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黄昏英雄譚シリーズ

太陽

作者: 憂木 ヒロ

 オレンジ色の斜陽が優しく差し込んでくる夕暮れ時。

 よく手入れされた芝の中庭、中央の噴水を眺められる木陰のベンチで、アリスは息を吐いていた。


「はぁ……。思ったより、大分きつい仕事でした……」


 小人族である彼女は地面に付かない足をぶらぶらさせながら、予想以上に多忙だった仕事の内容を思い返す。

 掃除に洗濯、調理に庭仕事……ダメだ、考えただけで頭が痛くなりそうだ。

 アリスは仕事をする能力はあるが、そこまで仕事人間という訳でもない。あまりに忙しい仕事の数々に、やる気満々で挑んだ初日の彼女はもうどこにもいなくなっていた。


「トーヤ殿と一緒にいられる、はずだったのに……」


 アリスはがくりと首を折って項垂(うなだ)れる。頭の後ろでくくった長髪も垂れ下がり、彼女の顔にかかった。

 ここリューズ邸にアリスが初めて足を踏み入れたのが、つい三日前。

 マーデルでの事件を無事に解決し、ようやく彼女も思い人と同じ仕事場に勤められることになったのだ。

 ……が、いざ仕事を始めるといつでも彼と一緒になれる訳ではなかったし、むしろ殆どの時間は別の場所での作業となってしまっていた。

 調子に乗って幻想を見すぎたな、とアリスは自分を戒める。


「もう……私の馬鹿っ……!」


 アリスは膝を両手でパンと叩き、頭を振った。

 と、そこにゆっくりと足音が近づいてきて、少年が声をかけてくる。


「どうしたの、アリス?」


「……はっ! ト、トーヤ殿!?」


 アリスが顔を上げると、そこに立っていたのはトーヤだった。

 彼は若干茶色味がかった黒髪を掻きながら苦笑を浮かべる。


「アリス、顔に泥が付いてるよ」


「……へっ?」


 全く予期していなかった台詞に、アリスはポカンと口を開けてトーヤの顔を見た。

 トーヤはポケットから白いハンカチを取り出すと、アリスの頬に手を伸ばして付着した泥を拭き取る。


「よし、取れた」


 アリスの前にしゃがみ込み、彼は彼女の頬を撫でて笑った。

 まっすぐ瞳を見つめられアリスは数瞬遅れて羞恥を感じ、思わず目を逸らす。自分の顔が熱を帯びていくのが見なくても明らかだった。

 

「す、すみません。先程まで庭仕事をしていたもので……」


「そうだったのか……。あれは大変だよね、何しろ庭が広すぎるし」


 ほんのりと顔を上気させているトーヤは、アリスの隣に腰を下ろした。

 ハンカチで首筋の汗を拭い、彼も仕事で疲れているのか溜め息を吐く。

 彼が使ったハンカチがついさっき自分の頬を拭かれた時に使われたものだということに気づいたアリスは、慌てて言った。


「と、トーヤ殿、そのハンカチ……汚いですよ! 私のこれを使ってください!」


「いや、いいよ。汚したら悪いし……臭いとか、気になるでしょ?」


 トーヤが微笑んで遠慮の言葉を口にした。

 本当に申し訳なさそうに断る彼だったが、もっと申し訳なく思っているのがアリスである。

 彼女はトーヤに自分の花柄のハンカチを押し付け、彼と目を合わせて強い語気で言う。


「いいえ、これを使ってくださいトーヤ殿。やはり綺麗なものを使った方が、衛生上も良いでしょうし!」


 それらしい理屈に納得したのか、トーヤは頷いてアリスのハンカチを受け取った。

 更にアリスは汗を拭う彼に、腰に携えていた水筒を外して渡す。


「たくさん汗をかいているようですし、どうぞ私の分の水を飲んでください」


「え、いいの!? ありがとう、ちょうど喉渇いてたとこだったんだ」


 真冬でも動くとすぐ暑くなるよね……などと言いながら、トーヤはアリスの水筒の中身を一口で飲み干してしまった。

 空になったそれを軽く放って返し、彼は目を細めてアリスを見る。


「ふふ……何だか、世話焼きの妹が戻ってきたみたいだな……」


 トーヤのそのどこか遠い目は、『神殿テュール』から帰還した夜に見せたものと同じだった。

 アリスは腕で体を抱き、視線を膝の先へ向ける。


「…………」


 トーヤは妹を亡くし、アリスは兄と生き別れになってしまっている。あの夜の後から、互いに失った穴を埋めるように二人は寄り添い、手を繋いできた。

 それでも……アリスは、その関係性に違和感を抱いていた。

 こんな関係ではなく、私は……。

 だがそれを上手く言葉に表すことが何故か出来ず、アリスは喉まで出かかった言葉を飲み込んでしまう。


「……アリス?」


「いえ、何でもありません」


 はっきりとした口調でアリスは言い、無理に作った笑みを見せた。トーヤはその笑みが作られたものであることには気づかず、奇妙そうに彼女の顔を見つめている。


 ――私をあなたのお嫁さんにしてもらえませんか


 マーデルへ向かったあの船の上ではこんなに大胆な発言をしてのけたのに、今二人きりでいる時に何で言えないの……!

 アリスは彼に表情を悟られぬよう顔をうつ向かせた。その様子にトーヤは首を傾げる。

 

