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青木沙依のモテ期  作者: さき太
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第五章 青木沙依のモテ期

 「本当に密葬で簡略式でよかったの?」

 沙依(さより)のその問いに隆生(たかなり)は笑って、これでいい、ありがとう、と礼を言った。

 「あいつは半分人間でかつコーリャンだったからな。快く思ってなかった奴も多いし、そんな奴に送られたくないだろ?なら、見送るのは俺と神官のお前だけでいいかなって思ってさ。」

 そう言って隆生は遠い目をした。大きな戦争の後、この国に戻ってくるまでの間に彼にも色々あったのだろうと沙依は思う。この国のコーリャン狩り制度が廃止され、それが浸透した後この国で生まれたコーリャンの彼は、コーリャン狩りの実態を、コーリャンへの差別の苛烈さを身をもって体験はしていない。でも、制度が廃止されたからといって、差別禁止が浸透したからといって、差別が完全になくなるわけでもなく、彼自身嫌な思いをそれなりにしてきたと思う。そんな環境で育った彼は、普通に差別を憎み、当たり前に誰とでも分け隔てなく接する人だった。そんな彼に対し沙依は、平和な環境で普通に愛されて育った恵まれた人なんだなという印象を持っていた。普通に理不尽に怒ることができ、普通に理不尽を憎むことができる彼が、一度、龍籠(りゅうしょう)が滅ぶことになったあの戦争を生き延びて鬼に堕ちたというのは、沙依にとって納得できるものだった。一度鬼に堕ちたのに戻ることができて、あの戦争の発端となった人間と添って子を成したということは驚きだったが、彼らしいと言えば彼らしいのかもしれないと沙依は思っていた。

 隆生の息子、小太郎(こたろう)が息をひきとったのは昨日のことだった。人間とターチェの間に生まれた彼は、人間より老いる速度が遅く、しかしターチェと違い確実に年を取り、人間としてはとても長く、ターチェとしてはとても短い一生を終えた。そして神官である沙依の元に連絡が来て、父親である隆生の希望にそって、今日葬儀を挙げた。人間とも言えず、ターチェとも言えなかった彼が、いったいどんな人生を送ったのか沙依には解らなかったが、安らかな顔で眠るその顔を見て、その一生が決して悪い物ではなかったのだろうという事だけは想像できた。

 きっと思い出に浸っているであろう隆生の横に、寄り添うように女性の姿が見えて、沙依は目を細めた。女性が沙依に気が付いて笑う。隆生を助けてあげて、女性がそう言った気がして、沙依は小さく頷いた。会ったことはないが、沙依にはそれが隆生の奥さんだった人なのだと解った。沙依には時々こうやってそこにいない人が見える時があった。大抵はそこにいる誰かの、そこにいない誰かへの想いが見えているだけだったが、今見えている女性は彼女本人だと思った。沙依は魂が確かにそこに在るのを感じた。隆生が腕に嵌めている数珠には亡くなった彼の奥さんの霊力が込められているという。きっと彼女の魂は彼が心配で、亡くなった後もそこに残っていたのだと沙依は思った。隆生を鬼から人の姿に戻し、その生涯を彼と共に過ごした彼女。彼が再び鬼に堕ちないように、死んだ後もまだ彼に寄り添って守っているその人は、今もきっと彼のことを愛してるのだと沙依は思った。

 女性から視線を外し、沙依は隆生を視た。彼の魂を視て、目を伏せる。やっぱり呪いだったか。沙依は心の中で呟いた。予想はしていた。あの大戦後多くの者が鬼になったが、それ以前もそれ以後も何かをきっかけに鬼になった者の話は聞いたことがなかった。だから、あれはあの大戦の最中に発動の条件を満たしたものが鬼になる呪いをかけられたのではないかと思っていた。あの大戦を裏で操っていたアレは、そうやって人の魂を侵し壊し操ることが得意だったと聞く。きっと、皆が鬼になったのもアレの策略だったのだ。人の姿に非ず、人を害するものであれば、討滅することに後ろめたさを感じることはないから。わたし達を根絶やしにするためにきっとそうなる様にアレがターチェを呪ったのだと沙依は思った。

 呪いだと解ったところで助けることは無理だと沙依は思った。一度鬼に堕ちた隆生の魂は酷く穢されてしまっている。ここまで穢れが酷くては、一度魂の還る場所に戻りそこで穢れを落とすしかない。つまりそれは彼に一度死ねと言う事なのだ。そして一度死んだら、魂は次の生としてまたこの世に戻ってきても、隆生の人生はそこで終わる。沙依がそんなことを考えていると、女性が笑った。女性が自分の胸に手を置き目を伏せる。そして視線を上げると、真っ直ぐ沙依を見つめてきた。その視線を受けて、彼女の意思を感じて、沙依は、本当にいいの?と心の中で女性に問いかけた。頷く女性と目が合って、沙依はそっと目を閉じた。目を開けて、沙依は彼女の魂に隆生の穢れを移し始めた。魂が穢れるというのは生半可な苦しみではないはずだ。まして弱い人の魂でそれだけの穢れを受け入れるなんて無謀にもほどがある。苦痛に歪む女性の顔を見ながら、沙依はそんなことを思って、何度も途中で止めたくなった。それでも、彼の穢れを全部引き受けたいという彼女の強い意志が伝わってきて、沙依は最後まで止めずに全ての穢れを彼女に移した。全ての穢れを受け取った彼女が優しく微笑むのを見て、彼女を魂の還る場所へと送り出すべく沙依は祝詞を唱えた。

