第四章 児島成得の災難
「次兄様はどうしていなくなっちゃったの?どうして帰ってこなくなっちゃったの?」
帰宅して食事場の扉を開けると、沙依のそんな声が聞こえてきて、成得は胸が締め付けられる思いがした。次兄様とは、前世で兄妹だった頃に彼女が自分を呼んでいた名だった。何を思い出してそんなことを呟いたのかは分からない。ただ、その頃のことがまだ彼女の中に強く残っているのだと思うと、成得は複雑な思いがした。
成得に気が付いて笑っておかえりと言う沙依の顔に、涙の後を見つけて、成得は心がざわめいた。
「どうかしたのか?」
そう言って沙依の頬の涙の後を拭う。沙依は驚いた顔をして自分の目をこすって、弱弱しく笑った。
「コーエーにさ、告白されたんだ。」
そう言う沙依は今にも泣きそうな顔をしていた。それを見て成得は、あぁついにあいつ告白したのか、と思いながら沙依の頭を撫でた。
「ほら、泣きたかったら泣いちまえ。我慢することじゃないぞ。」
そう声を掛けると、沙依はぽろぽろ涙を流し始めた。彼女はずいぶん素直になったと思う。昔なら、いや、ほんの数年前だったら、彼女はこんな風に人前で泣いたりしなかった。こうやって彼女が自分の前で素直でいるのは、自分と彼女が前世で兄妹で、お互いにその時の記憶があり、それを前提にした信頼関係ができてしまったからだと成得は思っていた。潜在的に彼女が自分を兄だと思っているからこそ彼女から心を許されている。そう思うと、成得はどうしようもない気持ちになった。自分はもう彼女を妹だとは思えない。それは彼女にも伝えているし、自分も男なんだからあんまり信用されても困るとも伝えているが、彼女にはちゃんと伝わっていないと感じる。好きだとも伝えているのに、彼女は全く自分の気持ちに気付かない。それにほっとしている自分と、それを残念だと思っている自分がいて、成得はいつも苦しくなった。彼女を失いたくない。この関係を終わらせたくない。でも、彼女が欲しい。この関係を終わりにして違う関係になりたい。そんな気持ちが入り混じって、いつもどうしようもなくなった。
「あいつに告白されたのがそんなに嫌だったのか?それともなんかされた?」
涙を流し続ける沙依に成得は疑問をぶつけた。それを聞いた沙依が首を横に振る。
「わたしはずっとコーエーのこと家族だと思ってたけど、コーエーは違ったんだって。わたしのこと、ずっと家族だと思ってなかったんだって。コーエーのことは大好きだよ。だけど、わたしコーエーのことそう言う風には思えない。コーエーは家族でさ、家族でいるのが当たり前でさ、繋がってたのだって家族だからだって思ってた。でも、違ったんだって。そう思ってたのはわたしだけだった。」
沙依の言うコーエーとは、彼女の叔父の青木高英のことだった。彼女が幼いころから一緒に暮らして、彼女の面倒をずっと見てきた人物。過保護で、自身の能力である精神支配で彼女をずっと監視し、彼女の危機には即対応して彼女を守り続けてきた人物。彼のその異常な愛情を、彼女はずっと家族として愛されてるからだと信じて疑っていなかった。それが、本当は女として見られてて、ストーカーされてただけだったって認識したら、そりゃショックだよな、と成得は思った。あいつのやってたことまじで気持ち悪いし。親のような存在として過保護だったとしてもあの行為は相当気持ち悪い。それをずっと受け入れてたとか、なんで沙依はこんなに人の善意を信じて疑わないんだろう?そんなことを考えながら成得は沙依の話を聞いていた。
「そりゃ、ショックだったな。考えたら、父親から急に告白されたようなもんだもんな。気持ち悪いよな。」
成得がそう言うと、沙依はまた首を横に振った。
「そう言う事じゃないんだ。昔のわたしにはコーエーしかいなくて、コーエーがわたしの支えだったから。コーエーはさ、そういう事解ってたから、ずっと自分の気持ち我慢して隠してくれてたんだと思う。わたしがコーエーがいなくても大丈夫になったから、ようやくコーエーが我慢しなくて良くなったんだなって、そう思ったらちょっと嬉しかった。ようやくコーエーは荷が下ろせたんだって思ったら、ほっとした。コーエーのことは今でも好きだし、信頼してるし、気持ち悪いとかは思わないよ。」
そう言う沙依は心からそう思っているようで、口調も表情もとても柔らかく優しくて、成得は疑問符を浮かべた。
