迷宮からの脱出2
「―――ますますマズいぞ、これは……」
あまりに長くなりすぎた杖で叩き、床に魔力で書いた魔方陣を消していると、何度目かの悪態がヴァイスの口から飛び出した。そのたびに帽子が不安定な頭の上で揺れている。
高い鈴の鳴るような声で、子供の口から飛び出すには少々勿体ぶった言い方だった。しかし、中身は八十の爺なのだ。ヴァイスは相変わらず、傍目から見れば子供の状態のままだった。
あの後、しばらく呆然としていたが、ひとまずヴァイスは自身の状況を確認するところから始めた。おかげで、分かったことがいくつかある。
まず、明らかにヴァイスは若返っていた。確かに関節の痛みはあった。しかしそれは徐々に消えていき、今となってはなんの支障もなく体を動かせている。
そう、なんの支障もないのだ。
体中の痛みのせいですぐにはわからなかったが、クラースから切りつけられた傷も消えてしまっていた。長年の冒険生活でついた体中の古傷さえも無くなってしまっている。今のヴァイスはどこからどう見ても健康な子供、そのものだった。
そう、健康なのだ。
「あと少しで死ぬと思っていたから、あきらめもついていたというのに……」
そう言って、ヴァイスは呻く。
傷と同じように、安眠蛙の毒もまた消えてしまっていたのだ。
もう倦怠感も頭痛もない。今のヴァイスはどこまでも健康だった。たったいま治療院の連中が使う“診療”の魔術さえ使って調べたのだから間違いない。体のどこにも異常はないのだ。長年悩まされた関節痛さえ、きれいさっぱり治ってしまっていた。
だからこそ、今の状況は最悪となっている。
閉じてしまった門を、ヴァイスは恨めしげに睨みつける。特にヴァイスを閉じ込めている扉は念入りに睨んだ。いくつかのブロックを切り出して作られたように見えるそれは、周りの壁と見分けがつかない程に良く似ている。もちろん睨んだところで、何かが変わるわけでもないがそうしたい気分だったのだ。
色々調べてみたが、この扉は開きそうにない。調べた限り厚さはおおよそ四尺、ちょうど今のヴァイスの身長と同じくらいだ。そのなかに魔力を通して補強がされている。つまり迷宮の壁と同じものなのだ。
この壁がどこから出て来たのかは分からなかったが、おそらく錬成されたものだろう。錬金術の応用で同じようなことができる。もちろん材料は必要だが、魔方陣に魔力を通し、指定した場所に指定したものをつくるのだ。
おそらく『迷宮核』が起動したときに、こうなるように作られていたに違いない。これだと起動した者が閉じ込められてしまうが、エルバラダ時代ならそれでも問題が無かったのだろう。だが、今は問題だ。何せ中にいるのは五百年前の魔術王国人ではなく、現代に生きるヴァイスなのだから。
「……このままだと飢え死にだぞ?」
自身の言葉に思わず冷や汗が流れた。
誰でも嫌な死に方というものはあるだろうが、ヴァイスにとってはそれが飢え死にだった。長い人生の間に何度かそうなりそうになったこともある。妙な連中に牢屋にぶち込まれたこともあったし、冒険の途中で遭難したこともあった。そして、そのたびに嫌だという思いが強くなったのだ。
別に魔物に食われるとか、誰かに襲われるとかならまだいい。毒で死ぬのもまあ、良いだろう。だが飢え死にだけは勘弁してほしかった。
それが、すっかり健康になってしまった自身に、一歩一歩忍び寄っている。今のままだとそれから逃れる術はないだろう。それを避けるためには、ここから出なければならない。
ヴァイスは閉まってしまった扉の前で腕を組み、唸り声を上げていた。
色々試してみたが、びくともする気配がない。おまけにその結果、さらに拙い事態になっていることが分かっていた。
手のひらの上で、ヴァイスは魔力を練り上げる。すこしすると手の上に小さな光の球が出来上がった。それを確認し、そのまま壁に向かって押し出すようにして放つ。ピュンと風を切って魔力の球が打ち出され、ぽんと弾けた。もちろん壁には、罅の一つも入っていない。小さく煙を上げるそこを見つめ、ヴァイスは小さく舌を鳴らす。
一応これは、斬りつけて来た帝国兵を吹き飛ばした物と同じものだ。少なくとも、ヴァイス自身は同じ感覚でやっている。その結果がこれだ。
敢えて言うならば、人間から子鬼程度への降格だろうか?