 「今の祝詞は?」

 隆生にそう問われ、沙依は答えた。

 「隆生の奥さんがね、隆生の穢れを全部持って行ってくれたんだよ。わたしはそれに少し力をかして、彼女が迷わず魂の還る場所に行けるように祝詞を唱えたんだ。お前の穢れは彼女と共に魂の還る場所に送られて、そこで洗い流される。これでもうお前が鬼になることはない。」

 隆生の魂に記された呪いの跡を影も形もなく消し去って、沙依は笑った。

 「隆生の奥さんは素敵な人だったんだね。」

 そう沙依が言うと、隆生はそうだなと言って沙依を見た。

 「ちょっと、お前に似てた。」

 そう言われて沙依は疑問符を浮かべた。

 「全然似てないけどな。なんつーかな。当たり前に人に手を差し伸べてくるところとか似てたなって。初めて会った時もさ、大怪我してたとはいえ俺、鬼だったんだぜ。しかも、俺を退治に来た奴らの死体が周りにはごろごろしててさ、そんな中で生きてたのが俺だけだったからってあいつ手当てしてさ。他の連中がどうだか知らないけど、俺は自我はあってさ、でも何だろうな、自分が止められないというか、そん感じで、多分あの時大怪我で動けなくなかったらあいつのことも殺してたんだと思う。鬼なんて近づいたら殺されて当然なんだよ。でもあいつはそんなこと何にも考えないで、別に恩売ろうとかそんなんでもなくて、本当にただそこに怪我してる奴がいたから手当てしたって感じでさ。あいつは鬼の俺を助けやがった。目が覚めて、気が付いた?なんて呑気に言ってる姿見た時、一瞬お前かと思った。あぁ、お前も無事だったのか、良かったな、なんて思ったら、なんかすっと元に戻ってた。」

 そう言って隆生は笑った。

 「あいつ、どっかのお姫様でさ。十五になったら生贄に出される話になってて、どうせ死ぬなら外の世界が見て見たかったって城から抜け出してきたらしくてさ。世間知らずで脳天気で、危なっかしくて、裏表がなくて純粋な奴で、でも我慢強くて根性があって。俺はいつもあいつが我慢してたって気付かなくて無茶させててさ。一緒にいるうちに情が移って、あいつを贄に寄こせって言ってた連中とっちめて、あいつの事城に返してさ。それで終わりだと思ってたのにな。俺、気付いたら花嫁泥棒してたんだぜ。笑えるだろ?それでめでたくあいつは実家に帰れなくなって、二人である意味逃亡生活。あいつには本当に苦労を掛けたと思うけど、あいつがいてくれたおかげで俺は本当に幸せだった。」

 そう言って隆生は遠くを見た。そうやって暫く何か物思いにふけってから、隆生は視線を戻した。

 「お前は誰かと一緒になったりしねぇの?ってか、ここ離れてる間になんか浮いた話とかなかったのかよ。」

 隆生にそう言われて沙依は、なかったわけじゃないけど、と難しい顔をした。

 「お付き合いしてた人とはうまくいかなくて別れちゃった。後は、最近コーエーに告白されて断って、うん、まぁ他にも色々あるけど、今のところ誰かと一緒になる予定はないかな。」

 そう言う沙依を見て、隆生は驚いた顔をした。

 「お前、ちゃんと色恋できるようになったんだな。成長したな。」

 そう言われて沙依は何か言い返そうとして、言い返す言葉が思いつかなくて黙り込んだ。そんな沙依を見て隆生は声を立てて笑った。

 「なんか凄くバカにされてる気がするんだけど。隆生はさ、昔からそうだよね。昔から人の事そうやって笑ってさ。なんて言ったらいいのか解らないけど、何かヤダ。」

 そう不貞腐れる沙依に隆生は、悪びれた様子もなく謝った。

 「いや、お前が誰かとどうこうなるのを真面目に考えるようになるとはなと思ったら、不思議な感じがしてさ。成得(なるとく)もなんかずいぶん雰囲気変わってたしな。しばらく会ってないと人って変わるもんだな。」

 そんなことを言って隆生は何かを思いついたような顔をした。

 「お前、成得とかどうなの?案外お前とあいつ良い気がするんだよな。」

 そう言う隆生に沙依は、意味が解らないよと言った。

 「ナルはさ、昔からあんなだし、そういう相手作る気ないんじゃないの?」

 そう言う沙依に、隆生は笑った。

 「お前自身はあいつのこと悪くないと思ってるんだ?」

 そう訊かれて、沙依は難しい顔をした。

 「解らない。ナル、昔からあれだし、今でも好きだのかわいいだのやたら言われるし。なんかナルはああいう存在でさ、それ以外の何かって想像がつかないよ。わたしの中ではお兄ちゃんが一番しっくりくるんだけど、お兄ちゃん扱いするのはダメて言われてるしさ。わたし自身、お兄ちゃんっていうのもなんか違うなって気はしてるんだけど、だからといって他の何かで表現できないというか。何扱いすればいいのか本当よく解らないんだよ。」