「なんて言ったらいいのかな?淋しいとか、そういうのが一番しっくりくるのかな。コーエーと家族でいられないんだなって思ったら、ここにあったはずの確かなものがなくなっちゃた様な気がしてさ。なんて言うのかな?手をつないで歩いてたら、急に手を離されておいてかれちゃって、そこに一人ポツンって残されちゃったみたいな、そんな感じ。繋いでた手の温もりは確かにあるのに、もう手を繋いでもらえないんだなって、そんな感じだよ。大切なモノがぽっかり無くなっちゃたみたいなさ。喪失感だね。それが辛いの。」
沙依のその言葉を聞いて成得は、なるほどねと思った。沙依の思考回路は理解できないけど、その気持ちはよく解る。自分もずっと怖かった。家族としての繋がりとか絆というものは、ひどく確かなもののような気がして、それが無くなるのが凄く怖かった。沙依が自分を兄だと思って慕ってくれるなら、兄妹という関係を続けたかった時もあった。今だって、今の関係を失うことが怖くて、彼女には自分の本当の気持ちに気付かないままでいてほしいなんて思っている自分もいる。でも抑えきれないこの気持ちに気付いて、受け入れてほしいと思う自分もいる。そして結局腹を決めきれなくて今のこの関係を続けている。
「その気持ちはわかるよ。俺もさ、お前が俺の手を離して高英に泣きついてった時、そんな気持ちだった。あぁ、やっぱ今はもう家族じゃないんだなって実感して、きつかった。お前と俺の間にはそんな絆はなかったんだって思ったら、どうしようもなくなったよ。」
そう言う成得に、沙依は驚いたような顔を向けた。
「お前、本当に鈍感だよな。あの時さ、俺はお前に怒ってたんじゃなくて、そんな気持ちで落ち込んでただけなの。結局、お前が家族として甘えたかったのはあいつで、それが叶わなかったから俺んとこ来てただけなんだなって思ってさ、本当きつかった。こう考えると、お前酷い奴だな。そういう正直なところも好きだからいいけど。お前がそれで楽になれるなら、俺、都合のいい男でもいいや。あの時が特別なだけで、今後都合のいい男扱いするならそれなりの報酬もらうけどね。前みたいに無償で都合のいい男なんて絶対やってやらないけどね。もう俺お前のお兄ちゃんじゃないし。」
薄ら笑いを浮かべてそう言う成得に、沙依はごめんと謝った。
「わたしのそういうとこが、きっといつも磁生に怒られてたところなんだよね。最近ようやく怒られてた意味が、なんとなくだけどわかってきてさ。まだよくわからないこと多いけど、改善はしてくから。本当、ごめん。」
そう謝る沙依を見て、成得は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「どうせお前には理解できないし、絶対改善しないね。いくら考えたって無駄なんだからやめたら?」
それを聞いて沙依がむっとした顔をする。
「無駄かどうかなんてわからないじゃん。わたしだってさ、悪いところは直そうと努力してるんだよ。それにさ、ナルにもいつも怒られるし、怒られたくないし。ナルが怒るのわたしのこと心配してくれてるからだって解るから、心配かけたくないなとかさ、色々わたしだって考えることがあって、本気で直そうと思ったんだよ。今までこのままでいいやって思ってたのを本気で直そうって思ったの、ナルが本気でわたしと向き合ってくれるから、それに応えようと思ってなのにさ、無駄とかやめろとか言わないでよ。いや、わたしが一番悪いのは解ってるんだけどさ。解ってるけど。・・・ごめんなさい。」
不貞腐れたように言い始めて、最後はシュンとして謝ってくる。ナルごめんねと言って、上目使いで沙依に見上げられて、成得は言葉に詰まった。くっそ、かわいい。かわいすぎて本当に辛い。本当さ、本当、解ってない。そんなかわいい態度でそんなこと言われたらさ、お前にその気無いの解ってても勘違いしたくなるからね。お前も俺に気があるんじゃないかなって思っちゃうから。そんな気一ミリもないの解ってるけど、期待しちゃうから、まじでやめて。
