(一)ノ1
風に葉摺が、さわさわと音を立て、小鳥はあちらこちらで鳴いている。
チッ、チー、チッ、チーと繰り返される澄んだ声の囀り。これは小雀のものであろう。
森は深く、見上げてもその視線は豊かな緑葉に遮られ、空はステンドグラスの欠片を散りばめたかのように僅かにしか望めない。
それでも、ただ暗いわけではなかった。斜光が枝葉の隙間を縫いながら幾筋にも差し込まれ、光と、それによって生み出される陰影が際立っていた。
青草混じりの土の匂い。空気はしっとりと濡れている。帯状の光が浮遊する水粒で散乱し、辺りを所々、白く霞ませていた。
それは幻想的な樹海の世界。妖精を意味する『ニンフの森』と、誰が最初にそう呼んだのか。
例えば今、アンセレスの花弁から姿を覗かせたのが実はミツバチではなく、蝶の羽を背に持つ、ごく小さな人の姿に似通うものであったとしても、この森の中でなら、当たり前の光景に映るのかも知れない。
オルフェは幾たび訪れても、変わらずにそんな感想を抱くのだった。
今、このニンフの森に二人の男の姿がある。
そのうちの一人、クロークに身を包んだ青年の名を、オルフェといった。
オルフェは歩きながら、俯き加減に視線を左右に動かしていた。
艶めいたアッシュブロンドの髪は真っ直ぐに長く、鮮やかな朱色の組紐で背中の位置で束ねられている。
顔立ちは柔和に整っており、肌も瞳の色も薄い。華奢な体つきに、たおやかな手足。ただ歩く、それだけで婉然たる挙措であった。
足元はごつごつと岩の群れ。その上で露出した木の根が無数にうねる。起伏の激しいここら一帯は、繁茂した苔が、破れて穴だらけの布を被せたかのような不均一さで地表を侵していた。
そんな中でオルフェは、木の根の間から顔を覗かせた、黄色い花を見つけた。
一目でオトキリクサと分かる。小さく控えめなその花は、止血や痛み止めなどに効能を持つ薬草だった。
オルフェは目を細め、口元を微かに緩めながら花の傍に近付くと、腰を落として片膝をつく。手を伸ばし、そしてそっとオトキリクサを摘み取った。
肩から斜め掛けに提げた麻袋へと収め、その際に袋の中身を確認する。
腰の位置から膝ほど迄の深さの袋は、今は半分近くまで埋まっており、この収穫の量は満足のいくものだった。
ただ不満もあった。
今日はまだ、ホシユキノシタが一つも採れていなかったからだ。
「カロン、もうしばらくは大丈夫かな?」
オルフェは束の間考え、傍らに立つ長身の男を見上げて言った。
男は革鎧を纏い、背には大剣を装着していた。一見では細身のようにも映るが体躯は逞しく、よく鍛えられ引き締まっている。
赤毛の髪を無造作に後ろへと流し、面長で彫りの深い顔は、日に焼けた肌と相まって精悍といえた。
その男からすれば、オルフェのこの申し出は少し意外だったようだ。
カロンは、三十を迎えた最近になって生やした無精ひげの頬を撫で、「ううむ」と唸った。
三白眼のもともとが鋭い目つきをより険しくし、周囲の様子を伺う。
空が殆ど見えないので、差し込まれた光の帯の角度が判断基準となる。陽はまだ高さを保っているが、今日は普段よりも森の奥へと入り込んでいた。
帰路の長さを考慮すれば、護衛役の立場からそろそろ村に戻るべきと言いたいのだろう。カロンの態度でオルフェはそう察した。
ただ、森に入るのは七日ぶりだ。
「まだ目的のものが見つかっていないんだ」オルフェは訴えた。
「もう在庫が尽きかけている」
「う、む」
「ダメ、かな?」
次は早くても、また七日後。簡単には諦め難いものがあった。
小首を傾げて下から覗き込むと、その視線がかち合った。カロンは「うっ」と唸って、すぐに顔を横に反らした。
強面だが実は村随一のお人好しで、頼まれごとを無下にできない男である。
そんなカロンの迷いをオルフェは理解した。
ニンフの森は確かに美しい。
ただその反面、自然ならではの危険な一面も併せ持っていた。
森は多くの生物にとっての棲家だ。そしてその中には、『獣』と呼ばれるものが、少なからず存在した。
獣とは、人を捕食対象として襲ってくる生物の総称である。この森ではゴブリンやオロべルス、オーガなどがそれにあたる。
村へと戻るタイミングが遅れ、暗闇に森をさまよえば、それらに襲われた際の危難は昼間の比でないはずだ。
カロンほどの手練れ、己が身一つであればどうとでもなるだろう。だが彼には護衛役として、オルフェの命を守る責務があった。
獣の襲撃を受ければ、オルフェは騎士の背に隠れるだけのお姫様のようなもので、ただの足手纏いに過ぎない。
だからあまり、カロンを困らせるべきでなかった。ここらで引き上げるのが賢明のようだと、そう思い直した。
「いや」と、オルフェは息をつき、立ち上がった。
「やはりやめておこうか。無理なら良いんだよ、カロン、そう言ってくれて。全然構わないから」
「あ、だが……、薬、足りなくなるんだろ?」
「うーん、大丈夫だよ。他で代用が効かないわけでもないからね。まあ、何とかなるさ」
オルフェは諦めたが、それでもカロンは「先生……」と、迷った声を上げた。
カロンは自分よりも年若いオルフェを、「先生」と呼ぶ。それはカロンだけでなく、二人が住むムーサイの村人の殆どがそうだった。
オルフェは野草などを用いてさまざな薬を調合する薬師であり、そして村唯一の医者であった。
「すまなかったね。さっきのは我儘だった」
オルフェは未練を無理に押し殺し、カロンの肩をポンと叩く。
「今日はここまでだね。うん、それじゃあ、これで引き返すとしよう」
あまり気兼ねさせぬようにと、オルフェはわざと陽気な声で告げた。
ただカロンも、その強がりを真に受けるほど単純な男ではなかった。オルフェの本意がそこにないことを、しっかりと見抜いていた。
だからカロンは「いや」と、腹を括った声で言う。
「あと少しぐらい、どうってことはないぜ、先生」
「無茶をさせたいわけではないんだ。――でも、本当に良いのかな?」
「大丈夫だ。なんの為にオレがいると思っている?」
カロンは自身の胸に革鎧の上から親指を突き立てると、ニヤリと口角を吊り上げて、あえて不遜な笑みを浮かべてみせた。
「頼もしいね」
オルフェはカロンの決断に、目礼で感謝する。
「もちろん信じてるよ、カロン。しかし、なんだかすぐに甘えてしまうな、私は」
「構わないぜ。先生は村の為にしてくれているんだ。いくらでも頼ってくれ。まあ、まかせときなって」
カロンは力強く見栄を切ると、それで、と続けた。
「どっちに向かう?」
「そう、だな」
オルフェは呟き、周囲を見渡す。
目的の野草のホシユキノシタの生息条件は、日の差さない暗く、ジメっとした岩上である。
ここまで深く入ったこの辺りならば、そういった場所はそこかしこにありそうに映った。
だが今日は、ここまで一つも見つけられなかったのだ。やはり実際に行ってみなければ分からない。
「あの辺りにしよう」
取りあえずの目星をつけて、オルフェはその方向を指し示した。
了解だ、とカロンは応えた。腰からダガーナイフを抜き、傍らの木の幹を浅く切り付ける。
その小さな傷は、ムーサイの村への方角を示していた。