 そう言って頭を悩ます沙依を見て隆生が口を開いた。

 「じゃあ、俺と付き合ってみる?」

 「いや、隆生は友達がいいから、そういうのはいいや。」

 そう即答する沙依を見て隆生はニヤニヤ笑った。隆生のその反応に沙依は怪訝そうな顔をする。

 「俺もお前は友達でいいや。」

 隆生がそう言うのを聞いて、沙依は更に意味が解らないといった感じで、怪訝な顔をした。


         ○                     ○


 沙依は詰め所で頭を悩ましていた。第二部特殊部隊に復帰して暫く、色々と問題点が浮上して来てどうやってそれを処理していくべきか模索していた。昔の第二部特殊部隊はある意味手に負えない軍人たちの掃きだめのような場所で、隊員たちは戦争さえやっていればいいところがあったが、平和な今はそうはいかない。幾分か昔に比べて担っている職務は増えたが、それでも軍全体の人手不足の問題もあるし、もっと根本的なところから在りかたを変えていかなくてはいかないと沙依は考えていた。しかし、第二部特殊部隊の隊員たちは本当に戦う以外脳がない連中ばかりで、何ならできるのか、今からどう教えていくのか、どう教えれば伝わるのかなど、そんなところから既に思考が迷路に入り込んでいた。いくらかは仕込めば何とかなる者もいたが、職務内容にあまり差をつけるとそれはそれで軋轢が生まれる基だし、この部隊に誇りを持ってる隊員たちに出向しろなんて言ったらそれこそ火種になるし。そんなことを考えると、沙依は結局答えが出せなかった。

 こういう事はコーエーに相談するのが一番だけど、コーエーはな。今はちょっと会いにくい。いや、仕事に私情を挟むのはいけない事なのはわかるけどさ。そんなことを考えて沙依は、高英に告白された時の事を思い出した。彼には子供のころから面倒を見てもらって、家族として一緒にいることが当たり前だと思っていた。そんな彼からの告白は、沙依にとって予想外のことだった。ただ、考えてみれば自分が実家を出るちょっと前から彼の様子は変で、ちょっと怖かった。その不安感を解消するために彼にどうかしたのか訊ねても何も答えてもらえず、不安感が募って沙依は実家を逃げ出した。今思うと、それは彼が自分にそういう好意を抱いていて、それを自分に向けていたからだったのだと思う。逆に、どうかしたのか訊かれたからって答えられるわけはないよなとも思う。告白するまで、彼にも色々葛藤はあっただろうし、その葛藤の中には自分を気遣ってのことも多分にあるのだと沙依は思っていた。だから、彼からの告白は予想外ではあったが、沙依にとって受け入れがたいものではなかった。彼の気持ちには答えられないが、だからといって彼を拒絶する理由にもならなかった。それまでと変わらず、沙依は高英のことを心から信頼していた。だけど沙依は、今は彼の元に行くことに気が引けた。軍全体を管理する立場として、個人の執務室にこもって仕事をしている彼の所に足を運ぶことに、少し抵抗感があった。告白を断った時に、彼から抱きしめられ口づけをされそうになった。あの時は急なことで混乱したが、怖かったのだ。後からその時の恐怖が大きくなって、どうしようもできなくなった。自分が拒否をしたら彼は止めてくれたから、彼は変わってないのだと思ってるし、彼を信じてる。今でも信じられる。でも、自分の中に生まれた恐怖が消えてくれなかった。本当に危機的状況なら、すぐにでも上官として彼を頼るんだと思う。でも、そこまで切羽詰まった状況でもない今は、彼を頼ることに沙依は二の足を踏んでいた。

 こんなんじゃダメだな。そう思って、沙依はため息を吐いた。昔なら、こんなことすぐ切り替えできて気にしないでいられたのに、今はそういう事ができない。昔の切り替えの仕方が心を殺すことで、それが良くない事なのは解っている。でも、そうやって自分の感情を切り捨てて、何も感じなかった時は楽だったと思ってしまう。あの頃のように感情を切り捨てて感じないようにしてしまえばなんていう誘惑にかられ、沙依は成得の顔を思い出した。そうだよな。ナルは、わたしが感情を取り戻して心がちゃんと動くようになるように必死になってくれたんだよな。またわたしが昔みたいに戻っちゃたら、ナルは傷つくだろうな。ナルの事、裏切りたくないな。そんなことを考えて沙依は、このままでちゃんとどうにかできるようにならないとなと、決心し直した。

 沙依がふと外を目をやると、幸久(ゆきひさ)の姿が見えた。他の隊員たちになんやかんや言われながら職務に当たる彼を見ていると、こういうところはうちの部隊は成長したと思う。昔ならできない者の面倒なんて絶対見なかったのに、というかぼこぼこにして追い出してただろうに、怒声を浴びせながらもちゃんと指導しようという気は窺える。それが結果につながっているかどうかは別だが。そんなことを考えながら沙依は幸久に思いを馳せた。

 沙依が復帰した当初の幸久は、なんとか訓練についてこれる程度の実力で、正直どうにもならないくらいダメだった。職務の方はまだギリギリ何とかなるレベルだったが、正直使い物になるかといったらあやしいものだった。それが、沙依が指導に当たる様になって暫くした今は、戦闘能力もだいぶ上がりもう少しすればどうにかはなりそうなレベルまでたどりつけそうだし、職務も普通に使える程度になった。正直、幸久がこんなに頑張れる奴だって思ってなかったな、と沙依は思った。きっと元々根性はあったんだよな。あいつらにあれだけ怒鳴られてて今まで辞めなかったんだもんな。弱音吐かないし、言い訳しないし、何より次の日には笑って今日もお願いしますだもんな。幸久って凄い奴なんだな。これだけできるのにどうして今までどうにもならなかったんだろう?そんなことを考えて、それだけここの連中の指導能力が低いって事か?なんて思って、沙依は頭を抱えたくなった。