それくらいの落差で、ヴァイス自身の魔力が弱くなっていたのだ。個人差はあるが、魔力は大抵の場合年齢とともに強くなる傾向がある。子供に戻ったことで、持っていた魔力まで子供級になってしまったらしい。幸い操作能力だけは衰えていなかったが、少し前の名残といったらそれぐらいしかない。
使えなくならなかっただけマシといえばそうなのだが、今だと以前の半分ほども力が出せない。もちろんそんな状態でいくら頑張っても、神話級の力が破壊するのに必要なものをどうこうするのは無理だった。
だからこそ、ヴァイスは唸り声を上げている。
「参ったな……」
鈴の鳴るような声でヴァイスは呻く。
今一番の問題は、ここから出られないことだ。もちろんなぜ若返った、というか、幼くなってしまったのかは疑問が残るが、とりあえずその問題はいったん棚に上げておく。死んだら調べることもできない。
もちろん一度諦めた命なのは間違いない。しかし、それはもう少し楽に死ねるという条件があったからだ。飢えに苦しみながら死ぬとなると、少しばかり話が違う。
そこまで考えて、我ながら諦めが悪いなと、ヴァイスは少し苦笑した。まあ、諦めが良ければ、八十まで生き残ることもなかっただろう。
ひとまず、壁からヴァイスは離れた。もうこちらはどうしようもないのが良く分かった。迷宮の掘削実験は何度もやっていたが、一応新しく出来た壁ということで試していただけだ。その結果は無残。普通の迷宮の壁と同じものだということが分かっただけで終わってしまった。生き残れてもう一度機会があれば、以前と同じ条件でもう一度やってみることにしよう。
裸足のままぺたぺたと音を立てて、ヴァイスは進む。一歩歩くたびに、頭の帽子が不安定に揺れていた。いつものように杖を突こうとして、思わずつんのめりそうになる。
新しい体に四苦八苦しながら、ヴァイスは迷宮核のところまで進んできた。すこしだけ、その前で立ち尽くす。
ここを脱出するためには、単純な方法として出口をふさぐ扉を壊すという方法があるのは確かだ。しかし、それは今やってみて無理だという結論に達した。ではそれしか脱出の方法が無いのかというと、実はそうでもない。
竜の腕を模した台座の上、そこに置かれた迷宮核を、ヴァイスはじっと見つめる。
可能性の話だが、ヴァイスが脱出するための方法は、もう一つある。これを壊せばいいのだ。
『迷宮核』を失った『迷宮』は、ただの『遺跡』となる。これは良く知られた事実だ。
『迷宮』も『遺跡』もどちらにしろ魔物が出没するのであまり区別はされていないが、実はもう一つ明確な違いがある。『遺跡』は、『迷宮』と違い、壊れやすいのだ。
『迷宮』はその維持にその構造物自体の堅牢さと、魔力での維持を必要としている。その魔力での維持の要となっているのが、この『迷宮核』だ。これを壊されると『迷宮』は魔力での維持を出来ず、構造物のみの『遺跡』となる。
『迷宮』の壁の堅牢さも魔力が通っているからこそだ。実際、『遺跡』の壁は精々強力な城壁程度の強度しかない。この『例外』の場所にところどころ瓦礫が四散していたのも、それが原因だ。その強度は天と地ほども差がある。お陰で『遺跡』の中には住み着いた魔物のせいで崩れてしまう物もあるくらいだ。
だからこそ、可能性がある。
これを壊せば、ヴァイスの脱出を阻むものは厚さ四尺の城壁だけだ。それぐらいならば、貧弱になってしまったヴァイスにも、方法が無くもない。
ただこの方法もまた、問題がある。これもまた、ヴァイスに唸り声を上げさせる類のものだった。
壊すこと自体は、大して難しくない。おそらくヴァイスの持っている杖を一振りするだけで、簡単に砕け散ってしまうだろう。その構造物の強度に比して、極端にもろいのが『迷宮核』なのだ。子供が指でつついただけで壊れてしまったという逸話さえある。
もちろんそこまで脆いわけではないが、他にも色々問題がある。まず『迷宮』はその防衛機構として魔物を生み出すが、その魔物から取れる“魔石”のために、迷宮核を破壊した者は厳罰なのだ。上は見世物になった挙句火あぶりか車裂き、下であっても鉱山で終身労役だ。
