迷宮からの脱出5
暗い通路に、パスパスという気の抜けたような音が響いていた。ヴァイスの足音だ。すっかり子供になったその足で、ヴァイスはひたすら暗い通路を、急ぎ足で進んでいる。
時々息をつくように止まり、ため息をつくとまた進み始める。もうこれで、三十八回目のため息だった。
おおよそ七十年ぶりに子供になって、ヴァイスはつくづく思う。なんとまあ、大人の恵まれていることか。
これで三十九回目のため息。
これも、そう思う原因の一つなのだが、とにかく出口までが遠い。
ヴァイスはまたその足を引きずるように歩きだした。
殺されかけながら最期の部屋にたどり着くのにかかった時間は、体感でおおよそ二十分というところだった。もちろん自身が必死だったせいでもっとかかっていたのかもしれないが、それにしてもここまで疲れる道中ではなかったはずだ。
いまはすでに三十分はかかっている。今回は時計もあるのだ。間違えようがない。
四十回目のため息。
ヴァイスは一端立ち止まり、手に持った杖を下ろす。ずっと引きずらないようにしてきたせいか、腕の筋肉がひきつりそうだった。
出来るだけ音をたてないようにそっと杖を下ろし、ヴァイス自身も腰を下ろす。そうしてうつむくと、自身の脚の状態が見えた。
今のヴァイス足を覆っているのは、元シャツだった布切れだ。もともとはいていたブーツはこの身体になった時点で大きすぎ、脱ぐしかなかった。サイズの合わない靴など履いて歩けるほど、ここの通路は甘くない。だが裸足で歩けば、瓦礫でけがをしかねない。
仕方なくシャツを破いて作ったボロ靴のようなものに、適当に魔法で斬り裂いた靴の中敷きを入れている。そんなサンダルもどきのような物を履いて来たせいか、やはりどうしてもマメが出来てしまっていた。もともと使った布は血だらけのシャツだったが、このせいでなんだか赤色が増したような気がする。いや、血の滲んでいるところを見るに、間違いではないのだろうが。
ヴァイス自身の感覚として、長い距離を歩くときに一番困るのがこのマメだ。歩くたびに激痛がする上、そのせいで身体の筋肉が変に強張ってしまい、余計に疲れるようになる。
最初、パーティーを組んだ連中について行くときには散々悩まされたものだが、それにも歳を経るにつれて慣れ、ここ三十年は出来ることもなくなっていた。
もう長いことマメのことなんて忘れていたが、ご丁寧に若返った体はしっかりと思いださせてくれるらしい。おまけに足の裏が柔らかいせいか、あのとき以上にひどい有様だ。
ヴァイスはうつむきながら、身体強化の時と同じ要領で、体の中の魔力をめぐらせていく。特に足の方は念入りに。こうすると少しは痛みが和らいで楽になるのだ。治るのも早くなる。
本当だったら治癒の魔術を使いたいところなのだが、あれは魔力を馬鹿食いしてしまうので今はまだ避けたい。どの道、まだ歩かなければならないのだ。子供の柔らかくなってしまった足では、おそらく同じ事の繰り返しになるだろう。
しかも、最悪の場合、また引き返してこなければならないのだ。
痛みが和らいだのを確認すると、ヴァイスは顔を上げた。腕に巻いた鎖の先、そこにある懐中時計の蓋を開ける。
「……十時か」
時計の文字盤を読み、呟く。昼か夜かは分からない。またこの状況だと、針が合っているかも判断がつかないはずなのだが、なんとなくこの時計は正確だろうなとヴァイスは判断していた。
そして、急がねばならない。ここにいると、何一つ確認ができないのだ。太陽もないから昼か夜かもわからないし、何より確認しないとならないことがある。しかもそれは二つに増えた。
ヴァイスはまた腰を上げ、パスパスと音を立てながら、荒れた道をつき進む。
何故焦るのかといわれれば、あの墓標じみた飾りのせいだと答えるしかない。
