(二)ノ4
「それにしても、不思議だねえ」
ニンフの森での経緯を聞いたグライア婆は唸った。他の者たちも一様に首を傾げている。
「ええ」と、オルフェは頷く
「先生の言う通りだ」ヘファイトが同調した。
「こんな子供が独りで森の深くまで入り込めるとは思えん。うちの坊主も無理だろ。なあ?」
父に揶揄われ、エクニオス少年は自尊心を傷つけられたようで、ムッと気色ばんだ。
「いや、ヘファイト。それは私だって独りでは無理だから」オルフェは苦笑を浮かべた。
「ただ、やはり親か、少なくとも同行者はいたはずなんだ」
「だから先生は、そやつは獣に襲われたと?」
オルフェは、グライア婆に向けて頷いて見せた。
「カロンはあり得ないと言ったのだけどね。私はその可能性が高い気がした。でも彼の言い分のほうが正しかったのかも知れない。あの近辺にそういった形跡はなかったようだし」
「だったら、捨て子かもしれないな」
エウパボの言葉に、オルフェはチラリと、女の子の眠るベッドへと視線を送った。まだ目を覚ましてはいないが、万が一にも聞かせたくないものだった。
それはオルフェも思わぬ訳ではなかった。ただ、その可能性を考えたくなかった。
あの森に幼子を遺棄すれば、それはそのまま死に直結する。つまり、直接手にかけないだけで殺人と変わりない。
親が子を殺す。どのような事情があるにせよ、子を望んできたオルフェにしてみれば、想像すら拒絶してまうほど厭うものであった。
「あの、実はあの辺に隠れ集落があったりとか、しないかな?」
エクニオスは遠慮がちに訊いたが、すぐにグライア婆は、いや、と小さく首を横に振った。
「あの子の着ているもの一つとっても、森の中だけで完全な自給自足は出来んよ。森に籠り続けられはせん。そんな集落があれば、アタシら村の者が知らぬはずがなかろう」
「それに、集落になりようもないだろうな。すぐに獣に襲われる。人はあの森では生きられねえ」
グライア婆に続き父のヘファイトにも否定され、エクニオスは「あ、うん、そっか……。そうだね」と俯いた。あどけなさが残る目が、長めの前髪の影となった。
「でも、可能性を探る意味では、考慮すべきことだったと思うわ」
少し落ち込んだ様子の少年に、エウリーケはすかさず庇うように言った。グライア婆が、その通りだな、と小さく頷いた。
「まあ、どのみち、この子には身寄りはないということか」エウパボが言った。
「それは……、どうだろうか。まだ何も話を聞けていないのだから」
オルフェは言葉を選んだが、グライア婆は「いや、間違いない」と確信めいて言う。
「どうだい? いっそのこと、先生とこの子にしてしまわんか? 問題はなかろうて。先生もエウリーも子供ほしがっとたし」
ん? とグライア婆はしたり顔になった。
「ああ、それ、いいんじゃないか」
ヘファイトが老婆の背後で頷き、その傍らでエクニオスが顔を上げ、「ボク、遊び相手になるよ」と表情を綻ばせた。他の村人たちも皆、概ね同調した様子を見せた。
オルフェは眩暈を覚えた。こめかみに手を添えて首を横に振る。慎重に状況を見極めながら、その可能性を探るべきかを考えていたのだ。
視界の端では、切なさそうな表情でオルフェに視線を送るエウリーケの姿があった。
女の子の為にどうするのが最善なのか、その判断材料がないこの状況で、エウリーケの気持ちを思えばこそ、安易に口にすべき言葉ではないと、オルフェは考えていた。
淡いだけのはずの願望も、口にして外に発してしまえば、それは案外、現実的ではないかと錯覚し、希望へと変わってしまう。
なのにそれが叶わぬとなった時、エウリーケの落胆はきっと大きい。オルフェは彼女の暗く沈む顔など見たくなかった。
簡単に言ってくれる――
オルフェはグライア婆に咎める目を向けた。
もちろんグライア婆には親愛の情を抱いている。ただ、この発言は安易で無責任が過ぎた。少しばかり憎らしかった。
そんなオルフェの視線にも悠然としていたグライア婆だが、その表情がいきなり強張った。
口元を手で押さえると、背中を丸め、間をおかずに激しく咳き込み始める。
「お婆――」
オルフェはグライア婆の肩に手をかけ、身をかがめて様子を伺った。苦しそうに顔を歪めて、老いに刻まれた皺をより深めていた。
「もう、さっきあんなにはしゃぐからよ」
エウリーケがすかさず傍へと寄る。憎まれ口を叩きながらもその声色は心配気なもので、優しく何度も老婆の背中をさすった。
咳はしばらく続いた。湿り気がなく、乾いたものだった。
オルフェはそれが、先ほど走り回ったのとは別の要因であると分かっていた。その現実が心に影を落とした。
ようやく咳が治まり、オルフェは清潔な布でグライア婆の口元を拭ってやる。
心配するオルフェの目に、老婆はなんでもないよと、微笑んで返すのだった。