「本当にどうしたの、アリス? 何か変だよ」


「そ、そういえば! トーヤ殿はもう仕事はよろしいのですか!? サボっていては後でモアさんに厳しい仕置きを食らってしまうのでは……?」


 顔を下に向けたまま、叫ぶようにして訊ねた。

 トーヤはアリスの問いに穏やかな声で答える。


「あぁ、それなら大丈夫だよ。この後はルーカスさんと剣の訓練をする予定だから」


「そういえば、あの人に剣術に教わっていると話していましたね。……忘れていました」


 アリスは音も立てずに立ち上がり、トーヤの前に来て彼に笑いかけた。


「確か、もうそろそろ時間でしたよね? 私もその訓練の様子、見ていてもよろしいでしょうか」


 トーヤが行っている剣の訓練には以前から純粋に興味があった。

 彼も、彼に剣を教えているというルーカスも、アリスが見た限りではかなりの実力者である。

『神器使い』と『魔剣使い』。この二人の剣の訓練は、恐らくアリスに想像のつかないほど高次のものなのであろう。

 その高度な訓練を一度目にしてみたい。アリスの専門は弓矢だが、兄が剣を何度も振っている隣に自分もいたのだ。剣について何も知らない訳ではない。


「うん、構わないよ。ただし、近づきすぎると危ないからそこのベンチに座って見ているんだ」


 トーヤはすっくと立つと、背中の剣を軽く鞘から抜き、また音を立てて戻した。金属質な小気味良い音が響く。

 彼はアリスの肩に手を置き、軽く押してベンチに座るよう促す。


「……ルーカスさん。遅かったですね」


 トーヤが振り返ると、噴水の前に寄りかかる体勢でルーカスがそこにいた。

 アリスは驚いた。ルーカスがいつ現れていたのか、その気配に全く気づけなかったからだ。


「遅れてすまんな、トーヤくん。おや、アリスちゃんもいるのか。……二人で何を話していたんだ?」


 赤い瞳を細め、ニヤニヤと笑って言うルーカス。

 トーヤとアリスは二人で顔を見合わせ、揃ってブンブンと首を振った。 


「べ、別に何も話してませんよ」


「そ、そうです! 私達、特に何かしていた訳じゃないですから」


「ふうん……。ま、いいか。剣の準備は出来ているかな、トーヤくん」


 細身の刀身が特徴的な東洋の『カタナ』を腰から抜いたルーカスは、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる。

 その笑顔にうっかり頬を染めそうになったアリスは、ベンチに慌てて体を預け、二人を見守る態勢に入った。

 トーヤも背から長剣『グラム』を抜き取るとそれを下段に構える。


「いつでも、始めていいですよ。僕の準備は出来ていますから」


 トーヤがきりっと柳眉を吊り上げ、ルーカスを鋭く睨んだ。

 白髪赤目の魔族の青年は、挑戦的なトーヤの視線を面白そうに微笑して受け止める。


「では、いかせてもらおうか」




 そう呟いた、その瞬間。

 いや、その動きは刹那と表した方が正しいだろう。

 アリスの目にも留まらぬ速さでルーカスがトーヤに迫っていく。

 そして、魔力を帯びた剣が放つ閃光と甲高い金属音。


「はああッッ!!」


 気合いを込めてトーヤが叫ぶ。

 彼の剣とルーカスの刀の刃が交差し、ギリギリと凌ぎを削っていた。


「完璧に防いでいるな……。あれほどの速度で切りかかった俺を止めるとは、なかなかやるじゃないか」


 神器は魔剣の勢いをどんどん殺し、その力を弱めていってしまう。

 ルーカスの魔剣『紫電(しでん)』はその名から分かる通り雷属性。同じ属性を有する神器『グラム』は、その魔力を殆ど吸収することが出来るのだ。


「『魔剣』相手なら、君はもう負けんな……。さあ、次は普通の剣でやろうじゃないか」


 異次元の動きをする彼らを端から眺めていたアリスの心臓の高鳴りは、ルーカスの寒い一言で一気に萎んでいった。

 それはトーヤも同じだったようで、彼の剣からも魔力の光が徐々に失われていく。

 当のルーカスは特に気にする様子もなく、普段と変わらないにっこり笑顔でトーヤに予備の剣を渡した――かなり強い精神力だな、とアリスはこの時内心で感心していたのだが、それは誰にも言えない秘密である――。


「は、はい。ではやりましょう」


 トーヤはグラムと大して長さの変わらない剣を持ち、それを軽く振った。充分満足のいく剣だったのか彼は目を細める。


「あっ、鞘はどうする? 付けてやった方がいいか?」


「いえ、そのままの刃で構いませんよ」


 ニコリと笑い、余裕の態度のトーヤ。

 相手は彼よりもずっと剣の経験があり、実力でも一切劣ることのないルーカスなのに、どうしてこんなに余裕になれるのか。アリスはハラハラした思いで自分が恋慕する少年を見守る。


「トーヤ殿、無理はしなくて良いのですよ……?」


 彼の身を案じて言うと、トーヤはアリスを振り返ると親指を上に立てて応じた。

 大丈夫だ、と仕草で伝える彼だったが、それでもアリスは心配の気持ちを拭い去れない。


「本当にいけるのか、トーヤくん? 前に一度鞘なしでやって以来、君は安全のためだと言って鞘を必ず付けるようにしてたじゃないか」


「平気ですって! 僕、神殿攻略とかつい先日の事件で強くなりましたから。もうあなたの剣にやられることはありませんよ」


 トーヤの剣の腕を疑う訳ではないが、アリスはどうして彼がこれほどまで強気なのか気になった。

 腕を組み、うーむと唸る。それを考えている間に、トーヤはルーカスにもう斬りかかり始めていた。


 夕陽を反射して煌めく銀の刃。

 二対の長剣が交差し、離れ、また交差する。

 剣を繰り出すトーヤの表情は普段の柔和な表情とは異なり、至って真剣そのものだ。

 恐ろしいほどの眼力で相手を睨む戦闘時の彼はどこか獣じみていて、小さな体格にも関わらず見ている者を怯ませる迫力がある。


「ふッ!!」


 トーヤが剣をルーカスの左脇腹を狙って突き出す。


「ぬおッ……!」


 ルーカスは右に払おうとした剣を手の中で器用に反転させ、逆手に持った刃の側面でトーヤの一撃を弾き返した。

 単純な力ではルーカスの方が遥かに優っている。衝撃と共に押し返されたトーヤは両脚に力を込めて踏ん張り、再び相手へと立ち向かっていく。


「うああああッッ!!」


 怒る獣のごとく猛進するトーヤ。

 アリスは、どんなに大きく強い相手にも怯まず立ち向かう彼の姿に見惚れていた。

 自分を守り、共に戦ってくれたあの剣。彼が剣を振ってくれたから、今自分はこうして彼の隣にいようと思える。

 その勇姿はアリスの兄ヒューゴと重なった。一族を守るため洞窟から出でるモンスターと戦ったあの人と、トーヤは本質的な部分では同じなのだ。


「トーヤ殿、頑張って……!!」


 アリスは椅子から身を乗り出し、彼に声援を送った。

 トーヤは一瞬だけ彼女の方を見、そして次には剣の刺突の連撃を放つ。

 その攻撃は一、二、三回……いや、もっと続いている。放たれる度に防ぐルーカスは、その連続技を受けて(いささ)か危なさそうだ。

 