 急を要さない問題はひとまず置いておいて、沙依は優先順位の高い問題とどうにかなる問題から処理に当たり、計画を立てていった。書類を片付けつつ、自分も訓練に参加する。そして勤務後は幸久の補習指導に当たる。そんな風に、沙依は職務と幸久の指導に明け暮れる毎日を過ごし、気が付くとあっという間に数か月が経過していた。


         ○                     ○


 「さよちゃん。補習が全部終わったら、俺と一緒にご飯行ってくれない?話したいことがあるんだ。」

 沙依が幸久にそう言われたのは、基礎訓練の補修が終わって部隊の性質に特化した訓練へ移行しようと彼に意思を確認した時だった。彼は第二部特殊部隊で軍人を続けることを望み、沙依はそれを受け入れた。

 沙依は当初、幸久のことを軍人より実家の甘味屋の方が向いていると本気で思っていた。でも、彼はそれこそ死ぬ気で努力し、結果を出した。その過程を見てきて、幸久は本当にすごいと沙依は思った。子供の頃に自分も同じ訓練を受け、自分も泣き言は言わなかったが、いつだって本当に辛くて、くじけそうだった。自分は養父に見離されて切り捨てられるのが怖くて、捨てられるのが怖くて必死なだけだったが、彼は自分の意思で前向きに訓練に励んでいた。彼は第二部特殊部隊に残りたい一心で必死になり、死に物狂いで食いついてきて、今に至った。そんな彼の姿から、どんなに厳しくしてもついてきてくれるという安心感や、強い意志とそれを貫く覚悟が感じられて、沙依は嬉く思った。それと同時に、本当に凄いとも思った。こうやって笑っていられる幸久は本当に凄い。わたしはこうは在れない。そう思って、沙依は幸久を高く評価した。しかし、上官を通称で呼ぶのは話が違う。

 「だから、いくら勤務時間外とはいえ一応補習は職務中なんだから、上官をさよちゃんって呼ぶなよ。何度言えば解るんだ。」

 沙依はそう幸久を咎めた。いくら沙依が彼を高く評価しようと、彼の成長を喜ぼうと、自身が所属する部隊の隊長を一番下っ端の隊員が通称で呼ぶなんて許されるわけがない。何度注意しても、気を抜くと自分をさよちゃんと呼んでくる幸久に沙依は呆れた。注意され少し気落ちする彼に声を掛ける。

 「ご飯は別に構わないよ。補習が全部終わったらお祝いしてあげるよ。」

 沙依がそう言うと幸久はとても嬉しそうにしていた。何がそんなに嬉しいんだかと沙依は思う。話したいことっていったい何だろう?そんなことを考えながら、沙依は幸久の訓練に入った。

 それからの幸久は、今まで以上の気合を見せてあっという間に特化訓練の補習を終了させてしまった。それを見て沙依は、嬉しいような呆れた様な不思議な気分になった。

 「幸久おめでとう。今日で補習終了だよ。いや、まさかこんな早くできるようになるとは思ってなかった。ってか、お前その前の訓練より気合入ってたっけど、やればこれだけできるんじゃん。出し惜しみするなよ。」

 そう言う沙依に幸久は笑った。

 「いや、前も本当に死ぬ気で頑張ってたんですけど。これ終わったらって思ったら嬉しくて、早く終了させたいと思ったら、なんかすごい集中力と底力が出せました。」

 そう言って幸久は、補習終わったってことはもう職務外でいいのかな?と訊いてきた。それを聞いて沙依は呆れる。

 「確認が取れる前に言葉遣いが乱れてるよ。」

 そう言いつつ、自分含めてまともな言葉遣いなんてしてる奴の方が少ないから、通称で呼ぶことさえ気をつければ別にいいか、と言って沙依は笑った。

 「とりあえず、着替えておいでよ。わたしも支度してくるからさ。」

 そう言う沙依に幸久は疑問符を浮かべた。

 「食事行くんでしょ?補習が全部終わったら話したいことがあるって言ってたじゃん。どっちにしろ、お祝いしてあげるよ。幸久、本当に頑張ったし。」

 沙依がそう言うと、幸久は驚いた顔をして少し焦った様な態度をとった。それを見て沙依は疑問符を浮かべた。

 「いや、日を改めてだと思っていたので。」

 幸久のその言葉を聞いて沙依は、それもそうかと思った。

 「じゃあ、別の日にしようか。考えてみれば幸久も疲れてるよね。」

 沙依がそう言うと、幸久は少し考えてから、今日行くと言った。そうして二人は支度をし、食事に出かけた。

 食事を注文し会話をして待っている時、幸久に、職務中無理をしてるのではないかと問われ、沙依は思わず彼を見返した。彼の話したいこととはそのことなのだろうかと思って、沙依は彼の話を聞く体制に入った。確かに無理をしている自覚はある。ちゃんと職務をこなせていない自覚もある。それが部下に見透かされてしまうとはとんだ失態だ。その見透かされてしまっている度合いや、状況によっては、部隊の士気を下げることにも繋がりかねない。そんなことを考えて沙依は、ここは慎重に対応しなくてはいけないと思った。

