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プロローグ

 長生きなんて、するものじゃない。

 誰でも一度くらいは聞いたことのある台詞だろう。

 ヴァイス・“イストリアス”・クルーゼもまた、その八十年の人生のなかで一度だけ聞いたことがある。

 ヴァイスの師匠の今際の際の台詞だ。

 当時のヴァイスは、まだ三十にもならない若造で、そうかもしれないなという良く分からない納得の仕方をしたのを覚えていた。

 その頃この台詞の意味を良く考えたことなどなかったが、八十を超えた今となってみると、ヴァイスはなるほどと納得せざるを得ない。長生きなんてするものじゃないのだ。

 

「こうなるからなぁ……」


 長年使いつぶし、すっかりしゃがれてしまった声で、ヴァイスはぽつりと呟いた。こつこつと、暗い通路の中、ヴァイスの足音だけが響いている。その呟きはどこまでも広がる暗闇の中に溶けて消えた。

 足は止めない。がれきがところどころ四散して歩きづらい通路に杖をつき、出来る限りの速さで歩き続ける。本人としては走りたいところなのだが、もうそうすることはできない。そうするしかないのだ。

 ひゅんと、風を斬る音が耳につき、ヴァイスが迷わずしゃがみこむ。

 すぐにヴァイスの頭の上を音が通り過ぎ、ガッ、と音を立てた。

 それが何かを確かめることもせず、ヴァイスはまた歩き始める。時々何かが飛んでくるが、それを右へ左へ、さらにはしゃがみこみながら、ヴァイスはかわしていく。いつもかぶっている鍔広帽がズレたが、それを直す暇もない。よたよたとしながらも歳の割には動けていると思うのだが、どう頑張っても昔の半分ほども動けない。いつまで若いつもりでいるんですかとは、いつまでも若い秘書の弁だった。こうなってしまうと、もう反論もできない。

 しかも、これを延々と続けているわけにもいかないのだ。この道行には終わりがある。遠目にも、それがだんだん近づいてくるのが見えて来た。

 灯りのない、ひたすら暗い通路、それなのに良く見えるのは、ヴァイスの目が特別だからだが、今だけはそれが少し恨めしい。

 通路の先は門になっている。しかしそれはもう用を為していないのだ。何せ五百年も昔に作られ、しかも建設途中で途中で放棄されたもの。今やそれはただ口をあけているだけの存在だ。

 ただ開いているだけの門は、その両脇にいる彫像のおかげで何とかそれとわかる程度。その彫像も兵士だったのだろうが、なんとか人型だと言うことが判別できる程度の代物だ。そして、その先にあるのは、行き止まり。だが、他に行ける場所はない。

 脚をもつれさせるようにしてヴァイスは駆け込んだ。なんとか部屋の中央までたどり着き、荒い息をつく。

 そこは丸い部屋だった。『エルバラダ』の史跡では重要な場所に良く使われる様式で、きれいな真円を描くように作られている。最初に入った時は感動したものだが、今は自分の土壇場になろうとしている。唯一の出口は、今駆け込んできた門しかない。

 袋小路になっている部屋で唯一の飾りは、ヴァイスのすぐ後ろ、中央にある竜の腕のような装飾の台座に置かれた水晶球だ。ある意味で、墓標としては似合うかもしれない。

 思わず浮かんだ皮肉に笑みを浮かべる。その途端だった。

 後ろから何かが走ってくる。

 ヴァイスが振り返ると、剣が振り下ろされようとしていた。

 振り下ろされる剣を、左手に持った杖でいなす。もう六十年近い付き合いになる杖は、相手の剣を受けてもびくともしない。しかし、最近関節痛がひどくなってきたヴァイスの腕で、剣をまともに受けるのは無理だ。なんとか剣先を反らすと、右手で魔力を開放する。途端に、剣を握っていた襲撃者を吹き飛ばした。


「……見たくないものばかりが、目に入ってくる。まったく、長生きなんてするものじゃない」


「でしたら、早いうちに大人しくなっていただけませんか、先生?」


 剣を振るった男は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて動かなくなっていた。それを見ていたヴァイスの荒い息の合間から漏れた言葉に返事をする者がいる。

 ヴァイスが目を向けると、そこにはさっきまでいなかったはずの連中が立ち並んでいるのが見える。その数は十人以上。

 正確に数えられないのは、もう目がかすんでしまっているからだ。それでもそこに弟子の一人、クラースが、いつもの涼しげな笑顔を浮かべて立っていることはすぐに分かった。

 ようやくずれていた鍔広帽の角度を直し、恋文をもらいすぎて困るとかいうのが悩みの弟子にヴァイスは顔を向けた。


「大人しく死ぬようなやつなら、八十まで死に損なったりはしないだろう? お前も何人か、そういう連中を知ってるだろうに」


「知っていますよ。ですから、こんな布陣なんでしょう」


 クラースが手を上げると、音もなく、数人が剣を構えて前に出た。その後ろでは槍衾が作られ、またほかの連中が杖を構えて詠唱の準備に入ろうとしている。爺一人に豪勢なことだ。