「くッ……!」


 高鳴る刃の音の合間にルーカスの漏らす声が微かに聞こえた。

 苦しそうなルーカスを他所に、トーヤは剣を突く勢いを緩めることはない。

 トーヤの上下左右、あらゆる方向からやって来る刺突攻撃。ルーカスは蛇のようにうねる剣筋でそれを受け、弾き返すが、トーヤは押し戻されることなく攻撃を続行する。

 二人のその動きは力強く舞を踊っているように見えた。アリスは美しいその動作を目にし、思わず吐息を漏らす。


「はぁ……すごいです。この世のものではないみたい……」


 ルーカスは汗を飛ばし、荒く息を吐きながら苦笑いした。


「俺も信じられないな。トーヤくん、君の成長速度は化け物じみているぞ」


 果たして、トーヤにルーカスのその言葉が聞こえているのか疑問だった。

 彼は何も言わず、ただ剣を突き出すことだけを考えているように見える。

 彼の集中力が極限まで高まっていく中、連続攻撃を全て防いでいるルーカスの動きにわずかな鈍りが生じた。


「……ッ!」


 刺突の一撃がルーカスの肩をかする。

 ルーカスが顔を歪め、トーヤは相手の集中力のほつれを見逃さなかった。

 すかさず攻撃の手口を変え、対応能力の鈍ったルーカスに揺さぶりをかける。


「あ……」


 アリスは気づくとベンチの上に立ち上がっていた。

 手汗でじとっと濡れた拳を握り締め、目は二人の剣に釘付けとなっている。


 トーヤの剣が横殴りにルーカスを襲う。

 ブン、と風を切って刃が彼へと向かい、腹を真っ二つに切断しようとしたところで――。


「くあっ!」


 喉の奥から絞り出された声。

 ルーカスは咄嗟に膝を曲げ、体ごと後ろから地面に倒れ込むようにして攻撃を回避した。

 ヒュン、とトーヤの剣が空を切る。


「ルーカス殿!」


 アリスが叫び、地面に倒れたルーカスに駆け寄っていった。

 トーヤはそこで剣を振る腕を止め、視線を下へ向ける。


「はぁ、はぁ……っ。トーヤくん、君――本気出しすぎだ」


 肩で息をするルーカスの表情は苦しそうな笑みであった。

 そんな彼に、トーヤは心から反省しているように頭を下げる。


「ハァ、ハァ、すみません……。僕、夢中になっちゃって、前が見えなくなって……」


 トーヤもルーカスと同様に、激しく呼吸音を立てながら言った。

 ルーカスは軽く手を上げ、脱力したような笑みを作って応じる。


「ははっ……。そうか、君もそんな奴だったか……」


 君も、というルーカスの言葉がトーヤは気になった。

 訊ねると、ルーカスは素っ気ない言い方だが答えてくれる。


「姉さんだよ。姉さん……アマンダも、戦いになるとそうだ」




「あらあら、あなただってそうじゃないとは言い切れないでしょ?」


 と、突然ソプラノの美しい声が中庭に響いてきた。

 白い絹のような長髪を夕陽のオレンジに染め、微笑を浮かべて歩み寄ってくる美麗な女性。

 ルーカスと全く同じ赤い瞳を細めるアマンダは、弟の元まで辿り着くと彼に手を差し延べた。


「ほら、そんな所にだらしなく倒れてないで立ちなさいよ」


「はっ……厳しいな。この試合を見ていながらよくそんなこと言いやがる」


 ルーカスはぶつくさ漏らしつつも、姉の手を取ると上体を起こし、よろよろと立ち上がった。剣を鞘に収め、トーヤに向けて彼の剣をこちらに寄こすよう手を出す。

 トーヤとルーカス、二人を見つめるアマンダは顎に手を当てて感心したように言った。


「トーヤくん、あなた本当に強くなったのね……。剣技にかけては馬鹿みたいに強いルーカスを圧倒できるようになったなんて、とても喜ぶべきことだわ」


 アマンダに頭を撫でられ、トーヤは少し照れたように顔を赤くしながら頷く。


「はい……。ルーカスさんを越えられるように頑張ってきたつもりなので、彼とここまで渡り合えるようになれて、自分でも嬉しいです」


「そうね。その喜びをバネに、この先もどんどん成長していってね。期待しているわよ」


「はい! これからも頑張ります!」


 勢いよく答えるトーヤに、アマンダは柔らかい微笑みを向けた。愛でるように彼の髪を撫で続け、彼女はトーヤを困惑させてしまう。


「あの、アマンダさん……?」


 おずおずと訊ねるトーヤの声にアマンダははっと我に帰った。


「あ……ごめんなさい! なんか、トーヤくんがかわいい弟のように見えて……つい」


 彼女は頬をかりかりと指先で掻いて言う。

 その言葉にアリスはひっそりと安堵に胸をなで下ろした。アマンダまでもがトーヤに恋愛感情を抱いていたらどうしようかと焦っていたのだ。


「トーヤ殿、あなたの戦う姿……かっこよかったです。見惚れてしまいましたよ」


 アリスは自分よりずっと背の高いトーヤを見上げて、言った。

 言いながら、自分はこの人のことが本当に好きなのだなと再確認する。脳裏にはまだはっきりと剣を繰るトーヤの勇猛な姿が映し出されており、それを忘れることはこの先何があってもないだろう。