 「普段のさよちゃんと、隊長のさよちゃんって雰囲気が別人みたいに違うからさ、無理してるんじゃないかなって。俺じゃ頼りないかもしれないけど、少しでも支えになれたらなって思う。あまり無理はしてほしくないなって思うよ。だから、もし気張ってるのが辛くなったら、俺のところに来て。俺はさよちゃんが本当はこうだって知ってるから、俺の前では気張らなくていいよ。さよちゃんのどんな姿を見たって俺は絶対に幻滅しないし、ついて行くよ。」

 幸久のその言葉を聞いて沙依は驚いた。幸久は、普段の様子との違いで自分が無理をしていると想像しただけなのかと思うと、沙依はほっとした。そして、幸久の提案は魅力的でもあった。沙依は目を伏せて、そっと自分の中の誘惑を断ち切った。気張るのは確かに辛い。隊長として立ち続けるというのは本当にきつい。特に今の自分は昔の様にはできなくて、本当に苦しい。でも、だからといって幸久に甘えるわけにはいかない。それは許されない。そう自分を律して、沙依は幸久に笑い掛けた。

 「ありがとう、幸久。でも大丈夫だよ。とっくの昔に隊長として皆の上に立つ覚悟はできてる。それがどういう道なのかもよく理解してる。その上でわたしはあそこに戻たんだよ。だから心配してくれなくても大丈夫。わたしはそんなにやわじゃない。」

 そう、わたしはそんなにやわじゃない。やわであってはいけない。それができないなら、隊長なんてできない。軍人なんて続けるべきじゃない。そう思いつつ、誰かに甘えたいという自分がいるのを感じて、沙依は苦しくなった。

 食事と飲み物が運ばれてきて、沙依は飲み物に手を伸ばした。一口飲んで疑問符を浮かべる。ジュースを頼んだつもりが、これはお酒だ。店員さんに言って変えてもらおうか?そうも思ったが、それほど度数も強くなさそうだし、少し飲みたい気分だなと思って、沙依はそのままそれをちびちび飲んだ。こんなんじゃダメだなと思う。戦う事しか能のない自分は軍人しかできないとも思う。でも、甘ったれな自分はきっと本当は軍人に向いてない。そう思うと沙依はどうしたらいいのか解らなくなった。無理はしなくていいと言う成得の顔が思い出されて、優しく抱きしめられて頭を撫でられたことを思い出して、沙依は彼に会いたくなった。ナルはもうお兄ちゃんに戻ってくれないから、もうわたしにあんな風には接してくれないよね。解ってるけどさ、解ってるけど、ちょっとだけ甘えちゃダメかな?ダメだよね。ダメだっていつも言ってるもんね。そんなことを考えながら、沙依の意識は徐々に遠のいていった。

 沙依が気付くと、いつの間にか寄宿舎に戻って来ていた。

 成得が目の前にいて水を差しだしてくる。沙依はそれを飲みながら、成得の小言を聞いていた。なんだかんだ言ってもナルは本当に優しいよなと思う。今だって自分のことを心配して色々言ってくれている。そう思うと沙依は嬉しくなって、思わず頬が緩んだ。それを見て成得が怒る。何か今日はいつもよりすごく怒ってるな。わたしが何回言ってもどうしようもないから、そろそろナルも我慢の限界なのかな。ナルに見捨てられるのは嫌だな。見捨てられる前にちゃんとしなきゃな。そんなことを考えながら沙依は成得の言葉に返事をしていた。

 成得が本当に怒っていると思うのに、沙依は彼が本気で心配してくれているのが嬉しくて、心配かけてごめんね、と言いながら笑ってしまった。その瞬間、彼に引き寄せられて唇を奪われる。何が起きたのか認識する前に、彼に強く抱きしめられて、沙依は混乱した。何だろうこれ?ナルの心臓の音がすごく早くて、全身に伝わってくる。

 「俺の好きはさ、こういう意味の好きだから。俺はお前が好きだ。ずっと前から好きだった。ずっと前からお兄ちゃんじゃなくて、お前の恋人になりたかった。お前の全部受け止めて、お前をおもいっきり甘やかしてやりたいって思ってた。俺のことも受け止めて支えてほしいって思ってた。ずっとそう思ってた。だから、他の奴に甘えてほしくないし、他の奴の前で無防備な姿さらしてほしくないんだよ。そう言う姿はさ、俺にだけ見せてほしいって、独り占めしたいって思うんだ。」

 成得の声が聞こえてきて、収まらない彼の鼓動が自分の鼓動と重なって、沙依は訳が分からなくなった。確かにずっと彼からは好きだと伝えられていた。それに特別な意味があるなんて思ってもなかった。でも、それはわたしが勝手にそう思ってただけで、ナルは本当はずっとこういう意味の好きで言ってたの?顔が熱い。どうしよう。わたし、どうしたらいいんだろう?何かを伝えなければ、何か返事をしなくてはと思うのに上手く言葉が出てこなくて、沙依はますます訳が分からなくなった。そして、彼は自分の身体を離していたのに、自分が彼にくっついたままだったことに気が付いて、沙依は自分の顔がさらに熱くなるのを感じた。

 「ちょっと、考えさせて。」

 それだけ言って自分の部屋に逃げ帰る。部屋に戻ると沙依は布団にダイブし、顔を埋めた。わたしナルとどうなりたいんだろう?ナルはわたしと恋人になりたいって。わたしは・・・。考えがまとまらないままぐるぐると延々思考が廻って、そのまま沙依は眠りに落ちた。