魔石は魔道具全般の燃料などとして使われる、特殊な鉱石だ。魔物の中で凝縮した魔力が形を成したものといわれている。そして、迷宮のなかで生まれる魔物は、外の魔物と違い、間違いなくこれを体内に持っている。迷宮の魔物が冒険者たちの金蔓になっているのはこれが原因だ。それはひいては迷宮のある地方を潤すことになる。
それゆえに『迷宮核』は大抵の場合、それが存在する場所の国家や領主の管理になるのだ。今ヴァイスの前に在るこの迷宮核も、ルウワース帝国辺境伯の所有物という扱いになっている。辺境伯が起動させられるかとヴァイスに尋ねて来たのもそれが原因だ。実際、金鉱山を持っているよりも何倍も儲けが良いらしい。おそらく、壊した場合はヴァイスもお尋ね者の仲間入りだろう。
ただ、どちらにせよ睨まれるとマズい奴に睨まれているらしいので、この点でヴァイスはあまり悩んでいない。もし脱出できたなら、さっさと帝国からは出るつもりでいた。悩んでいるのは別のことだ。それは一言に集約できる。図らずも口から洩れていた。
「壊したくないんだがなぁ……」
単純に、壊したくなかったのだ。じつは近くでこれほどまでに観察できたのも、初めての経験だった。
迷宮核はその有用性から、厳重な管理下のもとに置かれていることが多い。それのある場所が分かっていても、それを管理する領主なり国家なりの許可が無いと、見ることさえ敵わない。中には逸話を信じているところまであって、その管理は神経質と言っていいほどだ。
ヴァイス自身、ここまで間近に観察でき、調べられる研究試料は今までの人生でも数えるほどしか出会ったことが無い。これを逃してしまえば次があるかどうか分からない。エルバラダの遺産にも数に限りがある。
しばらくの間、ヴァイスは食い入るように迷宮核を見つめていた。丈の長くなりすぎた杖に寄りかかり、しばらくただ黙ったまま迷宮核と向かい合う。
今回の起動実験は成功した。当時の事を記した手紙の一枚に、起動させるときの描写があったのだ。おかげで起動の方法だけは分かった。だが具体的に、迷宮核がどのような形で迷宮を機能させているのかは分かっていない。その製造法に至っては全くの謎だ。そしてそれらをすべて秘めた物が、いま、目の前にある。そして、これを壊さなければ、ヴァイスは飢え死にする運命だ。ただただ、何の音もしない時間が過ぎていく。
やがて、ヴァイスは小さく首を振った。少しだけ、頭が冷えた。
飢え死にするまで、まだ時間はある。そう思いなおした。
幸いなことに、この身体は全くの健康体だ。以前より調子が良いと言ってもいいだろう。子供になってしまったのが問題と言えば問題だが、逆にいえばそれだけでしかない。
ならばもうしばらく、これを調べてみても良いだろう。
そう思い、ヴァイスは一つうなずいた。
まあ時間をかけた場合、外の状況がどうなるか分からないのだが、どうせ一度死にかけた命だ。要は開き直った。せっかく調べられる機会なのだ、今調べずにどうする?
もちろん、ここには何の実験器具もないので、どこまで調べられるかも疑問ではある。だが、出来るだけやってみよう。
そう意気込んだヴァイスは、ひとまず手を伸ばした。
まず何から調べるかといえば、その手触りだ。実に原始的な研究法だと思うが、実はヴァイスも迷宮核にしっかり手で触れたことはこれまでない。少なくとも記録に残っている限りでは誰もいないはずだ。もちろんこれは例の逸話のせいで、ヴァイスも精々指先でつついたことが有るくらいだ。
しかし、今回はそれを邪魔する兵士はいない。精々、撫でまわさせてもらおう。子供になったヴァイスの顔に、無邪気な笑みが浮かぶ。小さくなってしまったせいで背伸びしなければならなかったが、そんなことは苦にもならない。今回は手のひらでがっつり行かせてもらうとしよう。
少し手が震えるのは仕方ない。やはり緊張する。これはおそらく、歴史的にも貴重な行為だ。
ヴァイスはすっかり小さくなった右手を、迷宮核へと向ける。小さい手が震えながら、光る球体へとのびていく。それは一瞬の出来事だったが、ヴァイスにはまるで永遠の時間のように感じられた。
やがてその手が、ぴたりと、迷宮核に触れた。その瞬間だった。
―――マナ・サー…レー…ン・シ…テム、シリアル…ンバー8893。
―――マスター・…センティ…ション・プログ…ムを起動…ます
何やら妙な言葉が、ヴァイスしかいない部屋の中に響き渡った。