 自分はこの人を支え、共に戦っていきたい。共に歩んでいきたい。彼がどんな道を選んでも、彼について行って尽くしたい。

 ときおり遠い目をして夕景を眺めている彼のそばに立ち、満たしてあげたい。

 それがアリスの願いだった。


「ありがとう、アリス。これから先も、僕のことを見ていてくれ……」


 偶然かは定かではないが、トーヤはその時のアリスの願いと似たような意味のことを口にした。

 彼が差し出した手を、アリスは小さな手で包み込むように握る。


「はい。……トーヤ殿」


 ゆったりとした時間が過ぎてゆく。

 二人が手を握り合っていた時間はどのくらいだっただろうか。

 互いに伝わる肌の感触を確かめ、ふと見上げると空は群青色の夜天に変わりつつあった。


「じゃあ、戻るか」


 ルーカスの呟きを耳にした二人は、繋いでいた手をそっと離した。

 改めてルーカスやアマンダに見られていることに気が付くと、恥ずかしさに仄かに頬を染めてしまう。


「そうね。戻りましょうか」


「はい、そうしましょう」


 アマンダが言い、二人も頷いた。早く戻っておかないと侍女長に叱られてしまうだろうし、アマンダやルーカスにだってやることは残されているはず。

 まず足早にこの場を離れていったのはルーカスだった。彼の後から、トーヤ、アリス、アマンダと続く。

 肩に触れられた感触がしてトーヤとアリスが振り向くと、アマンダがにこりと笑って囁いた。


「ねぇ、二人とも。明日、特別に一日だけ二人にお休みをあげようと思うのだけど、どうかしら?」


「それは、僕は大歓迎ですけど……何か理由でもあるんですか?」


 トーヤが眉を寄せて訊き、アリスも首を捻る。

 明日は別に何か行事がある訳でもない。いつも通りに仕事を行う予定になっていたはずだったが……。


「うふふっ……。私はあなた達を応援しているのよ? 明日一日、二人きりのデートでも楽しみなさいな」


 ポンと二人の肩を叩き、悪戯をする子供のような顔になって、アマンダは先を歩くルーカスの元へと急いでいった。

 アリスとトーヤは互いに固まったまま、顔を見合わせてなんとも言えない表情になる。


「デ、デート……?」


 トーヤが顎に手を当て、何か考え込むように空を見上げる。

 アリスは平静を装っていたが内心では鼓動が高鳴り、ガッツポーズでもして飛び上がりたい気分だった。


「ト、トーヤ殿とデート……」


 掠れ声で呟く。

 腕を組んで『デートか……』と瞑目するトーヤの隣でアリスは興奮を抑えようとしたのだが……。

 それは無理な話だった。思わず声が高く弾んでしまい、ぐっと握った拳を小さく掲げる。


「やった……! で、ではトーヤ殿、明日……明日、(やしき)の門の前で待ち合わせしましょう!」


 喜びのあまり震える声のアリスに、トーヤは組んでいた腕を解いて応える。

 彼は片目を瞑り、口元を緩ませた。


「うん。じゃあ、そうしようか?」


「はい! 明日の朝早い時間にしましょう……そうだ、朝の八時なんてどうですか? トーヤ殿が良ければ、ですが……」


 胸の前で指を組み合わせ、希望が通るか少し不安に思いながらアリスはトーヤを見上げた。

 その視線を受けたトーヤははにかむように笑い、首を縦に振ってみせる。


「僕はそれで構わないよ。……明日はよろしくね、アリス」


 心臓の鼓動が一層高鳴った。

 アリスはブンと勢いよく頷き、満開に咲かせた笑顔になる。


「明日、絶対来てくださいね! ――絶対、ですからね!」


 溢れ出す感情を発散させるようにアリスは駆け出していた。

 が、十メートルほど進んだ所で急ブレーキをかけ、トーヤを振り仰ぐ。


「……分かったよ、絶対行くから!」


 トーヤは本当に明るい表情の彼女に叫びで返した。手を振る彼も楽しそうに目を細めている。

 その返事を聞くと、アリスは心から楽しみだという様子でうきうきと走り去っていった。


* * *


「私、明日トーヤ殿とデートすることになったんですよー」


 部屋のドアを閉めながら、さりげなく言ってみる。

 アリスは女子寮の同室である、友人であり恋のライバルでもあるエルとシアンに聞こえるように独り言を呟いた。

 二段ベッドの上段に横になるシアンと、部屋の中央に置かれた揺り椅子に体をもたれさせるエルは、その呟きを耳にしても特に何も反応することはなかった。

 アリスはそれが気に入らない。もう一度大きな声で言ってやろうかと考えていると、呆れた調子でエルが半眼でアリスを見る。


「何言ってるんだい、トーヤくんだって暇じゃないんだよ。そんな事を考えてる時間があれば、もっと別の生産的な事を考えるべきさ」

 

 自分のベッドに体を投げ出してごろんと寝る姿勢になったアリスは、聞こえよがしに溜め息を吐いてみせた。


「はぁ……エル殿も、随分とお仕事に染まってしまっているようですね。私達はまだ若いんですよ? 恋する乙女って言える年頃でいられるのは、今だけなんです」


「突然なんだい? 私は別に、実年齢が若い訳じゃないから……。それに、仕事に染まった訳じゃない! ただトーヤくんのためにやっているだけだよ」


 エルは今夜も大変疲れた様子で、酒瓶をぐいっとあおる。

 足を組み直し、長い溜め息を吐いた彼女はゆったりとした寝巻きの胸元をパタパタと扇いだ。

 胸の谷間にはらりとかかった緑髪を払うと、エルは静かに問いかける。


「……もしかして、トーヤくんの方から?」


 アリスが来る少し前から酒を飲んでいたのだろう、エルの顔にはほんのりと赤みが差していた。

 低いトーンで訊く彼女に、アリスはその問いかけに否定の答えを返す。


「いえ、アマンダさんが明日は休みにしてあげるからと言って、勧めてきて……」


 簡潔に事情を伝えると、エルはぐったりと揺り椅子の肘掛けに頭をもたれさせた。

 そのまま、目を閉じて眠りに落ちようとする。


「え、エル殿!? まだ話は……」


「そっか……じゃあ頑張ってね、アリス。――トーヤくんをがっかりさせるようなことはするなよ」


 エルはトーヤが楽しい様子でいてくれればそれで良いという考えなのだろう。

 あくまでも、トーヤを楽しませてこいとアリスに言葉を贈る。

 アリスはこくりと頷き、布団を顎の辺りまで引き寄せた。


「アリス。……頑張ってくださいね」


 上からシアンの囁き声が微かに聞こえてくる。彼女も競争相手であるものの、アリスに悪感情は抱いていない。応援しようという気持ちはあるのだろう。


「はい。頑張ります」


 アリスは穏やかな声音で答えた。

 布団に入ると急に(まぶた)が重くなってくる。アリスは襲ってきた眠気に耐えられず、翌日のことを考えながら眠りについた。


* * *


 翌日の朝。

 アリスは昨日寝る前に大急ぎで用意した私服を着用し、リューズ邸の門の前でトーヤが来るのを待っていた。

 髪型や服は鏡の前で何度も確認したはずなのに、彼とこうして会うとなると緊張して余計に気になってしまう。

 この日のアリスはいつもはポニーテールにしている髪を解き、肩から背中へと自然と流す形にしていた。いつも縛られていた髪が解き放たれ、ふわりと広がって顔の周りに纏わりつく。

 服装は白のワンピースに白い帽子を被り、傍らにはこれも純白のバッグを携えている。白一色で統一した服装は清楚な雰囲気で、見る者に確実に好印象を与えることだろう。


「トーヤ殿も、私のこの格好を気に入ってくれると良いのですが……」


 不安げにアリスは一人呟いた。

 髪をしきりに触り、ワンピースの裾を引き伸ばしてよく確かめる。大丈夫だとわかっていても、緊張と不安は途切れることはない。

 父に貰った懐中時計を見ると、七時五十分だった。約束の時間まであと十分もある。


「あーっ、髪型やっぱり別のものにした方が良かったでしょうか……。いや、普段とは大きく異なる姿の方が、彼の記憶にはっきりと印象づけることが出来るはず……で、でも……」


 アリスはその場でぐるぐると回りながら苦悶する。


「うーん、トーヤ殿は女性のこの髪型が好み、なはず……」


 エルのあの長い髪が風に揺れた時、トーヤの視線がその流れる髪に移ることをアリスは知っている。ならば、エルと同じ髪型にすれば彼女もトーヤの心をより掴めるかもしれない。