         ○                     ○


 沙依は昨晩のことが頭を過って仕事が手につかなかった。何とかスローペースで少しづつ処理していくが、今日はミスがひどく多く、部下から心配され続けていた。今が平時で、特に何もないからどうにかなっているが、そう言う問題ではなく、こんなんじゃ部下に示しがつかない。あぁ、どうしよう。どうしたらいいんだろう。ちゃんと仕事しなきゃ。そんなことを考えつつ、ふとした瞬間に昨晩のことを思い出して思考が停止する。そんなことを続けて半日。何とか業務をこなしたが、沙依はもう駄目だと思っていた。もう無理。個人的な事でこんなに仕事に障らせるとかさ、ありえないよ。隊長失格だよ。やっぱわたしに隊長とか向いてないんだよ。沙依はそんなことを考えて、一馬(かずま)を呼び出した。

 「一馬。わたし、やっぱり隊長に向いてないと思う。この部隊はさ、お前がひっぱっていってくれないか?」

 そう言う沙依を見て一馬は驚きを隠せなかった。

 「何言ってんだ。あんた自分で半年間って期間設けて俺たちにあんたが隊長としてふさわしいかどうか判断させたんだろ。俺たちがそれでもあんたを隊長にって望んだら、あんた腹決めるって言ってただろうが。今更そんなこと許されると思ってんのか?」

 そう訊かれて黙り込む沙依を見て、一馬は沙依を防音のきいた個室に連れて行って鍵をかけた。

 「何考えてんだ、しっかりしろよ。あんたらしくないだろ。」

 そう怒鳴る一馬に沙依は笑った。

 「解ってる。しっかりしなきゃいけないことも、どうしなきゃいけないのかも解ってる。解ってるんだけどさ、昔みたいにちゃんとできないんだよ。だから、いくらお前らがそう望んだとしても、ちゃんとできないなら退くべきだとわたしは思うんだ。」

 そう言う沙依の目が存外真剣なのを見て取って、一馬はしばらく黙り込んで何か考えていた。

 「隊長。とりあえず、あんたが自分のどういう部分をこの部隊の隊長としてふさわしくないと判断したのか聞かせてもらっていいか?」

 口を開いた一馬が冷静にそう言うのを聞いて、沙依はやっぱりもうこの部隊に自分は必要ないと思った。一馬はずいぶんと成長した。昔ならとりあえず怒鳴りつけてきたのに、今はちゃんと問題解決のために情報収集しようとしている。それに彼には自分が不在の間この部隊を纏め上げていた実績もある。ただでさえたいした実力もないくせに、昔みたいにできない自分なんてここにはいらない。やっぱりわたしはここの隊長にはふさわしくない。そう思って沙依は言葉を紡いだ。

 「自分がふさわしくないと考える理由は色々あるが、一番は私事を引きずって仕事がおろそかになったことだ。仕事に私情を挟んだり、個人の問題に気を取られて業務に集中できなかったり、今日なんて酷いものだったでしょ?こんなこともちゃんとできないようでは、示しがつかない。それに今のわたしは、昔のように何があっても動じず何事にも冷静に対処することはできない。こんなんじゃさ、皆を引っ張って行くなんてできない。そんな資格なんてないんだ。」

 それを聞いて一馬は激昂した。

 「本気でそんなこと言ってんのか?そんなことで自分が隊長にふさわしくないって、本当に思ってやがるのか?俺たちはな、ここの隊長はあんたじゃないとダメだってそう思ってんだよ。誰だって私情に行動が縛られることはあるだろ。たまにゃ、上の空になることだってあるだろ。ちゃんとするとこちゃんとしてりゃ、そんなことどうでもいいんだよ。昔みたいにできなくたって、あんたじゃなきゃダメなんだ。誰が何と言ったって、俺はあんたの方針に従うし、あんたについて行く。そんなことで弱気になってんじゃねぇ。」

 そう一馬に怒鳴りつけられて、沙依は困ったように笑った。

 「一馬。お前がわたしに従うのはさ、それは・・・。」

 「沙依‼」

 一馬が沙依の言葉を遮った。ハッとして沙依が一馬を見上げる。一馬は沙依の目をしっかり見つめて、彼女に言い聞かせた。

 「俺がお前に従順なのは、お前を隊長として認め、お前の判断が正しいと思ってるからだ。お前が隊長に就いたばっかの時にお前の命令を無視して、連れてた部下を全員死なせて小隊を壊滅させて、お前の命も危機にさらしたせいじゃない。俺はそんなに繊細じゃない。自分のバカさ具合には腹が立ったが、そんなことが怖くなってお前に逆らえなくなるほどやわじゃない。俺は本当にあんたを隊長として認めて慕ってるんだ。だから俺はあんたに従うんだ。」

 一馬はそう言って、沙依の瞳の中に不安を見つけて、頭を悩ませた。そして、深く頭を垂れた。

 「沙依、悪かった。お前がそうやって一人で立っていなきゃいけなかったのも、気張り続けてなきゃいけなかったのも、全部俺たちのせいだ。」

 そう謝って、一馬は頭を上げると沙依に語り掛けた。

 「お前が入隊した時から、俺たちはずっとお前を認めなかった。お前の存在を否定し続けた。お前が隊長になった時だって、反発しかしなかった。お前はそれでもこの隊を纏めるために、俺たちに隙を見せるわけにはいかなかったんだよな。少しだって気を許す訳にも、弱みを見せる訳にもいかなかったんだよな。ずっとそんな風にきちまったから、自分がそうあり続けないといけないなんて思い詰めちまうことになったんだな。でも、今はもう違うんだ。俺たちは全員お前を認めてる。お前はもうそうやって気張る必要なんかない。一人で全部やらなくていいって、足りないところは他の誰かが補えばいいって、そう言ってたのはお前だろ。なら、お前も全部一人でしようとしないで、俺たちのこと頼れよ。俺はお前の副官だ。お前のできない事は俺が肩代わりしてやる。だから、俺たちの隊長でいつづけてくれ。俺たちが必要としてるのは、そうやって気張り続けるお前じゃないんだ。俺たちにあるべき姿と行くべき道を示してくれる指針として、お前が必要なんだ。この部隊でそれができるのはお前しかいない。」