「無駄とか言って悪かったよ。でもさ、お前のその無自覚で我儘自由奔放なとこも、甘ったれで泣き虫なとこも、四方八方に愛振りまいてるとこも、末姫だった頃から変わらないし、昔から、お前のそういうとこが好きでかわいいと思ってたし。ちょっとはどうにかしろって思う時もあるけど、今のままのお前が好きだし。直らなくても別に嫌いにはならないからさ。別に無理して直さなくてもていいと思うぞ。どうしても直したいなら、少しづつ改善できればいいんじゃない?」
成得がそう言うと、沙依が笑顔を向けてくる。
「ありがとう。ナル、大好き。」
そう言われて成得はとっさに自分を抑えた。だから、気軽に大好きとか言ってくんなよ。俺の好きとお前の好きは違うからね。お前は絶対同じだと思ってるけど、違うからね。くそっ、本当かわいい。そんな態度続けてたらそのうちまじで押し倒すぞ。そんなことを考えて、成得は心の中でため息を吐いた。ある意味でこの状況は自業自得だもんな。沙依が鈍すぎるのもあるけど、無自覚だった頃に好きだのかわいいだの言い続けて、散々抱きついたり抱きしめたりセクハラしてきて、俺がそういうことするのが当たり前になってたし、沙依に性的欲求抱いてるのはひた隠しにしてるし、今更ちょっとやそっとなんかしたって気付かれないのが仕方ないことだって解ってるけどさ。解ってるけど。まじで辛い。
「そういや帰ってきた時、次兄様って聞こえてきたけど、あれ何だったの?」
とりあえず話を逸らして成得は気持ちの切り替えをはかった。
「あぁ、ちょっと昔の事思い出しちゃってさ。今のこの感じ、次兄様がいなくなっちゃった時と同じだなって思ったんだ。次兄様、わたしの知らない間に家出てっちゃって、他の皆はたまに来てくれるのに、次兄様は来てくれなくて、淋しかった。次兄様だけぽっかりいなくなっちゃったみたいでさ。そのうち来てくれるかな?なんて思ってたけど、ずっと来てくれなくて、姉様に聞いても辛そうな顔して何も教えてくれないし、それ見たら、なんかストンってもう次兄様は来てくれないんだなって、胸の中に入ってきてさ。その時、今と同じ気持ちになった。それ思い出したらさ、あの時次兄様はどうしていなくなっちゃたのかなって、どうして帰って来てくれなくなっちゃたのかなって気になったんだ。どうしてだったの?」
そう言う沙依に成得は、どう答えるべきか悩んだ。その頃の記憶を持ってる成得は、もちろん沙依の言うところの次兄様(前世の自分)がどうして家を出たのか、家に戻らなかったを知っている。でも本当のことを沙依に伝えられなかった。伝えたくなかった。知られたくなかった。あの時の次郎の想いを、彼女には絶対知られたくなかった。だからといって姉に、あんたがいたら安心して嫁にいけないと罵声を浴びせられたから出て行ったとも言えなかった。その時のことを姉が酷く悔やんでいたことを知っているから、ここに姉がいなくても姉のせいにはできなかった。妹の中で姉を悪者にすることはできなかった。
「あの頃はさ、色々葛藤することがあったんだよ。ほら、いい年して浮いた話なかったの俺だけだったし、姉貴からかって姉貴怒らせちまって、そのままふらっと出てったらそのまま帰り辛くなってさ。それだけ。俺がいい年してそんなガキみたいなことしてたのが悪いのに、姉貴は自分のせいだって思ってたみたいだけどな。」
嘘とも本当とも言えないところで適当に話を作って成得は説明した。沙依はそれを鵜呑みにして、そうだったんだなんて言って納得した様子だった。
「何か特別な事情があって帰ってこないのかと勝手に思ってたや。そんな理由だったなら、淋しいの我慢しないで、次兄様帰ってきてって大泣きすればよかったな。そうすればさ、次兄様なら絶対帰って来てくれたでしょ?わたし次兄様のこと大好きだったから、いなくなって本当に淋しかったんだよ?我慢して損した。」
そう恨めしそうに言う沙依を見て成得は、何言ってんだよとため息を吐いた。
「お前の一番大好きなお兄ちゃんの四郎がまだ残ってただろ?物失くした時くらいしか人のとこ来なかったくせに、よく言うよ。」
そう呆れたように言う成得に、沙依は、あれはわざとだよ、としれっと言った。言われたことの意味が解らなくて、成得は疑問符を浮かべた。
「わたしが失くし物してたのわざとだよ。次兄様の所に行く口実作るのに、わざと物落としてたの。」
「はぁ?どうしてそんなことすんだよ。意味が解んないんだけど。」
成得は思わずそう口に出していた。