 ヴァイスは小さく舌を鳴らした。


「もう少し控えめでもいいんじゃないのか?」

 

「毒まで使ったんですよ? それでそこまで動けている人を舐めろという方が無理だと思いますね」


 クラースもまた剣を構え、前に出てくる。誰かが詠唱したのか、ふわりと魔法で生み出された“灯火”が宙に浮かび、辺りを照らし出す。

 お陰で視界が確保できた。そして良く見える弟子とほかの連中の姿は、ヴァイスも良く知っている“帝国”の軍服姿だ。その上から要所要所に革鎧を着けるという、動きやすい恰好をしているらしい。

 呆れたようにヴァイスは言った。


「仕事熱心だな。毒を盛っているなら、大人しく死ぬのを待てばいいだろう?」


「先生の場合、生き残りそうだから怖いんですよ。運動していただいて、毒がまわって動けなくなるくらいまでは追いつめたほうがいいだろうと判断しました」


「なるほど、間違いじゃないな」


 おかげで、頭が痛くて仕方がない。ヴァイスは内心歯噛みをしていた。確かに、放っておいてくれれば、解毒の方法はいくらでもある。しかし、このままではどうしようもない。

 毒の種類は分かっていた。倦怠感、頭痛。さっきから右手で練っている魔力は、徐々に練り辛くなってきている。症状から見て、おそらく“安眠蛙”の脂だろう。暗殺に使うのには、定番の毒の一つだ。

『安眠』なんて名前はついているが、この蛙はれっきとした“魔物”だ。その脂は精神のかく乱作用がある上、体に入ると服毒した者は睡魔に襲われる。もちろんただの眠りではない。安眠の名前はそうやって眠った者が、穏やかに眠っているかのように死ぬからついた名前だ。眠れば、まず助からない。


「助かってるぞ、さっきから痛くて眠るどころじゃないからな」


「“安眠蛙”の毒って、それくらいで跳ねのけられるものなんですかね?」


 あきれ顔を浮かべるクラースだが、実際痛いのは本当だ。無意味なのは分かっているがヴァイスは右手で、腹を押さえた。歳と共にすっかり骨と皮だけのようになってしまった指先に、それだけで生温かい感触が伝わり、滴っていく。


「“安眠蛙”も、珍しい魔物だ。その剣もそうだろう? 爺一人にいくらつぎ込んだんだ?」


「さあ、私も上司から渡されたものですので、詳しくは分かりませんね。豪邸一つくらいは建つんじゃないですか?」


 そう言いつつ、クラースは徐々に距離を詰める。ヴァイスはそれに一歩、脚を引いた。

 ピチャリと、嫌な音がする。


「豪邸一軒じゃきかないぞ。カルガラス製の魔剣が、一振りいくらするのか分かっているのか?」


「ならそうなんでしょう―――ああ、やっぱり貧乏くじですね。先生、良くその状態でそこまでしゃべれますね?」


「眠気覚ましにちょうどいいからな」


 そう言って、ヴァイスは笑う。もちろん、だいぶ無理をしている。ピチャリと、血の滴る音が、暗い部屋に響いた。

 灯りの中に浮かび上がるヴァイスの姿はひどい有様だった。いつもかぶっている帽子はともかく、首から下、肩から羽織っているコートはすっかりは破れてしまい、なんとか下に着ていたシャツが肩からぶら下がっている。そのシャツは、すっかり赤黒い色に染まってしまった。

 ここに逃げ込む前に袈裟掛けに一閃、すでにヴァイスは食らってしまっていた。それで襲撃されたことに気づいたのだ。肩口から脇腹まで、だらだらと血が流れる感触が蛇のようにまとわりついてくる。八十の年寄りがそんな物を喰らって即死を免れたのは、シャツの上に薄いが革鎧を着ていたからだ。しかし安眠蛙の毒を貰ってしまった。どうやら剣に塗りこんでいたらしい。

 

「……私にも、すっかりボケが来たな。お前らがそんな物まで用意していることぐらい、想像がついても良かったんだが」


「先生の結界術を破るのは骨ですからね。これが無いと歯が立ちそうにないですし」


「もう少し、驕ったほうがいいぞ。帝国武技大会準優勝だろう?」


「それを泥だらけになるまで、練習場でいたぶってくれたのは誰ですか?」


「何年前の話をしてる」


 もう、それから十年は経つんだぞ?