 そう言うと一馬は沙依に笑い掛けた。

 「欺瞞で自尊心を満たしてただけのあいつらに、本物の誇りを持たせて自信つけさせてここを纏め上げて、あの無法地帯だった第二部特殊部隊を今の状態に変えたのはお前だぜ。今だって、お前が戻ってきたら隊員達の士気が高まって全体が締まった。お前がこの平和な時代にも俺たちの役割があって、俺たちがどうしていなかなくちゃいけないのかを示して指揮を執ってくれるから、俺たちは誇りを失わずにいられる。いくらお前の真似しようとしても、俺じゃお前みたいに広い視野持って物事考える頭もないし、孝介はああいう奴だからお前みたいに全体を想って行動するなんてしないだろ。ここの隊長はお前しかいないんだ。自信を持て。」

 一馬の言葉を聞いて、沙依は目を閉じた。彼から言われた一つ一つの言葉が自分の中に沁み込んで来るのを感じる。一馬の言葉を受け止めながら、以前孝介から高慢だと言われたことを思い出して、周囲を見下してると言われたことを思い出して、沙依はそれが事実だったと痛感した。

 「ごめん。わたしお前たちの事バカにしてたのかもしれない。」

 そう言う沙依に一馬は、本当にな、と苦笑した。

 「本当、あんたは俺たちの事バカにし過ぎだ。ちったぁ信用しろ。気が晴れたなら業務戻るぞ。」

 そう言って部屋を後にしようとする一馬に、沙依は声を掛けた。

 「ありがとう、一馬。わたし頑張る。今度こそちゃんと腹くくってお前らの隊長ちゃんとするから。」

 そう言う沙依を見て一馬は満足そうに口角を上げると、その場を去って行った。沙依はそれを見送って、深呼吸し気持ちを切り替えて部屋を後にした。


         ○                     ○


 非番だったある日、沙依は幸久に呼び出されて彼の元に赴いた。

 「さよちゃん、なんか最近様子がおかしいけどどうかした?」

 幸久にそう訊かれて、沙依は成得に告白をされた時のことを思い出して固まった。そういえば、考えさせてと言って放置しっぱなしだ。沙依はそのことを考えようとすると、頭の中がごちゃごちゃになって訳が分からなくなって、いつも考えるのを諦めた。でもふとした瞬間にその時のことを思い出してどうしようもなくなる。そんなことを繰り返して、結局放置したままになっていた。いったいあれから何日たったっけ?どうしよう、そろそろ返事しないとダメだよね。そんなことを考えて沙依が頭を悩ましていると、幸久に話し掛けられた。

 「何か悩みがあるなら話して。俺はさよちゃんの部下だから、さよちゃん俺には甘えられないって思ってるのかもしれないけど、俺はさよちゃんに頼られたい。俺、さよちゃんのことが好きなんだ。付き合ってください。」

 そう言われて一瞬何を言われたのか理解できなくて沙依は疑問符を浮かべた。真剣な顔の幸久と目が合って、今彼が何て言ったのか思い出して、ようやく何を言われたのか認識する。

 「ごめん、幸久。わたしお前の事、そういう対象として見たことないや。」

 そう言う沙依に幸久が、食い下がる。

 「じゃあ、これからそういう対象として見て考えてくれないかな?俺、いくらでも待つから。」

 そう言われて沙依は、ごめんと言った。

 「お前のことは凄いと思うし、尊敬できるところもあるけど、そういう対象としては見れない。いくら待たれても困るから諦めて。わたし、自分より弱い人とは付き合わないって決めてるんだ。」

 そうバッサリ切られて幸久は撃沈した。そんな幸久を見ているのがいたたまれなくて、沙依は一言、ごめんねと言ってその場を後にした。

 歩きながら沙依は最近あったことを思い出していた。何かここの所やたら告白されてる気がする。何だろう?これが美咲ちゃんが言ってた所謂モテ期ってやつなのかな?なんか怖い。自分が今何歳なのか覚えてないけど、少なくとも五・六千年は確実に生きてきた中でこんなこと初めてだよ。何が起きてるの?そんなことを考えて沙依はふと、返事してないのナルだけだなと思った。他の人は皆即答で断ってるのにさ、何でナルだけ保留にしてるんだろ?そう思ってまた訳が分からなくなった。