活けてあった花、あれは“月見草”だ。白い花弁のきれいな花だが、咲くのはおおよそ夏から秋の季節。だがヴァイスがここを起動させたのは春先だ。月見草の季節ではない。
そして、そしてそれを活けていた花瓶だ。埃は付いていなかった。だれかが拭いているのだろう。その時に花も活けているのかもしれない。
しかし水が垂れたせいで、床に花瓶の跡の形に苔が生えるほどあそこに置かれているとなると問題だ。ヴァイスも実験したことはなかったが、少なくとも二日三日では苔が生えたりはしないだろう。
まあ、だからこそ、時計の方も正しいと思えるのだ。どうして自身の時計があんなところにあったかは分からない。だが埃が付いていないうえに、ネジが巻かれていた。この時計は七日間に一度はネジを巻かないと止まってしまう。
ネジの巻き具合は、表蓋を開けると確認できる。ガラス製の覆いの下の機構が見える部分でゼンマイが見えるようになっていて、そこを見ればいい。そこを見たおおよその目測では、前にネジが巻かれたのは三日前だ。
ヴァイスはここに来るまえ、一度ネジを巻いていた。ただ、それは六日前の話だ。少なくとも一回、ネジを巻かなければならないほどに時間が経っていることになる。それは最低でも四日の日数が経っているということだが、それぐらいでコケが生えるとは思えない。
不穏な材料しか見つからないまま、ヴァイスは進む。少し先で通路が途切れているのが見えてきた。
ヴァイスはその途切れ目で足を止め、中を覗く。これで四度目の確認作業だった。そして、おそらく最後になる。
ヴァイスがのぞいているのは、この一本道の迷宮の中、出口から一番近い所にある大部屋だった。向こう側に、今までの部屋と同じように出口が有る。その奥にうっすらと外の光が見えて来た。ようやくここまで来たらしい。
ついでに最初に構造配置で変更した部分を見ると、どうやらここでもあれと同じ現象が起きたらしい。あの変更の通りに丸い部屋の隅が奇妙なまでにとんがっていた。
一応ここまでは無事に来れた。どうやら待ち伏せなどはないらしい。おまけに魔物の気配もない。ここまでは、あの表示の通りだった。罠さえもない。見た目はヴァイスが画面でいじったところ以外、以前ヴァイスたちが調べに来たときのままだった。
ヴァイスは小さくため息をついた。
これでもう少し行けば少なくとも一つ、重要な事を確かめることができる。だが問題はその後だ。推測が正しい場合、どうしたものだか。
安全を確認した後、そのまま広間を抜けた。時計も持ってきてしまったのだ。出来れば荒事になるのは避けたかった。
なにもない広間を通り過ぎながら、ヴァイスは小さくため息をついた。
ここを通り過ぎれば、あとは結果が待っているだけだ。こういう場面には何度も出くわしたことがある。自身の立てた仮説が正しいか間違っているか、それを確かめる瞬間だ。
予想が当たったこともあったし、外れたこともあった。それは試験の結果だったり、自分の実験の結果だったり、次に相手がどのような手段で攻撃してくるのか、命のやり取りの場面など、様々な形でヴァイスの前に現れた。そしてそのさまざまな仮説検証の結果、今こうして自分はいる。
その中でも、今回は特大の緊張感があるなと、ヴァイスは頭の中でぼんやりと思う。たしか、盗賊連中を相手に切り結ぶなんて馬鹿な真似をした時もここまで緊張してなかった気がする。いや、他にもこんな場面もあったのかもしれないが、今は思いだせない。それにもう、答え合わせの時間だ。
もう、出口はすぐそこだ。ここでいかにも人工物である、しっかりとした真四角の通路が途切れ、ごとごつとした岩場になる。
