僕と悪魔の初めまして。
これは青い月の夜のはなし
狂い桜の花弁を黄色に変えるという、一風変わった仕事の帰りに立ち寄った、行き付けの純喫茶での出来事である。
疲れたときは美味しいコーヒーを飲んでくつろぎたいから、客入りの悪いこの店によく来るのだ。
いつも通りオリジナルブレンドを頼もうと思ったのだけれど、コーヒー豆が切れているらしい。
仕方がないから、たまにはお酒でもと紅いカクテルを頼む。
悪魔とか言う物騒な名前のカクテル。
ここだけの話だが、たぶん悪魔は想像よりも怖くない。そんな気分になれるのが、このカクテルの良い所だと思う。
二週間ぶりに外に出て仕事をして疲れたせいなのか、三杯目を飲み終わる頃には酔っぱらい。気分は悪魔殺しである。
先週末にはどこぞの悪魔を殺しただの。首筋の傷跡はその時にできた物だの。有りもしない傷跡をなぞりながらグラスを傾ける。
困り顔のマスターを横目に、有ること無いこと考えては呟いていたのだ。
おつまみのポテトに付いてきたオーロラソースを指につけてお皿に落書きまでして。
正真正銘、どこから見ても、由緒正しく、否定しようがないほどに、酔っぱらいである。
顔見知りじゃなかったら、出入り禁止になっていたかもしれない。一人で勝手に盛り上がっていたのだ。
もちろん悪魔は英雄が出てくるようなお伽噺にしか存在しないはずだし、その辺りに居たとしても流行りに疎い僕には知る由もない。
ひきこもりだし。
だからあれは、つい言ってしまっただけなのだ。
今思えば軽率だったと思う。もちろん後悔も反省もしている。なんなら神様にもう二度と言わないと誓っても良い。覚えてるかは分からないけれど、来世でも言わないって。
ただまぁ後の祭りとは良く言ったもので。今さら何をしても変わらないから、今世では言い続けるのだけれど。
死にたいなら殺してやる。
なんて裏路地の悪漢宜しく低俗な捨て台詞。
恥ずかしいけれど言い続ける他仕方がない。
何せこの台詞のせいで、僕はなりたくもない悪魔憑きになってしまったのだから。
-------暗転。
「……いたい」
さっきまで顔をつけていたはずのカウンターがなくなっている。座っていた椅子すらないのだから、顔から落ちても仕方がないと思うのは僕だけでは無い筈。
そんな言い訳じみた思考を頭の隅に追いやり、強打した鼻を押さえながら辺りを伺う。
「マスターは良いとしても、お店すらないよ。道も建物も……何もない?」
いつもなら聞こえるはずの野犬の鳴き声すら聞こえないのだから、さすがに酔いもさめたってものだ。
地平線の先まで何もない。真っ暗な空間に一人ぼっち。光がさしてるわけでも無いのに視界は良好。不思議である。
「……いったい何がどうしたっていうのさ」
深めのため息をひとつ吐く。誰かしら答えてくれても良いだろ。なんて思った矢先の事。後ろから硬質な足音が響く。
「私を殺してくれると言ったのは坊やで良いの?」
夏の夜空を病気にしたような藍色の肌には、廃れた教会の窓みたいにひび割れが。
煮詰めたワインのような真っ赤な瞳と蜘蛛足みたいな歪なまつ毛。
英雄譚のメデューサみたいに蠢く銀髪。
恐ろしいほど整った顔じゃなかったら、悲鳴をあげていた自信がある。
この紹介の仕方もどうかと思うけど事実だから仕方がない。
傾国の美女が女神から嫉妬を受けて呪いをかけられた。根も葉も意味もなく、そんな深読みをしてしまう程度には美人さんだ。
「なんの話しですか。殺すとか、そんな恐ろしい。僕が殺せるのは、クツの裏におさまる大きさの虫だけです」
急に突拍子もない事を言われたからか、滅多に使わない丁寧な言葉で返事をしてしまう。
「さっき俯きながら言っていたでしょうに」
唇を尖らせて溜め息を吐き、納得がいかないと言わんばかりの視線を僕に向ける。
溜め息を吐きたいのはこっちだよ。なんて思いながら睨め付ける。
「さっきまで楽しく酔っぱらってたっていうのに、いったい何の話をしてるのさ」
「……今言った事は本当なの?」
わなわなと唇を震わせて、冗談みたいに細い声で聞いてくる。
今言ったことって酔っ払ってたってことかな?
