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異世界の叔父のところに就職します  作者: まはぷる
第三章
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春香の事情 1

「いらっしゃいませー!」


 来店されたお客様に元気よく挨拶する。


 わたしが、この『春風のパン屋』にお世話になるようになってから5日ほど。

 今ではこうして、お店の手伝いをやらせてもらっている。


 最初の数日が記憶にないほど、それはもう悲嘆に暮れてしまい、孤独にベッドのシーツに包まっていた。

 それが、店のひとり娘のリコエッタの献身的な励ましのおかげで、どうにかこうして人前にも出れるようになった。


 リコエッタは、やさしく元気で、とてもいい子だ。

 姉御肌の竹を割ったような性格だが、傷心のわたしを気遣ってくれていたのが、身に染みてわかった。


 少しでも恩返しがしたいと思い立ち、自分から頭を下げて店番に立つことにした。

 高校時代にパン屋のバイトをしたこともあるし、焼きたてのパンの香りに包まれると気も紛れる。


 信じられないことだが、ここは日本ではないらしい。

 それどころか、地球上のどこかということすら怪しい。別の世界に紛れ込んでしまったようだった。

 マンガやアニメでよくそういった設定があるのは知っていたが、まさか現実で、しかも自分が体験する破目になるとは思っていなかった。


 物語と違ってそこに夢や希望などはなく、ただただ恐怖と絶望と苦痛の連続だった。

 わたしにとっては、久方ぶりの兄に会うべく祖父母の家を訪問した、単にそれだけのはずだったのに。


 しかし、家の中から一転、目覚めたときには真っ暗闇の森の中、しかも巨大な熊に爪で小突かれて起こされるというおまけ付きだ。


 その後のことは、わたし自身もよく覚えていない。

 とにかく恐怖に駆られて奇声を上げ、ひたすら夜の森を全力疾走し、気づいたら草原の真ん中に突っ立っていた。


 巨大熊が追いかけてこないのは幸いだったが、もはや来た方向すらわからず、もとの場所に戻るすべも失ってしまった。


 スマホは充電したまま家の中。助けを求める通信手段もない。

 靴は玄関。裸足に靴下だけで走り回った挙げ句、足元はすでに血塗れともう最悪だった。


 月明かりさえない夜は、経験したことないくらい真っ暗で、周囲2メートルくらいしか視界が利かない。

 遠くからは、奇妙な鳴き声や獣の遠吠えも聞こえる。


 心細さに泣きそうになりながらも、その日は運よく見つけた大岩によじ登って眠った。

 天然のベッドは固すぎたが、外敵のいるらしい環境下で無防備な寝姿を晒せるほど豪胆ではなかった。


 翌朝。夢であってほしいとの切望空しく、わたしは草原の大岩の上で目を覚ました。

 天候は曇りがちで、落ちまくっていた気分が、さらにどんよりと滅入った。


 岩の上に背伸び立ちし、少しでも高い位置から周囲を見回したものの、遠くに望む山脈と、延々と続く草原しか見えなかった。


 ただひとつ希望となったのは、彼方の草原を横断する筋のようなものだった。

 周囲を警戒しつつ恐る恐る近づくと、それは道と呼べるほどではないにしろ、たしかに人の往来する足跡だった。

 同じところを何度も何度も通ったために、道のようになってきたのだろう。足跡は素人目にも真新しく、足跡のほかにも荷車の轍のような跡も見て取れた。


 少なくとも、この道の行き着く先には人がいる――


 右に行くか左に行くかを迷った末、右を選んで歩を進めた。


 そして、わたしの苦難がはじまった。


 昨夜の遠吠えの主らしい狼のような大型の野犬に襲われたときは、偶然見つけた小川へ飛び込んだり、近くの木によじ登るなどして、命からがらどうにか逃げ延びた。


 ようやく逃げ切ったと思ったら、今度は角を生やした肌色の気味悪い小鬼に出くわした。

 兄がゲーム好きだったため、わたしも幼い頃はその手のゲームをプレイしたことがある。

 RPGでお馴染みのゴブリンとかいう魔物に似ていた。ゲームでデフォルメされたキャラは愛嬌もあったが、実物は醜悪の一言に尽きた。


 もちろんわたしはその姿を見るや否や即座に逃げ出したけれど、手足のある小鬼は人と同じ行動が取れるため、追跡は野犬よりも執拗だった。

 幸運だったのは、相手が単独だったのと歩幅で勝っていたこと。追われはしたが、結果的に振り切ることができた。


 結局、野犬に4回、小鬼の化物に3回――襲われては逃げ出し、道に戻ってはまた襲われを繰り返しているうち、目的地に辿り着いたのは半日ほども駆けずり回ったあとのことだった。

 陸上部時代の遺産がなければ、とても持久力が持たなかった。こんなことで、小中高と陸上を続けたことに感謝することになるとは思いもよらなかった。


 それでもようやく人の暮らす町へ到着し、平和そうな住人の生活を目にして、人心地ついたときには報われた気分だった。

 やっと家に帰れる――そう安堵したのも束の間、町の人に助けを求めるも、どうにも話が噛み合わない。

 電話ってなに?とか言われたときには、本気で卒倒しそうになった。


 そこではじめて、わたしは自分が巻き込まれた現状を悟ることになった。

 誰もがわたしの話に眉をひそめ、必死に話せば話すほど奇異な視線を向けられる。


 絶望だった。

 あの日常にはもう戻れないと思った。


 そのときに頭を過ぎったのは、昔、神隠しに遭ったと聞かされていた叔父の白木征司のことだった。


 叔父も、同じようにこうして――と考えた瞬間、15年という歳月が重く圧しかかった。

 叔父は15年も帰らない。もしかしたら、このままずっと――そしてわたしなんかが、そんな境遇に耐えられるわけがない。


 思い出したような空腹と、もはや痛覚どころか感覚のないほど傷ついた素足、次第に実感していく孤独と諦観に、わたしは精も根も尽き果てた。


 天候もついに崩れ、大きな雨粒を容赦なく落としてきた。

 雨に濡れ、路地裏の小道で蹲っていることしかできなかったわたしに、声を掛けてきた者がいた。

 それがリコエッタだ。


 実際、リコエッタがいなかったら、わたしはこうして生きていられなかっただろう。

 そんな自覚があるからこそ、わたしは少しでも恩を返すべく、彼女の店で働くのだ。


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