ここの出口はどこからどう見ても普通の洞窟だ。そこから光が漏れている。その光の具合から判断して、どうやら今は昼間らしい。
その光の中を進み、静かに、ヴァイスは出口から十歩ほど手前で立ち止まる。そこに広がる光景に眉をひそめる。
答えが、目の前に広がっていた。
この出口が有るのは、辺境伯領『赤の森』の中だ。そこにある岩山の一つに埋もれかけていたのを発見された。
この『赤の森』は広大で、帝国領の北部をほぼ覆ってしまっている。そこからさらに北に広がり、北端の国々の一部まで広がっているほどだ。
おかげで帝国よりさらに北にある国との国境が少々曖昧になるという悩みの種としても有名で、そのため国境の確定という大義妙分の元、ルウワース辺境伯が開拓にいそしんでいる。
なんとか、辺境伯はこの当たりまでの開拓に成功した。そして迷宮を見つけたわけだ。
ところでこの『赤の森』の名前の由来なのだが、森にすむ魔物たちのせいで血まみれになるからなどと言う者もいる。それも間違いではないのだが、それ以上にこの森がある時期になると一斉に色づくというのが有力だ。
とある国ではこれを“紅葉”とか言うそうだが、ならばこの森ほどその名前にふさわしい所はないだろう。しかもこの『赤の森』の場合、帝国の四分の一を覆うと言われるほどの広大な森の全てが赤色に染まるのだ。
その壮大な眺めはまるで広大な森林全てが燃えているかのようにも見える事で有名で、この季節になると辺境伯の街は観光客でにぎわう。ヴァイスも何度か来たことがあった。
これは緑から徐々に黄色くなり、最終的に赤に変わる。まるで布を染め上げていくかのように色付いていくその様子から、“神の染め物”とまで言われるこの現象は、夏の終わりから秋にかけて徐々に進んでいく。
そして今、洞窟という岩に縁どられて見える森は、鮮やかな黄色に染まっていた。そして漂ってくる空気は、少し涼しくなっている。だいたい、秋の初めごろだろうか?
眉間にしわを寄せながら、ヴァイスは唸り声を上げる。
ヴァイスがここを起動させたのは春先だ。その頃は森の木はまだ新芽が多少出た程度で、灰色の木立しかなかった。明らかに季節を二つほど跨いでしまっている。
あまりの出来ごとにどうやらまた少し呆けていたらしい。出入り口から流れ込んでくる涼しさに、いまさらのようにヴァイスは身を震わせた。防寒用に魔法で空気の幕を張り、急場をしのぐ。これはあとで何とかするしかない。
ひとまず、季節は分かった。どういう理屈かは分からないが、自分は最低でも半年近く眠っていたらしい。それは分かった。
これで一つ、今はいつなのかという疑問のヒントらしきものは得た。そのおかげで、もう一つの疑問、その最悪の推測が当たっていた可能性が高くなった。
一縷の望みをかけて、ヴァイスは出口へと近付いた。手のひらを前に突き出すようにし、十歩の距離を一つ一つ、確かめるようにして、慎重に進んでいく。
見ようによっては間抜けな姿かもしれないが、この場合はこれで良いのだ。
ヴァイスはそのままの格好で進んだ。そして、出口まであと一歩というところになって、手のひらに妙な感触があった。あの画面と同じ感触だ。しかし、もちろん目の前にはごくごく普通の出入り口がある。見る限りにおいて、あの画面のような物は全くない。
だがまるで透明の壁がそこにあるかのように、ヴァイスはそれ以上進めない。あと一歩で出口にたどり着けるというのに、それができない。
思わずため息が出る。
どうやら、自分の推測は正しかったのだという証明ができた。もちろん、全く嬉しくはない。
八つ当たり気味に、ヴァイスは小さくなってしまった手で、ペタンと、見えない壁を叩く。
配置された魔物、種族『ヒト族』、数『一』。どうやらあの画面に書いてあったことは、正しかったらしいと証明された。