「だってさ、御用もないのに次兄様のとこ行くと姉様が怒るんだもん。次兄様、勝手にお兄ちゃんの部屋に入っちゃダメっていつも叱ってきたけどさ、それでも追い出したりしないし、構ってくれるし、なんだかんだ言っていつもわたしの味方してくれるし、次兄様といると居心地よくて、安心できて、癒されたんだよ。だから何かあると次兄様のところ行って甘えたかったのに、姉様が次兄様に近づいちゃダメって言うからさ、子供なりに知恵を絞って次兄様に会いに行ってたの。」
そう言うと沙依は成得の目をまっすぐ見つめた。
「今だから解ることだけどさ、あの頃、次兄様だけは、子供だからとか、末姫はそんなことしなくていいとか、わたしの気持ちや意思を切り捨てるような事を絶対言わなくて、いつだってちゃんと話を聞いてくれて、わたしの気持ちに寄り添ってくれてさ。そういうのが嬉しくて、居心地よかったんだと思う。あの頃はただ次兄様と一緒にいるの居心地良いな、好きだなって感じしかなかったけど、あれは次兄様が本当に優しくてわたしを大切にしてくれてたからで、それがかけがえのないものだったって今なら解るよ。だから、あの時次兄様がいなくなって本当に辛かったんだと思う。」
それを聞いて成得は胸が締め付けられる思いがした。大切な末姫にこんな思いさせてたとかさ、本当次郎はアホだな。そんなことを思って、一応次郎の代わりに謝っておく。
「それは悪かったな。くだらない理由で急にいなくなってさ。正直、末姫からそんなに慕われてたなんて知らなかった。俺なんてどうせいてもいなくてもそんなに変わらないだろくらいの感覚しかなかったよ。」
成得のその言葉を聞くと沙依が笑った。
「こうやって話してると、ナルがまだ次兄様みたいだね。またお兄ちゃんだと思ってもいい?」
そう言われて成得は、ダメと即答した。
「記憶があるから思い出話に付き合うくらいするけど、俺は次郎じゃないから。お前も末姫じゃないし、俺たちは兄妹じゃないからね。無理だから。受け入れられないから。」
そう言うと沙依は、けちと言って残念そうな顔をした。けちってなんだよと言って、成得はいつもの薄ら笑いを浮かべる。
「お前がどうしても俺と家族になりたいって言うなら、旦那になってやってもいいぞ。実際兄妹にはなれないしな。お前、俺の養子になるの嫌だって言うし、俺もお前の養子にはなりたくないし。家族やるなら夫婦になるしかないよな。」
小馬鹿にしたように成得にそう言われ、沙依はいじわると不貞腐れた。
「じゃあ、お兄ちゃんじゃなくてお父さんでもいい、かな?やっぱ、ヤダ。ナルはお父さんて感じしない。ナルがお父さんとか無理。」
沙依のその呟きを聞いて成得は、本気で考えるなよと心の中で突っ込んだ。ってか、確かに前に自分の養子にならないか訊いたことあるけどさ、考えるのそっちなの?どうせ考えるなら夫婦になる方じゃないの?そっちは?そっちも無理って言われたらそれはそれできついんだけどさ。本当、沙依の思考回路は意味がわからない。そんなことを考えて、成得はため息を吐いた。
「お前が本気で気落ちしてんのは解ったけどさ、甘えたいなら沙衣とか美咲とか女相手にしとけよ。あいつらなら話聞いてくれるし慰めてもくれるだろ。男相手にそんなことしてると、痛い目見るぞ。基本、男は下心の塊だと思っとけよ。そうやって弱み見せるのは、男女の仲になってもいいって思える相手だけにしとけ。高英のことでも解っただろ、お前が安全だと思ってる相手がお前に下心持ってないとは限らないからな。」
そう言って成得は沙依の頭をポンポン撫でた。沙依が難しい顔をして善処すると言って、成得は、前も言ってたけど、だからそれ何に対して善処すんの?と思った。本当、その気をつけるべき相手に俺も含まれてるって解ってんのかね。俺だってお前に下心持ってんだからさ、本当、そんなに信用されても困る。ただでさえ、磁生が出てったせいで寄宿舎に二人暮らしになってるしさ。基本的な生活空間が共有なとこに好きな女と二人暮らしって、それだけでもきついのに。まじでやめて。やめないなら本当、俺の女になって。俺の女になったら好きなだけ甘やかしてやるから。そんなことを考えて成得は心の中でため息を吐いた。
○ ○
「あなたの策略通り青木沙依がめでたく恋人と別れて、恋敵だった司令官も撃沈して、これで取られる心配も暫くないだろうってほっとしたのもつかの間でしたね。」