 アリスは脳内で恋の算段を懸命に働かせた。

 そうしている内に、約束の時間はあっという間に迫ってきてしまう。




「お待たせ、アリス」




 心臓がひっくり返るような胸の高鳴り。

 アリスは少年の低く穏やかな声を耳にして、その声の方向を振り向いた。

 邸の方からやって来たトーヤは、門前に佇んでいるアリスを見つけると微笑んで声をかける。


「おはよう。アリス、髪型変えたんだね。よく似合ってるよ」


 アリスはトーヤの言葉に顔を赤くし、髪を何度も撫で付けた。

 全く、どうしてこの人はここまで私の心を揺さぶってくるのですか……! アリスは心の中で叫ぶ。

 アリスが内心で羞恥に悶えていることなど関係なしに、トーヤは彼女の服装をじっと眺めていた。

 アリスにとってはとっておきの勝負服である。彼がどんな風に評価してくれるのか、どきどきしながらその答えを待つ。

 

「ど、どうでしょうか……?」


「うーむ……」


 トーヤが口元に手をやり、しばし考え込んだ。

 上から下まで目を動かして見ていたトーヤだが、ある一点でぴたりとその視線が留まる。


「どう、なさりました……?」


「いや、ね……」


 彼の頬が仄かに紅潮しているのに気づいて、アリスははっとした。

 トーヤの視線の先は、彼女の開かれた胸元だったからである。

 

「す、すみません! 目のやり場に困っちゃいますよね。よく考えればトーヤ殿も年頃の男の子でしたものね……。そんなことも気遣えなくて、本当にごめんなさい!」


 彼なんかよりも言っているアリスが一番恥ずかしくなって顔を真っ赤にしていると、トーヤは目を逸らして声を絞り出した。


「に、似合ってるんだけど、その服じゃ寒いでしょ? 上着貸してあげるから、着ていいよ」


 と、言ってトーヤがアリスに自分の上着を脱いで押し付ける。

 アリスも寒さを痩せ我慢している節があったし、このまま胸元を見せた状態でいるのも、よく考えてみればかなり恥ずかしい。これではジェードに『エロ小人』呼ばわりされてしまうのも当たり前だ。

 お色気はアマンダなどの領分で、私が挑戦するべきものではない――。アリスは自分にそう言い聞かせ、トーヤの上着をさっと着用した。


「ありがとう、ございます」


「どういたしまして。僕は上着一枚なくても平気だから、心配しなくていいよ」


 心配の言葉をかけようと思ったら、先にその言葉を制されてしまう。

 トーヤの黒いコートの下はこれも同じ色のセーターで、寒さ対策はばっちりのようだった。彼はアリスに手を差し延べ、「じゃあ、行こうか」と笑いかける。


「この上着……。すごくぶかぶかなんですけど、大丈夫ですかね……?」


「大丈夫、大丈夫! 暖かければいいんだよ」


 彼の楽天的な台詞に少し首をかしげるも、深く考えるのを止めてアリスは彼について歩き出した。

 これから、いよいよトーヤとのデートが始まるのだ。アリスの気分も否応なしに高揚し、自然と表情も笑顔になる。

 

「そういえば、トーヤ殿はもう朝食をとりましたか?」


 アリスはだぶたぶのコートの裾を引きずりながら、前を歩くトーヤに問うた。

 ゆっくりとした歩調の彼は首を後ろへ回し、頭を掻いて苦笑する。


「あ、まだ、食べてないや……」


「そんなことだと思いましたよ。では、今日はまず最初に私イチオシの喫茶店へ向かいましょうか」


「お、いいね。アリスが案内してくれるのかい」


 よし、彼の反応は良い。アリスはこの調子でいこうと意気込み、一旦早足になって彼の隣に追いつくと、明るく話しかけた。


「初めてこのストルムに来た日にトーヤ殿と一緒に街を歩いて回ったでしょう? その時、私良さそうな店を見つけてたんですよ」


「そこってどんな店なの? ……僕の知ってる店だったりして」


「それは、わかりませんねぇ……。でも、本当に良さそうな店だったんですよ!」


 この町のことにかけては当然トーヤの方が詳しい。今さら大丈夫だろうかと不安になるアリスは、トーヤの前をテトテトと歩いてその店までの道を辿る。

 リューズ邸を出て東の大通りへ。

 聖堂や学院のある東地区にあるその通りは、立ち並ぶ店の数々の雰囲気が落ち着いていて気品がある。

 異邦人でありながらそこを歩く姿が妙に様になっているトーヤを横目に、アリスは目的の場所へとせかせか進んだ。

 

「そろそろですよ」


 朝早い時間のせいか、まだ通りには人がまばらだ。

 北地区の市場などは時間に関わらず盛況しているのだがそれは例外といってよく、このストルムに住む者達は朝はゆったりとした時間を過ごす。

 だからこの時間帯は、種族や人種の問題からあまり人前に出たがらないリューズ邸の使用人達が気晴らしに出かけるには丁度良かった。


「アリスは、もう街の暮らしには慣れた?」


 それまで黙ってアリスの案内に従ってきたトーヤが、ふと訊いてくる。

 二人きりという状況のせいで普段より遥かに話すハードルが上がってしまっている中、彼の方から話題を提供してくれたことにアリスは心から安心した。

 呼吸を整えながら首を横に振り、落ち着いた声音で応える。


「いえ……流石にそんなに早く慣れてしまうような人はいないのではないですか? たった三日間で街の暮らしに順応出来るのなら、誰だって苦労しませんよ」

 

「そうかなぁ……アリスは割りと慣れるの早いなーって思いながら見てたよ」


「そ、それはシアン殿達と比べて、ということですか?」


「まあ、そうなんだけど……」


 トーヤは頭に手をやり、ぼりぼりと掻きながら笑った。

 アリスはなんとなく恥ずかしくなってきて頬を赤く燃やす。


「それは、褒めてるんですか?」


「うん。適応力があるのはいいことだ」


 トーヤがアリスの髪をそっと撫でてきた。その優しく温かい感触に、アリスは心の底から安らぎを覚える。

 この瞬間がもっと続けばいいのに――そう思ったが、トーヤはすぐに手を離してしまい別の所に注意を向けていた。


「と、トーヤ殿?」


「……あ、分かっちゃったぞ。あの店でしょ」


 彼が指差していたのはアーチ型の看板が特徴的な一軒だった。

 アリスは苦笑し、頷いてみせる。


「やっぱり、知っている店でしたか?」


「見覚えはあるんだけど、入ったことはないかな。だからアリスがこの店を選んでくれてよかったよ。一人じゃ入りにくかっんだよね……」

 

