博士と私の方程式
楠木博士は、世間一般で言う頭のいい人という感じではない。博士は、どっちかっていうとおっちょこちょいだし、目を離すとすぐにとんちんかんなことをする。コーヒーだってまともに自分で淹れることができない。そのくせ、「僕はやり方はわかるんだ、やり方はね。ただ、自分で淹れないのは君がいつも僕がコーヒーを淹れようとすると奪うからだよ。できないわけじゃない」なんて、言い訳がましく私を見る。ほんと、博士は博士らしくない人なのです。
僕から言わせたら、清水さんは学生らしくない。なんでも、きびきびやるし、僕の学会資料も彼女が全部作ってくれた。コンペティションでいい賞をもらった時の原稿も彼女が添削したものだし、まるでどっちがどっちの生徒かわかったもんじゃない。彼女は、なんでもできる。品行方正、容姿端麗、おまけに性格もいいと言われている。まったく、かわいくない生徒である。
博士はかわいい人です。ぼさぼさの髪の毛。ちょっと目じりが下がっているたれた目。ぞりぞりする無精ひげ。そして、くたくたに着古した白衣。博士の専門分野は、生物系でも化学系でもないけれど、「研究者たるもの白衣がユニフォームなんだよ」といって、年がら年中白衣をまとっています。博士の白衣には、コーヒーをこぼしたシミや、何故か焦げた跡、穴の開いたポケットなどメリーゴーランドのようなエンターテイメントが詰まっています。私が、「よかったら直しますよ?」といっても聞かないのだから強情というのも仕方がないのです。
強情というわけではない。私のようなおじさんが着古した白衣を、うら若き美少女に預けるというものも、なんだか気恥ずかしく、「う、うむ。また、実験の区切りがついたらな。」なんて、あいまいにお茶を濁してしまうのである。彼女は、ほかの女子生徒よろしく、大学生の花形たる遊び、合コンにでも行けばいいもの、なにが楽しいのか私にくっついてせっせせっせと研究を手伝ってくれている。もはや、資料の検索、参考文献の照会など私より彼女の方が早いくらいにまで成長してしまった。まったく、やれやれである。
やれやれとは私の方が言いたいのです。自分で言うのもなんですが、うら若き乙女たる女子大生の私がつきっきりで研究のお手伝いをしているのです。ディナーに誘うとか、家まで送るとか、お礼と称して旅行に連れて行くとかしてもいいと思うのです。博士は、根本的にダメな人ですがここまでダメな人とは思っていなかったのです。
僕にそんなことを求められても仕方がない。生涯を学問にささげると大学4年の就職活動失敗時に、一念発起しはや幾星霜。実際には、15年ほどだがその間女性とは、研究の延長線沿いでしかかかわってこなかった僕である。このような、かわいい生徒に積極的に迫られてもあたふたするのは自明の理であろう。
そういう風に言い訳するのは博士らしくてかわいですね。照れ隠しで、白衣のポケットの穴に指を入れたり出したりするのはだいぶ前に気が付いていましたが、あらためて見るとやっぱりかわいいです。
清水君、そういうのは気が付いた時点で言ってくれ。まったく、顔から火が出るようだ。
あら、博士。そういう割に、お顔は赤くないですよ?まったく、博士は嘘がお上手ですね。
いや、僕は嘘なんてつかないぞ。うん。僕ほど誠実で、真面目で、実直な男気ある男はいないはずだよ、うん。
これはこれはしつれいいたしました。誠実で、真面目で、実直な男気ある博士、それなら私の先日のお話のお返事を聞かせてはいただけませんか?
し、清水くん、その話は私には理解できかねる。私は、愛などという不確かで、確実性のない、曖昧模糊なものは信じないと決めているんだ。
博士、私の愛は不確かでも、確実性がないわけでも、曖昧模糊でもありませんよ。私、清水愛の「i」はかけ合わさることで実体を持ち、博士がいるこの次元にあらわれたのです。博士、私は、博士の事を愛している。そこに何の不確定さもありません。証明終了です。満面の笑顔と共に、私は博士に愛を告げる。
彼女の見とれるほどの笑顔に心を奪われていた。僕は、愛なんて不確かなものは信じていない。だが、ほんの少しだけ愛を理論立てて説明できるなら、信じてもいいかもしれない。そんな気持ちになっていた。
おわり