 沙依は子供のころから成得に付きまとわれていた。いつも見つかると抱きつかれて、何かよくわからないことを沢山言われてた気がする。あと昔は胸とかお尻触られて嫌だった。プライベートでは遭遇したくない人だったのは覚えてる。でもナルは昔から頼りになる人だった。どんなに酷い噂を耳にしても、酷い態度をとっている彼を見ても、沙依には彼が悪い人には見えなかった。昔から沙依は成得のことが嫌いではなかった。そんなことを思い出して、沙依は今の彼に思いを馳せた。大きな戦争の後に再会した彼は、前世で兄妹だった頃の記憶を取り戻していた。自分が末っ子の末姫で、彼が二番目の兄だった頃の記憶。前世の記憶を持った彼は、本当に次兄にそっくりだった。だから、勘違いしてしまったのだ。彼に兄を重ねて甘えてしまった。我慢しなくていい。強がらなくていい。全部受け止めてやるから。お前がどんなだって俺はお前が大好きだよ。そう言って自分を助けてくれた彼の愛情を、兄からのものだと勘違いして甘えてしまった。本当はそうじゃなかったなんて気づかずに、甘え続けてしまった。彼といるのが心地よくて、安心できて、離したくなかった。だから、彼がもう兄妹じゃないんだから、俺はお前のお兄ちゃんじゃないと言ってるのに、ちゃんと聞き入れなかった。彼なら自分のわがままを許してくれると、ずっと甘えていた。前世で次兄にそうであったように、同じように彼に甘え続けていた。

 沙依が寄宿舎に戻ると、そこに成得の姿があった。告白を受けた時のことを思い出して少し鼓動が早くなる。あの時、彼に唇を奪われ抱きしめられた。その時別に嫌じゃなかった。思い出しても嫌な感じはしなかった。彼からそうされることが沙依は嫌ではなかった。あの時の彼の鼓動の速さを覚えてる。全身でそれを感じてわたしは・・・。

 「ナル。わたし、ナルはお兄ちゃんじゃなくて恋人でもいい。」

 驚いたような顔をして成得が振り返った。

 「ナルのことが好き。これがどういう好きかよく解らないけど、わたしナルと一緒にいたい。一緒にいてくれなきゃヤダ。だからわたしの恋人になって、わたしの傍にいて。」

 そう言って沙依は何故か泣きたくなった。そう彼への好きが何なのかよく解らない。でも彼のことは本当に好きだ。彼と一緒にいると本当に心地よくて安心できる。彼に凄くドキドキするわけではないけど、いつだって心の奥の方から大好きだなって気持ちが溢れてきて暖かい気持ちになる。傍にいたい。傍にいてほしい。わたしは彼の温もりに包まれていたい。彼を温もりで包んであげたい。そう思う。

 「ナル、大好き。」

 沙依のその言葉を聞いて、成得の顔が一気に赤くなった。

 「ちょっ、心の準備ってもんがさ。普通、返事ってそんな唐突にするもんなの?」

 そう言って成得は呆れたように笑って、沙依に近づいた。

 「抱きしめてもいい?」

 成得にそう訊かれ、沙依は頷いた。彼にそっと抱きしめられて、彼の鼓動が聞こえてきて、それに合わせるように沙依の鼓動も早くなった。なんか不思議だな。勝手に抱きつかれてた時は嫌だったのに、今はこれがすごく心地よく感じる。そんなことを考えて、沙依はそっと目を閉じた。

 「お前さ、本当にいいの?恋人になるってことはさ、つまり、俺とキスしたりとかさ、それ以上も俺求めちゃうし、兄妹するのとは訳がちがうぞ?」

 成得がそんなことを言ってきて、沙依は小さく笑った。昔から人が嫌がって避けてても見つけ出しては勝手に抱きついてきてたくせにさ、こっちが良いって言うといつもこうなんだから。良いって言ってるのに、しつこいぐらい人の気持ち確認してきてさ、無理してないかとか、我慢してないかとか訊いてきて、本当、意味が解らないよ。

 「解ってる。ちゃんと解ってるよ。それでもわたしはナルと一緒にいたい。わたしの傍にいてくれる人はナルがいい。」

 沙依は心からそう思った。自分がこんなに安心できて、素直に甘えられるのはこの人しかいない。この人と離れるなんて考えられない。だから、ナルにも我慢はしてほしくない。自分といる時は安心してありのままの自分でいてほしい。ナルがわたしを受け止めてくれるように、わたしもナルの事受け止めてあげたいんだ。沙依はそう思って言葉を紡いだ。

 「わたしナルの事大好きだから、我慢しないでナルのしたいようにしていいよ。」

 沙依のその言葉を聞いて、成得の顔が沸騰した。

 「お前、それってさ、すごく誤解を招く言い方だと思うぞ。お前は何にも考えてないんだろうけどさ、そういうこと言われると理性が飛びそうだから止めて。さすがにそういう事は勢いでしたくないから。」

 自分を抱きしめたまま成得が、低い声で呻くようにそう言って項垂れて、沙依は疑問符を浮かべた。

 「何も考えてなくないよ。沢山考えた結果だよ。ナルがわたしのこといつだって受け止めてくれるからさ、わたしもナルの事受け止めてあげたいなって。ナルにも我慢とかしてほしくないなってそう思ってさ。前、辛い時はぎゅってしてきていいよって言ったら、ナルわたしに恋人出来たらどうするのって言ってたけどさ、ナルが恋人なら万事解決だよ?もう我慢しないで好きなだけぎゅってしてきて大丈夫だよ?」

 そう沙依は必死に釈明した。何故か呆れたように笑われて混乱する。

 「沙依、ありがとう。本当に嬉しい。」

 成得の声が聞こえて、沙依を抱きしめる彼の腕に力が入った。早鐘を打つ心臓の音がいったいどちらのものなのか沙依には解らなかった。ただ、あぁ、わたしこの人のこと本当に好きだなとしみじみと沙依は感じた。

 「キスしていい?」

 耳元で成得の声がして、沙依が小さく頷き、二人はそっと口づけを交わした。


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