 それに使用人の身分でこんなお洒落な喫茶店入りづらいし、とトーヤは付け加えた。

 アリスは小人族の娘で人間とは見た目が少し異なるが、トーヤもこの国に住む人間達と別の人種である。こうした店を利用しづらい理由はここにもあるのだろう。

 アリスは大幅に余っている袖からちょこんと指を出し、トーヤの腕を引く。

 彼を見上げて笑みを作り、彼女は言った。


「大丈夫ですよ、トーヤ殿。他の人がどう思おうが私達は気にしなくていいんです。堂々としてましょう」


 まだドアの前でどこか躊躇しているように見えるトーヤを、アリスは半ば強引に店内に連れ込む。

 店内は人が少なかった。が、テーブル席に座る数人がアリス達を見ると不快そうに顔をしかめる。

 

「そうだよね、気にしない、気にしない……」


 呪文を唱えるようにトーヤが呟き、うつ向きがちに一番奥のテーブル席へ向かった。

 アリスは彼の前の席に座り、置いてあるメニュー表を取って見る。


「へえ、安いですねぇ……」


 リューズ邸で取り寄せている食材の数々はどれも費用の多くかかったもので、料理も豪勢なものを作っている。この店のメニューを見ると邸で見たような料理名が並んでいるものの、価格は大分安く抑えられているようだ。


「邸と比べちゃ、どこの料理も安く見えてしまうよ……あそこの料理の質は最高だからね。でも、ここの料理も美味しそうだ」


 周りの客が食べているパンケーキやスクランブルエッグの良い匂いを鼻に感じ、トーヤはじゅるりとよだれを垂らす。

 

「あれを頼みましょうか? それと、コーヒーを」


「そうだね。お願いしようかな」


 アリスは近くの席に出されている料理を差した。トーヤは頷き、他に良さそうな料理がないかメニュー表を眺め始める。


「すみません、店員さん。これと、あとコーヒーを二人分お願いできますか?」


 アリスが店員に伝えると、若い男の店員は淡々とそれに応対した。

 トーヤは店員がちゃんと頼みを聞いてくれたことにほっとしていたのだが、アリスは彼とは全く異なることを考えていた。


 ――もしかしたら私とトーヤ殿、見る人から見れば兄妹にも見えているのかも。

 ということは、デート中の男女には見られていないんだろうな……。


 先程自分で他人の目を気にするなと言ったばかりなのだが、どうにも気になってしまう。

 一人で頭を抱えるアリスにトーヤは訊ねた。


「どうした? 具合悪いの……?」


「いえ、違うんです。心配いりませんよ」


 アリスは顔にかかった髪を払いながら笑顔で答える。

 ――いけない、トーヤ殿に余計な心配をさせてしまった。

 内心で反省し、これから今日一日どうするか彼に訊く。


「そうだなあ……僕は新しい武具を見たいかな。前から使ってた弓が、最近の戦いで傷んできていたし。それに前から欲しかった格好いい鎧があって……」

 

 武器や防具の話を展開し始めた彼の表情はとても楽しそうで、アリスはその表情を見ているだけで幸せな気分になれた。

 兄の後ろ姿をずっと追い続けていた彼女には武具の知識がそこそこある。途中で出された料理を口にしながらアリスは彼の話に相槌を打っていた。


「重めの鎧は防御力が高いんだけど、その分戦闘での動きが遅くなっちゃうんだよね。僕は速さを重視する戦闘スタイルだから、そういったタイプの防具は好みじゃないな~」


「確かに、トーヤ殿には重厚感のある鎧は似合わない気がしますね。なんと言うか、もう少しシュッとした感じといいますか」


「シュッとしたってどんな感じだい? ……シュッ?」


「えーとですね、あの……細くて軽い感じ、ですかね? というか、そこ突っ込みますか」


 トーヤの切り返しづらい発言に苦労しながらも、アリスは言葉を精一杯選んで返した。

 彼女と話すトーヤの表情からは笑みが絶えない。自分の好きな話題だということもあるだろうが、彼がとても楽しそうな様子であることに、アリスは喜びと安心を感じた。


「じゃあ食べ終わったことだし、次行くか」


 食事代を支払い、トーヤはアリスの手を引いて店を出る。

 次に足を運ぶ店がもう決まっているのか、彼の足取りに迷いはなかった。熟知した道程を辿りながら、アリスのために早足になりすぎないよう注意して彼は進んでいく。


「あの、トーヤ殿。その武具店とはどんな店なのですか?」


「おそらくこの街で最も腕の良い鍛冶職人さん達がいる店だよ。結構人気で、王宮の兵士やここに流れてくる傭兵にもよく利用されているらしいんだ」


 訊くと、トーヤが弾んだ声で教えてくれた。

 アリスはその店に着くのが一層楽しみになり、なるべく歩を急ぐようにする。早く、その店を見てみたいのだ。


「……無理して急がなくてもいいんだよ?」


 本気で心配するトーヤ。

 正直に言うとアリス自身トーヤの歩きに付いていくのが限界で、早歩きなどもってのほかだった。

 一旦路上で足を止めるトーヤは、どうしようかと考え込む。


「た、たぶん休憩を挟みながら行けば大丈夫です」


「いや、それでも心配だよ。よく考えてみれば、僕と君で歩幅が全然違うんだから、同じ距離を歩くにも君の方がずっと疲れるんだよね……。こんな簡単なことにすぐに気づけなくてごめんね、アリス」


 本当に大真面目にトーヤは言った。

 自分は割と真面目な方だと思っているアリスだったが、トーヤのこうした純粋さには感心させられてしまう。

 と、同時に少し振り回されることもある。

 何を言っても心配だと言って聞かないトーヤに悶々とするアリスに、彼は更に追い打ちをかけてきた。


「そうだ、なら僕がアリスをおぶって歩こうか?」


「は……?」


 アリスは顔を真っ赤に染め、小さく口を開く。

 そんなこと、恥ずかしすぎますよ――と彼女は喉の奥で呻き声を上げた。だがその台詞は意味のない音として彼女の口から出ただけで、トーヤが言葉の意味を理解することは出来なかった。


「ほら、アリス。乗っていいよ」


 トーヤが奇妙な挙動の彼女の前にしゃがみ込み、背中に乗るよう促してくる。

 しょうがない。この分じゃ彼はここから動いてくれそうにないし、それにせっかくのチャンスだ。彼が私だけのためにこんなことをしてくれるなんて、滅多にあることではないじゃないか。

