケの絶叫が響いた。

「やめて、やめてっ。私だって我慢してたのに。お願い、お願いよ、そっとしてあげてえ」


 エウリー、キミの声の方が大きくなっているよ、とオルフェは心の中で突っ込んだ。

 目を爛々に輝かせて女の子にちょっかいを出すテュケと、それを涙目になりながら必死に諌めようとするエウリーケ。

 そんな二人の様子が、声だけでありありと伝わってくる。


 オルフェの心情的にはエウリーケの味方だ。自然と目を覚ますまで、そっとしておいてあげたい。

 ただ、昨日から丸一日眠っているので、体力はかなり回復していると見て良い。もういつ起きても、それは問題ないとも考えていた。なので、エウリーケほどには過剰には心配していなかった。

 それよりも、である。

 オルフェはため息をついた。我が妹はなぜああも騒がしい子に育ってしまったのか。


 母に連れられてこの村に着いたときは、テュケはまだ本当に幼い子供だった。今ベッドで眠る女の子よりもまだ小さい頃。人見知りで大人しく、常に兄のオルフェの後を付いて回るような子であった。

 それなのに、年月は確実に流れたのだと思い知らされる。オルフェがエウリーケと結婚するつもりだと告げると、「なら、私はここを出ていくね」あっけらかんとそう言った。

 結婚後も一緒に暮らすつもりだったオルフェとエウリーケは、その必要はないと本心から引き止めたが、テュケは静かに首を横に振るだけだった。そして「別に気をつかって出ていくわけじゃあないよ。丁度、良かったんだ」と言った。

 やりたいことがある、テュケはそう打ち明けた。それはこの村の名産でもあるムーサイ・ワインの醸造だった。


 村では十三になる年に酒宴を開いて、飲酒を公に認める習慣があった。昔は十六歳の成人の祝いであったようだが、いつの頃か三年早めて、それとは別に行われる様になっていた。

 酒は村人にとって労働の糧で、要するに子供を働き手として加える為の習わしである。その時にワインの味に嵌った彼女は、前々から考えていたという。

 そして今は葡萄酒ワイン醸造農家に住み込みの修行中であった。

 そこでは娘のように可愛がられているようだ。日に日に逞しくは良いのだが、それが過ぎて少々ガサツになってきているのが、年頃の妹を持つ兄としては気になるところではあった。


 オルフェが物思いにふけっていると、「あっ」と、テュケが上げた声で現実に引き戻された。

 間をおかずに「えっ」と、エウリーケも続いた。

「ん?」と、オルフェは首を傾げる。

「義姉さん、これ、目開いている」

「起きちゃった……よね」

「はあ?」

 オルフェは思わず声に出した。

「やだ、どうしよう」

「あ、兄貴どこ? いないの?」

「あの、その、えっと」

 オルフェは手にしていたザルを放り投げ、「ちょ、ちょっと待てえ!」と叫び駆け出した。

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