沙依が仲良く男と話してる様子を目撃した成得の隣に、いつの間にか楓が現れて、いつも通りの無表情で淡々とそう話し掛けてきた。
「これ目撃させるためにわざと仕事内容操作して仕向けたよね?」
「なんのことですか?そんな訳ないじゃないですか、偶然ですよ。そんなことする理由もないですし。」
しれっとそう言う楓に成得は、俺への嫌がらせだよね、と心の中で突っ込んだ。
「あれ、どうしようもなく使えないことで有名な桂幸久だろ。確かにあいつ沙依にのぼせ上ってるみたいだけど、あいつはないだろ。」
そう言う成得に楓はどうでしょうねと言った。
「桂幸久は青木沙依の行きつけの甘味屋の息子ですし、軍人としてはダメでも職人としては優秀ですよ。食い意地の張った青木沙依が胃袋を掴まれて懐柔されるというのもあるんじゃないですか?それに恋は人を変えますからね。あれだけのぼせ上ってたら、彼女のために劇的になにか変わるってこともあるかもしれないですよ?そしたら、どっかの誰かさんがもたもたしている間にとられちゃうかもしれませんね。ヘタレで手が出せないうちに見下してた相手に好きな女を取られる、滑稽ですね。笑えます。」
全く表情を変えず淡々と言う楓の言葉を聞いて、成得は不安感が募った。ちょっとだけ術式を使って二人の会話を盗み聞いてみる。楽しそうに話す二人が、今度の幸久の非番の日が甘味処の休日と重なってるから、店で甘味づくりをする約束をしていて、成得は気が重くなった。甘味処の休日は女将が遠出していない日だ。つまりその日は沙依と幸久二人きり。あからさまに自分に下心ある奴と二人きりになるってどういうつもりなの?絶対、沙依のことだから何も考えてないんだろうけどさ。そもそも、なんであんなあからさまなのに、あいつの下心には反応しないの?お前そういう感情向けられるの苦手だったんじゃないの?あいつにはそういう感情向けられても平気なの?つまりなに、そいつとならそういう関係になってもいいって思ってる訳?そんなことを考えて成得はもやもやした。
「盗み聞きした結果はどうでした?」
楓にそう訊かれて、成得は何も答えなかった。
「脈ありだったんですか。へー。それは本格的にとられちゃうかもしれないですね。どっかの誰かさんは、せっかくお膳立てしてあげたのに手一つ出せないヘタレですもんね。好意を伝えるにしたって、相手に伝わらないような誤魔化しのきく言葉選びしかできないヘタレですもんね。彼が玉砕したとしても、それからもきっと何もできないまま失恋するんでしょうね。ヘタレで何もできないうちに失恋するのは構いませんが、それで仕事に支障を出されたら本当に迷惑ですよね。うざいし、迷惑だし、そんな風になるならいっそ死んでしまえばいいのに。」
何も答えなくても楓に追い打ちを掛けられて、成得は促されるまま詰め所に戻った。
詰め所に戻った成得は、通常業務を処理する片手間に桂幸久の個人データを調べた。こいつ基礎能力は高いんだよな。テストではいい点数がとれるけど、実戦で生かせないタイプ。実際に見て見ないと解らないけど、確かに化ける要素はあるな。沙依も軍に戻ってくるって言うし、あいつの所属沙依の部隊だし、あれだけダメだと確実に沙依が直接指導に入るだろうな。で、更生させるか、ダメなら切り捨てられるか。あのダメさから更生したら、楓ちゃんの言ってることもあり得るかも。そんなことを考えて成得は憂鬱な気分になった。
少しだけ手を休めてから、成得は気を取り直して仕事を処理する。仕事を処理しながら、千里眼で沙依の様子を窺って、沙依はやっぱりかわいいなと思った。能力使って好きな女覗き見するとかさ、何どっかの誰かみたいにストーカーちっくなことしてんだろ。本当、俺気持ち悪い。こんなことするくらいならさ、俺もちゃんと告白するべきなんだよな。沙依だって恋人と別れてもうだいぶたつもんな、そろそろ次の恋したっておかしくないよな。他の男にとられたくないなら、ちゃんとそういう態度とらなきゃいけないんだよな。そう思いつつ、まだ踏ん切りがつかない自分がいて、こういうところがヘタレだって言われるんだろうなと成得は思った。
「ねぇ、楓ちゃん。楓ちゃんって本気の告白したことある?」
成得がそう訊くと楓は、ないですよと答えた。