 アリスは自分で結論を出すと、どうせならとトーヤに提案する。


「あの……。肩車、してもらいたいんですが、よろしいですか?」


 トーヤの肩の高さから景色を見てみたい。そうアリスは彼に説明した。

 ――本当はエルやシアンが彼にされた事のないことなら何でも良かったんだが、それは黙っておいた――。

 トーヤは快く受け入れ、アリスを自らの肩に乗せてやる。


「よいしょ……これでどうかな」


「おお~っ! 高いですね!」


 人間の幼児ほどしかない身長のアリスにとって、肩車されて見えた景色はまるで別世界だった。

 いつもより世界が広く見渡せる気がする。アリスはトーヤの頭の少し上から、ルーカスなどは常にこの視点から世界を見ているのかと思い感嘆した。

 

「すごいです、トーヤ殿! 私、今感動してます!」


 生まれて初めて体感する、まさしく夢のような光景。誇張なしにアリスは大粒の雫を眼に溜め、涙声で言った。

 

「はは、そっか。アリスが喜んでくれて良かった」


 トーヤが嬉しそうに笑い、ゆっくりと歩き出していく。

 これまでとは異なる視点から通りを見回しながら、アリスは朝の閑散とした通りを楽しんでいた。

 やがて辺りに人が増え始めた頃、二人は目的の武具店に到着する。




「改めて見ても大きな店ですね……。まさかこの店が武具店だったとは……」


 トーヤに肩車されたまま、アリスはその店を見上げてため息を吐いた。

 白い大理石で作られた一見神殿のように見えるその建物をアリスは街にある聖堂の一つと思っていたのだが、どうやらその考えは間違っていたようだ。

 店には今、どこかからやって来たのだろう旅の傭兵達が出入りしている。血気盛んな若い男の五人組だ。


「じゃあ、入ろうか?」


 トーヤが言い、肩からアリスが下りやすいように体勢を低くする。

 アリスはかなり名残惜しかったが、早く店を見たいという好奇心には勝てなかった。さっと彼の肩から下り、開け放された重厚な扉へと駆け出す。


「うわぁ~っ! 本当にすごいですね……!」


 一歩店の中に踏み込み、思わず歓声を上げる。

 店内の陳列棚にはぎっしりと剣や槍、盾などの武具が置かれていた。その棚が視界の上下左右、壁まで余すことなく配置されていて、まるで武具の国に足を踏み入れてしまったような錯覚をアリスに覚えさせる。


「トーヤ殿も早く来てください! ここ、武具なら何でもありそうですよ!」


 アリスはそう大声で呼びながら、小人族の自分にも使えそうなものがないか目で探した。

 外観からわかる通りこの店は内部もかなり広く、もしかしたら全て見るには一日以上必要になるかもしれない。欲しいものを手早く見つける手際の良さが大事になるだろう。

 棚の海の中をすいすいと進み、アリスは遅れてくるトーヤに手招きする。

 

「トーヤ殿、早く早く!」


「そう急かさないで、アリス。時間はまだたっぷりあるさ」


 トーヤは頻りに棚に目を走らせ、口調は穏やかに言った。

 剣、槍、鎚、斧……様々な武具にさっと目を通し、自分が使いたいものをその中から選別していく。


「弓矢のコーナーが奥にあるから、先にそっちに向かっててよ」


『神器グングニル』とほぼ同じ長さの長槍を手に取り、トーヤはそれを凝視しながら呟いた。


「……これなら練習に使えそうかな」


「槍を……グングニルを使う練習ですか?」


 いかにも高級そうな装飾過多の槍を見てアリスは訊ねる。

神化(しんか)』の使用時、トーヤの『魔剣グラム』は神の槍『グングニル』へと姿を変える。平常時には槍は長剣の形をとってしまっているため、これまで実物を使っての練習をすることは出来なかった。

 だが、この槍があればグングニルを扱う時とあまり変わらない条件で練習を行えるという訳だ。必要性としてはかなり高いと言えるだろう。


「どうですか、この槍は」


 アリスには到底持ち上げることさえ叶わなさそうな長大な槍。それを軽々と掴んで持ってみせているトーヤは、満足そうな表情で頷く。


「少し軽いし見た目は好きじゃないけど、長さは丁度いい感じだね」

 

 言うと、彼は床にその槍を思いきり叩き付けた。

 アリスは目を見開いてトーヤを見る。


「な、何を!?」


「よし、丈夫さも良さそうだな。とりあえずこれは購入決定ってことで……えっ!?」


 突然トーヤが驚きの声を上げたので、何事かとアリスは彼の表情を窺った。愕然とした様子の彼は、槍ではなくそれが置いてあった棚の辺りを見て硬直している。

 見ると、そこにはこの槍の値段が書かれた札が張られていた。


「う、嘘でしょ……? この質の槍が200銀貨(アルス)だなんて、ぼったくりもいいところだよ……」


「に、200銀貨(アルス)……!?」


 アリスも愕然とする。普通の槍にしては妙すぎるくらいに高い。

 まさか、値段がここまで跳ね上がっているのはこの装飾のせいなのか。トーヤはそう考え、うーんと唸ってしまう。


「王宮の兵士さんでもこんな値段のものは軽々しく買えないよ……。これは諦めるしかなさそうだ」


 トーヤはそう決めると、さっさと槍を棚に戻した。

 中腰になってアリスと向き直ると、彼は苦笑混じりの笑みを浮かべる。


「じゃあ、弓矢を見に行こうか。アリスに合う弓もきっとあるから……」


「は、はい!」


 彼に正面から笑顔を向けられ、アリスは赤面せずにいられなかった。

 どきん、と鼓動が高まっている。

 彼はこれを自然にやっているのか、それとも意識してやっているのか。その境界線が曖昧で、それがアリスをさらに誘っているようで……。


「ん……アリス?」


 きょとんとした顔になるトーヤ。

 アリスは先の考えを一部撤回した。

 間違いない。この人は、本当に自然にこういう言動をしているのだ。

 その笑顔が、幾人の女性を惑わしていることも知らずに。


「え、あっ……い、行きましょうか」


 思わずうつ向きがちになり、アリスは早足で彼の前を急いでいく。

 また、こんな姿を晒してしまった……内心で激しく羞恥に悶える彼女に、トーヤが声を投じた。


「おーい、そっちは別の売り場だよー」


 だが遠慮がちに発せられたその声はアリスには届かず、彼女はどんどん離れていってしまう。


「あ、アリス! 待ってよ!」


 トーヤは大いに困惑しながら、アリスの小さな背中を追って駆け出すのだった。


* * *


 その後、二人は店内を駆け巡った末に弓矢売り場に来ていた。

 デートの場で大失敗を犯してしまったアリスは、意気消沈してどんよりと暗いオーラをかもし出している。

 トーヤはそんなアリスを励ますように笑って彼女の頭を撫でた。


「大丈夫だって、そんなに落ち込まなくても。こんな失敗誰にだってある。気にしなくていいんだよ」


 アリスはその言葉に、首を横に振ることしか出来なかった。

 ――どうして、私はこの人にこんな言葉をかけられているのでしょうか……。

 彼の優しい言葉はありがたいけれど、好きな男の子にこんな慰められ方されたくなかった――。

 