「……ほんとうだよ。お酒の匂い、するでしょ?」
お姉さんは僕の呟きを聞いたとたんに顔を強ばらせて、震える指を必死に動かし、懐から何かが書かれた巻物を取り出す。
そして何度も何度も、スクロールと僕とを交互に見比べる。
あまりにも切羽詰まった表情で見てくるものだから、意味も分からず緊張してしまう。
この不思議な空間に唾を飲み込む音と、紙が擦れる音だけが響き渡る。
そして深い溜め息がひとつ。
「……本当に酔っ払って私の召喚陣を書いちゃったのね。こんなに複雑なのに、一つも間違えないで」
「しょうかんじん?」
「そうよ。召喚陣って言うのは、この世界には居ないけれど、別の世界には居るもの。この世界には居るけれど、今居る所とは別の所に居るもの。そんなもの達を招き喚ぶ、絵や図形の総称よ。魔法陣、とも言ったりもするわ」
物好きしか住まないと専らの評判な幻影都市【パラノイズ】
……まぁ、認めたくは無いけどそこに住んでる僕も、世間一般では物好きの部類なのだろう。
その中でも五本の指に入る、胡散臭さ満点の【星灯り商店街】という通りがある。
何が胡散臭いかというのはまた今度説明しよう。
その通りの何れかの店に、クレヨンで描いたかのように歪なもが売っていた筈だ。
盲目のお婆ちゃんが、間違えてキャンディの瓶を指差しながら、勧めてきた記憶がある。
因みにキャンディは蜂蜜レモンとミントの味だった。程好い甘さと清涼感が病み付きになる。我ながら良い買い物をしたなと誉めてあげたい。
思考がそれたね。取り合えず売り物を見た事があるから、実在してるのは知っていた。
「魔法陣って本当に使えるんだ。まぁ良いや、とりあえず僕が酔っぱらってお姉さんを召喚しちゃったって事?」
信じられないな、とは思う。でも、いざ目の前に見た事のない容姿をした人に説明されると、納得せざるを得ない。
やっぱり世界は広いや。とか、色々思う事もあるけれど。今は感動している場合じゃなさそうだ。
僕の予想が正しければ、目の前の美人さんは別の世界に居た方だ。いや、この調子だと僕が知らないだけで、この世界に居た可能性もあるのか。
とりあえずその事は一旦置いておこう。問題は、そこで生活していたって事だ。
小綺麗な洋服を着てるし、高そうなアクセサリーも着けている。偽物って可能性もあるけれど、自分の事を着飾る程度の文化圏に居たのは確かだ。
まぁ会話が成り立っている時点で、それは分かりきっていたのだが。
そんな人を用もなく呼び寄せてしまったってのが、よろしくない。
罵詈雑言を浴びせられて、殴る蹴る等の暴行を加えられても、一つも文句は言えない。
それほど理不尽なことをしてしまっているのだから。
知らなかったで済ませられるほど、僕の面の皮は厚くない。
「私にとっては、まあ良いやで片付けられる事じゃ、無いのだけれどね」
ですよねー。いくら優しそうな人だからって今の言い方はなかったな。
「それは……本当にごめんなさい。僕にできる範囲でおわびします。お金持ちって訳じゃないから、時間はかかるかもしれないけど」
文句を言いたいのはお姉さんの方だろうから、卑屈にならないように目を合わせ。堂々と言うのも変だから、申し訳なさそうに。それでもきちんと聞こえるように、丁寧に発音する。
僕なりに精一杯の謝罪の仕方。
「本当に何でも良いのね?」
「僕に出来ることなら絶対に。出来なくても、出来るとこまでは」
死なない程度に、とは格好悪くて言えないけれど。それくらい頑張りますよ。
指の第一間接程はありそうな、長くて綺麗な黒い爪。その爪を一本立てて、上唇に軽く当てながら考え込んでいる。
一分が十分にも感じるほどの緊張感。有罪判決を待つ罪人の気分。冗談でも良い気分とは言えない。
熱源が有るわけでもないのに、背中にぬめりとした汗をかく。
早く。早く決めてくれ。立場をわきまえずにそう叫びたい。
「決めたわ」
「そっか。じゃあ僕は何をすれば良いのかな?」
時間感覚が狂ったせいで、どれほど経ったかは分からない。
一時間かもしれないし、五分程かも分からない。
ただ今の僕にできることは、緊張してることを悟られないように、できる限りゆっくり、余裕があるように返事をする。それだけだ。
そんな僕の心境を見越してか、軽く笑いながら口を開く。
冗談でも言うかのようにあっさりと。それでいてひどく真面目な表情で。
「私を殺して」
悪魔は怖くないってのは、僕の思い過ごしだったようだ。
今日で一番深い溜め息を吐く。
煙草ってどこにしまってたっけ、なんて考えながら。