「特定の相手なんて邪魔だけですから、そういうことをする必要ないですし。恋愛感情やその機微を知るために、そういう相手を作ったこともありますが、相手から言わせるように仕向けましたしね。」
その答えを聞いて成得は、だよね、と呟いた。うん。君がそういう人だって知ってた。聞いた相手を間違えた。
「どうせ訊くなら、そこら辺にいるあなたに告白して玉砕した人達に訊けばいいじゃないですか?きっと喜んで教えてくれますよ。当時どんな想いであなたに告白したのかとか、ついでに今どう思ってるのかとかも教えてくれるかもしれませんね。ちょっと呼んでみましょうか?」
「やめて、まじで。」
とっさに止める成得を一瞥して、楓は口を開いた。
「いったい今までどんなふりかたしてきたんですか?」
「そういう相手作るつもりないって。その時は本当にそう思ってたし。」
成得の答えに楓はため息を吐いて、背後に気をつけてくださいね、とだけ言った。それを聞いて成得は、俺のふり方って命狙われるような内容なの?と思った。まじで?そういう相手作る気ないって言っておきながら作ったら恨まれるのも解るけどさ。でも最後に告白されたのももうずいぶん昔の話だしさ、普通もう他の奴のとこいってるでしょ。そんな俺の事引きずってるような奴いないんじゃないの?数百年単位で引きずられてたら怖いよ。と成得は思いつつ、いや、世の中そういう事もあり得なくないな、と思い直した。そして、沙依に何か危害を加えればどうなるのかよく理解してるうちの連中なら、沙依に危害は行かないだろうとは思うが、一応警戒しておこうと成得は思った。沙依な。あいつ高英以外にも本人が気づいてないところで異常者に守られてるからな。なんか前に磁生が沙依に向かって、異常者によくモテるなって言ってたけど、本当そうだよな。俺含め、あいつに惚れる奴ってだいたい異常者だよな。沙依には異常者を引き寄せるなにかがあるのか?そんなことを考えて成得は遠い目をした。
○ ○
成得は、沙依と幸久が二人で食事に行くのを、本人たちに気付かれないように尾行し監視していた。
沙依が第二部特殊部隊に復帰し数か月、彼女の指導の元で幸久は見違えるように成長した。強くなっただけじゃない。今の彼は顔つきも変わったし、態度も堂々として誰がどう見ても立派な軍人に見える。それに沙依も彼のことを高く評価していた。
「わたしが子供の頃に行徳さんから受けた訓練と同じことして、それに食いついてくるお前見て、ちょっと嬉しかった。子供だったわたしとお前を比べちゃいけないのかもしれないけど、わたしが辛くて仕方がなくて、何度もくじけそうになった訓練を弱音一つ吐かずについてくる姿や、次の日には笑って今日もお願いしますって言うお前見て、凄いなって思った。」
沙依がそう幸久に話している姿を見て成得は、これは楓ちゃんが言ってたことが本当になるかもなと思った。まだ恋じゃない。でも少しだけ、沙依は幸久に惹かれてる。そう感じて成得は苦しくなった。そして幸久が沙依をデートに誘っているのを聞いて、成得は付いてきてしまったのだ。
いったい俺は何してるんだろ?そんなことを考えて成得は自分が情けなくなる。結局、二の足踏んでちゃんと気持ちも伝えられなくて、他の男にとられそうになって、こんなことしてるとかさ。二人を監視してどうするつもりなんだ俺は?邪魔するわけでもなく、横槍入れて連れ去るわけでもなく、ただ見てるだけ。しかも見てるだけなら千里眼で事足りるのに、こんな所までついて来てさ、本当何やってるんだろ。そんなことを思いつつ、成得は二人の様子を盗み見ていた。
「普段のさよちゃんと、隊長のさよちゃんって雰囲気が別人みたいに違うからさ、無理してるんじゃないかなって。俺じゃ頼りないかもしれないけど、少しでも支えになれたらなって思う。あまり無理はしてほしくないなって思うよ。だから、もし気張ってるのが辛くなったら、俺のところに来て。俺はさよちゃんが本当はこうだって知ってるから、俺の前では気張らなくていいよ。さよちゃんのどんな姿を見たって俺は絶対に幻滅しないし、ついて行くよ。」