「気にしない、気にしない。ほら、顔を上げて」


「ううっ……」


 彼の低い穏やかな声に、アリスは目に少し溜まった雫を拭いながら顔を上げた。

 床に立て膝をついて目線を彼女に合わせるトーヤは微笑み、背中からあるものを取り出す。


「実は、前にここに来た時にアリスが好きそうなものを見つけてたんだ。これ、どうかな?」


 彼女の前に差し出されたのは、彼の手には小さすぎるサイズの弓矢だった。

 この店でもほんの僅かしか売っていない、小人族用の弓矢だ。

 森の樹から作られたしなやかな弓を手に取り、アリスはそれをぼうっと見つめる。


「これ……トーヤ殿が、私のために……?」


 特に何の特徴もない普通の弓。だが渡されたそれには、作った職人の魂と、それを選んでくれたトーヤの心がこもっているような気がした。

 アリスの顔からは一切の陰鬱な色が消え、代わりに明るい笑顔が戻ってくる。


「あ、ありがとうございます!」


「どういたしまして。アリスが笑ってくれて、良かった……」


 トーヤはアリスの体を両腕で抱き、彼女の背中を優しく叩いた。

 アリスはそれが嬉しくて、また涙を流しそうになってしまう。けれどそこはぐっと堪えて、彼に礼を言う。


「本当に、ありがとうございます……。私なんかのために、ここまでしてくださって……」


「私なんか、なんて言わないで。アリスは僕にとって大切な人だから……アリスも自分を大切にして。アリスは僕達が誇れる、とっても素晴らしい人なんだから」


 これには流石に堪えきれなかった。

 アリスは泣いた。誰が見ているとも知れない店の中だと分かっていても、涙を止めることは出来なかった。

 とめどない涙を流し続ける彼女の背中を、トーヤは何も言わずずっとさすっていてくれていた。


* * *


 トーヤから贈られた弓矢を大事そうに腕に抱えながら、アリスは彼の隣をゆっくり歩いていた。

 時刻は昼過ぎ。コートを脱ぎたくなるくらい暖かな日差しが照りつけ、人々が最も活気づいている時間帯だ。

 あの後、二人は武具店で他の戦闘用具を数点購入し、店をあとにした。

 アリスの足取りは軽く、表情は太陽のように明るい。

 自分よりずっと大きな彼を見上げ、弾んだ声音で語りかける。


「トーヤ殿、さっきはああ言ってもらえて心の底から感謝しています。私は今まで、どこか自分を卑屈に見ているところがありました。でも、それは違っていたんですね……自分を大切に思っていてくれる人がいることが本当に幸せなことなんだと、ようやく気づけました」


 トーヤはにこりと笑い、右手をアリスに差し出してきた。

 アリスはその手を取り、ぎゅっと握る。

 その優しい肌の温もりに、アリスは微笑みを浮かべた。


「……そうだ。アリス、お昼はどうしたい?」


 ふと、トーヤが思い出したように訊く。

 訊くと同時に彼の腹がぐーっと鳴り、二人して声を上げて笑ってしまった。


「あははっ」


「ふふっ」


 アリスは笑いの余韻を楽しみながら少し考える。

 しばらく歩き、彼女は答えを出した。


「そうですね……リューズ邸で食べたいです」


「うそ、僕も同じこと考えてたよ」


 トーヤが目を丸くし、また笑みを漏らす。

 

「みんなの顔、見たくなっちゃったんでしょ? でも、わざわざ休みにしてくれたアマンダさんに少し申し訳ないね」


「はい、そうです。何故だか無性に皆さんの顔を見たくなってしまって。……確かに、アマンダさんにはせっかくのデートなのにって言われてしまいそうですね」

 

 二人して肩を揺らして笑う。

 風が吹き、アリスの黒い艶やかな髪と白いワンピースの裾をはためかせた。トーヤの視線がちょろっと動く。


「……アリス」


「どうしました? トーヤ殿」


 この髪型と服にしてきて良かったと内心で思いつつ、アリスはトーヤを見上げた。

 ぶらぶらと繋いだ手を揺らす彼は横目でアリスを見てくる。


「アリス……僕、今初めてアリスにドキッとしたかもしれない」


 アリスは照れ臭そうに言う彼に少し悪戯をしてしまいたくなった。

 ニヤリと笑い、彼に言ってやる。


「それは違うでしょう、トーヤ殿。私にはいつもドキドキさせられてるくせに」


 トーヤの体に自分の体を密着させ、自慢ではないが大きめの胸をぎゅっと押し付ける。

 彼の腰の辺りに抱きついてやると、トーヤは顔を真っ赤にして言った。


「そ、それは卑怯だよ! そんなことされて僕が何も感じないわけないじゃないか!」


「やだ、何を感じてるんですか、トーヤ殿?」


「そ、そういうことじゃない!」


「ふふっ、ごめんなさい。少し遊んでしまいました」


 ぺろっと舌を出してトーヤの体から離れ、げんなりとした様子の彼に手を合わせて謝る。

 それから真面目な顔になると、アリスは声を低くして言った。


「でも、私があなたを好きという気持ちは本物です。……どうか、これからも私を愛してくれませんか?」


 トーヤは立ち止まり、握った手をより強めた。

 まだ赤みの残る顔でアリスを見、彼は堂々と直球の言葉を返してくる。


「僕も君が心から大好きだ。愛してるよ、アリス。これからもよろしくね」


「――は、はい!」


 その時のトーヤの笑顔を、アリスは一生忘れない。おそらく、それはトーヤも同じだろう。




 愛し合う二人は固く手を繋いだまま、邸への帰路についた。

 昼食は何が出るか、帰ったらみんなどのような反応をするかなど、他愛もない話をしながらゆっくり穏やかに歩いていく。

 ふと空を見上げ、この関係がいつまでも続けばいい――アリスはそう願った。

 今度こそ、愛する人と離ればなれにならないように。

 彼と、ずっと一緒にいられますように。


 昼の日差しが柔らかく差す空の下。

 アリスは不意に駆け出したい衝動に襲われ、トーヤの手を引いて走り出す。

 突然のことに驚くも、彼は嫌そうな顔はしなかった。

 みんなの待つリューズ邸へ、二人は太陽のような笑顔で走っていくのだった。

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