暫くして、そう言う幸久の声が成得の耳に聞こえてきた。沙依はそれをやんわり拒絶したが、少し彼女が揺らいだのを成得は見逃さなかった。根本的に沙依は甘ったれだ。とっさに強がってしまう癖があるが、本当は誰かに甘えたくて仕方がない。今は隊長としての自覚が沙依を思いとどまらせたが、幸久が自分の部隊の部下じゃなかったらきっと落ちていたんじゃないかと成得は思った。今は拒否したけどさ、でも、あと一歩、部下としてじゃない幸久の何か一押しがあれば、きっと沙依は落ちるんじゃないかな。そう感じて成得はその場にいることが辛くなって立ちあがった。店を出る前、幸久が告白しようとしたタイミングで料理が運ばれてきて、機を逃した彼が落ち込むのを見て、成得は少しほっとした。少し猶予ができただけ、それだけのことなのに酷く安堵してる自分がいて苦しくなった。
「本当、俺何やってるんだろ。」
店を離れたところで成得はそう呟いた。結局、辛くなってその場を離れたのに二人のその後が気になって、千里眼で様子を見る。机に突っ伏している沙依と焦っている幸久が見えて、成得は小さく笑った。あいつ酒飲んだのか。弱いくせにさ、飲むなよ。飲むとすぐ寝ちまうんだからさ。男と二人の時にそんなもん飲んで何かあったらどうすんだよ。成得はそう思いつつ、今日はそれに救われたなという思いが湧いた。幸久のあの様子を見れば告白が上手くいかなかったことは解る。多分、告白する前に寝落ちされたんだろう。幸久が沙依を何とか揺すり起こして半ば抱きかかえるように店を後にしたのを確認して、成得は沙依を回収しに行った。
「お、沙依。こんなとこで何してんだ?酔ってんのか?ほら、しっかりしろ帰るぞ。」
そう声を掛けて幸久から沙依を奪う。
「こいつ同じ寄宿舎だから、連れて帰るわ。」
そう言って成得はその場を後にした。自分で自分が白々しいと思う。ずっと監視してたくせにさも今遭遇したように装って、声かけて、女奪い取って。やっぱり沙依を誰かにとられたくない。自分の物になってほしい。自分以外に甘えてほしくない。そういう無防備な姿を見せるのは自分だけにしてほしい。そんな思いが駆け巡って、成得は気持ちが爆発しそうになった。
寄宿舎につくと、成得は沙依に水を差しだした。
「お前さ、酒弱いんだから外で飲むなよ。顔に出ないくせにコップ一杯飲む前に潰れるんだからさ。ってか、もう一切飲むな。」
そう言う成得に、沙依は半分寝ぼけた顔で、うんと言った。
「ジュース頼んだつもりがお酒でさ。そんなに度数強くなさそうだったし大丈夫かなって思って。今度から度数強くなくても飲まないようにする。」
そう言って呑気に笑う姿を見て、成得は怒った。
「お前、あのまま連れ帰られて何かあったらどうするの?寝てる間に変な事される可能性だってあったんだぞ。」
そう声を荒立てる成得に沙依は、幸久はそんな人じゃないよと言って笑った。それを見て、成得は更に腹が立ってきた。
「そうじゃなくて、そうじゃなくてさ。俺、お前が好きだから男の前で無防備な姿さらしてほしくないって言ってんの。相手がどうとかじゃなくて、そうならなくてもそういう事が起こるかもしれないって思ったら気が気じゃなくなるの。お前が誰かになんかされるかもって考えるだけでさ、俺、耐えられないの。」
そう言う成得に沙依は、心配かけてごめんね、と言って呑気に笑い掛けてくる。あぁ、本当解ってない。こいつは本当に解ってない。そう思った瞬間、成得は沙依の唇を奪っていた。唇を離すと彼女の身体を強く抱きしめる。
「俺の好きはさ、こういう意味の好きだから。俺はお前が好きだ。ずっと前から好きだった。ずっと前からお兄ちゃんじゃなくて、お前の恋人になりたかった。お前の全部受け止めて、お前をおもいっきり甘やかしてやりたいって思ってた。俺のことも受け止めて支えてほしいって思ってた。ずっとそう思ってた。だから、他の奴に甘えてほしくないし、他の奴の前で無防備な姿さらしてほしくないんだよ。そう言う姿はさ、俺にだけ見せてほしいって、独り占めしたいって思うんだ。」
成得はそんなことを一気にまくし立てて、あぁやっちまったと思った。どうしよう。俺なんてことしたんだろう。そんなことを考えて怖くなる。腕の力を抜いて、恐る恐る沙依の様子を見て、成得は固まった。
「ナル。あの、えっと、その。」
耳まで真っ赤にした沙依が自分の胸に身体を預けたまま動揺している。え?これ沙依だよね?沙依が俺にこういう反応するとか。え?成得は頭の中が軽くパニックになって、一気に顔が熱くなった。なにこの状況?どうなってんの?これってどういうこと?
「ちょっと、考えさせて。」
成得が自分でやって自分で造り出した状況に混乱している間に、沙依はそう言って走って自分の部屋に入って行った。それを目で追って、成得はその場に座り込んだ。本当、なにこの状況。考えさせてって事は期待していいって事なのかな?いや、沙依の事だし、あいつ酒飲んで酔っ払ってたし、明日には忘れてるとかありえるかも。そんなことを考えて成得は頭を抱えた。やばい。心臓の音が収まらない。もう、本当恥ずかしくて死にそう。いや、でも、今の沙依、今までで一番かわいかったな。そんなことを考えて更に顔が熱くなって、成得はどうにもならなくなった。
○ ○
「さっきから手が止まってますが、ちゃんと仕事してくれますか?」
楓にそう言われて、成得は怠そうに視線を上げた。楓の顔は相変わらずの無表情で何を考えてるのか全く分からない。
「あのさ、どっからどこまでが君の仕業かきいていい?」
そう言う成得に楓は、そんなこと聞いてどうするんですか?と答えた。何も答えない成得を見て楓が口を開く。
「だいたいあなたが想像してる通りですよ。以前あなたが青木隊長を恋人と破局させるために、わたし達にアホな内部諜報・工作訓練させたじゃないですか。訓練は終了しましたが、そこで立てた作戦を一部の者で継続実行してました。まぁ、つまるところ、私用で公的に人のこと使ったあなたへの嫌がらせです。半分は流れに任せてですが、青木隊長があなたのいる寄宿舎に入居したのはこっちの仕業ですね。磁生に関しては、彼が訓練期間明けて正式に入隊を希望していたとしても、寄宿舎を出て行くように仕向けるつもりでした。後はわたしにできる程度の軽い思念操作と、桂幸久が上手く青木隊長に接近できるように工作したりとか。だからといってあなたを煽るための駒なのに上手くいかれては困るので、彼の告白を妨害したりとか。結果はあなたの知っての通りですよ。わたし指示の訓練として報告書あげますか?うちの部隊は身内をはめることも、捜査することもざらにありますしね。どっかの誰かさんを見習ってそういう名目の訓練だったって事にしましょうか。」
そう言って楓が差し出した一枚の写真を見て成得は固まった。
「他にも数枚ありますが、これらを一部にこっそりばらまいたら面白くなりそうですよね。ばらまかなくても、もしあなたが青木隊長と付き合うことになったら、あの人の親衛隊がどう出ますかね?あなた評判悪いですし、彼女の恋人があなただっていうのだけは絶対に嫌だっていう人多いんじゃないですか?嫌がらせ程度で済むといいですね。なんていったって、あの人の親衛隊は過激ですから。」
それを聞いて成得は血の気が引いた。それが嫌がらせって、本気で命が危ないんだけど。この平和な時代に一人厳戒態勢とらなきゃいけないってことだよね。そんなことを思って、成得は対策を頭の中で必死に考えた。
「あなたに死なれては困るので死なないようにだけは助けてあげますが、せいぜい頑張ってください。」
しれっとそう言って楓が去って行った。楓の背中を見送って成得はため息を吐いて天井を仰ぎ見る。こうなっちゃったもんはしょうがない。本当、前に楓ちゃんに言われた通り、まともな恋愛経験がないから自分が上手く制御できなくてさ、本当、俺バカだ。こんなの普通に想定内じゃん。本気で沙依と付き合いたかったら、最初から対策練って対応しておくべき事案じゃん。それが腹決められないまま、楓ちゃんたちの策略に嵌って勢いであんなことしてさ。そんなことを考えて成得は自己嫌悪に陥った。昨日の沙依を思い出して思考がそっちに移る。今日は会えなかったけど、あいつ昨日のことちゃんと覚えてるのかな?ちょっと考えさせてって、いつ返事くれるんだろ?もう一回ちゃんと告白した方がいいのかな?そんなことを考えて成得はもやもやして、気持ちを切り替えた。また楓ちゃんに怒られる前にちゃんと仕事しよう。そう考えて、成得は仕事にとりかかった。