 まだヴァイス自身が、まだ帝国中央学院で教鞭をとっていたときの話だ。そのころはクラースはまだ学生、それに比べてヴァイスはその時でも六十を越えていた。そして成長に比べれば、老いの方が脚は早い。もうあの頃の力の半分も今のヴァイスには無い。もちろんこの歳なりの戦い方はあったのだが、それもこの連中には通じないだろう。

 連中の得物を見て、ヴァイスは内心舌を鳴らしていた。

 歳をとった最近のヴァイスの戦い方は単純だった。結界術で自身の安全を確保、その上で相手に一方的に高火力の魔法を撃ちこみ、片付ける。そんな戦い方だったのだ。

 実際、ヴァイスの結界術を潜り抜け、攻撃を加えられるような輩はここ三年ほどいなかった。もうこの歳で純粋なぶつかり合いなど無理だったし、ある意味で楽をしていたともいえた。だからこそ、油断してしまった。

『カルガラス山脈州国』、そのドワーフの国の魔剣。最近、魔法術式を断ち切れる刻印術と鍛冶を融合させた新しい剣ができたと噂には聞いていた。もう遠くなった耳で聞いたせいか、すっかり忘れてしまっていたのだ。

 術式を断ち切れるのであれば、これほど自分の暗殺に使える代物はまずないだろうに、頭の固いドワーフが珍しいものを作ったせいか、ずいぶん高い(、、)ものだなという陳腐な感想を持っただけで、すっかり聞き流してしまったのだ。自分の迂闊さに腹が立つ。

 さっきから、自身をとり囲む連中をヴァイスは観察し続けていた。しかし、一向にその()が見つからない。全員持っている武器はカルガラス製。槍でも剣でも、カルガラス特有の鋸のような刃紋が浮かんでいるのですぐわかる。もちろん引っかいたような傷跡、サリュード式の魔術かく乱の刻印がされているのもわかる。ここ(、、)から生きて出るには、この連中をなんとかするしかない。せめて目の届かないところに行かないことには、解毒もさせてもらえそうにない。

 二重に重なって見える視界の中、観察した限りで、連中の人数は十三人。剣士がクラースも含めて四人。槍衾を作っている槍士が五人に、杖を構えているのが二人。厄介なことに弓持ちも二人いる。そして唯一の出口は、連中の向こう側。

 ヴィオラのやつに黙って出て来たのは失敗だったかもな。ヴァイスは思わず出そうになったため息を飲み込んだ。

 正直に言って、完全に詰みの状態だ。連中としては、このまま毒がまわってくるのを待っているだけでいい。時間をかければかけるほど、連中は有利になっていく。

 ヴァイスの方はといえば、立っているのもやっとの状態だ。すでに魔力を練る余裕もない。さっき一人を吹き飛ばしたのも魔力をぶつけただけの代物で、もはや魔法とすらいえない。もう出来ることはほとんどないと言っていいだろう。

 

「……ん?」


 いよいよマズいなとヴァイスが冷や汗を流していると、こつこつと、小さい足音が耳についた。

 クラースも気づいたのか、視線こそヴァイスから外さないものの、怪訝な表情を浮かべている。

 足音は二つ、一つは歩調が乱れていて、荒れた地形を歩くのに難渋しているもの。時々、何かがカチャカチャと音を立てている。もう一つもあるのだが、こちらは慎重に聞き耳を立てなければ、逃してしまうほど小さい。そして、それらはたった今、ヴァイスたちが入ってきた入口の所から聞こえている。

 遠くなった耳でヴァイスが苦労してそれを聞いていると、すぐに足音の主が姿を現した。


「まだやっているな?」


「お前たち、隊列を乱すな」


 灯火の明かりの中に入ってきたのは、対照的な二人だった。

 言ってみれば、大と小だ。

 一人は見上げるような大男。腰に自慢の三尺はあるサーベルを佩き、それをカチャカチャ鳴らしている。

 もう一人はヴァイスにも身長で負けそうな小男だ。大男が前を歩き、小男はそれに従っている。そうしながら小男は鞭のような一言を振るい、少し乱れの生じた包囲網を即座に正して見せた。

 そのどちらもクラースと同じ軍服を着ていた。そして、二人ともヴァイスは顔を知っていた。


「……お前らか」


「まだ生きていたか、ヴァイス・クルーゼ」


「お久しぶりです、ヴァイス先生」

 

 ヴァイスが声をかけると、大男の方が舌を鳴らす。横にも縦にも大きい体をそらし、威嚇するように肩を震わせる。その顔には憎たらしいという表情がはっきり書いてあった。

 小さく、しかし丁寧に頭を下げる小男の方とは、これもまたずいぶんと違う。

 大男の方へと、ヴァイスは皮肉な顔を向けた。

 

「ミセル将軍、ずいぶん奮発してくれたようだな?」


「魔剣のことか? お前を殺そうと思うと、これくらいの準備は必要になるだろう」


「相変わらず、ねちっこい奴だ。しかし、歳上をお前(、、)呼ばわりとは、礼儀を知らないな。生意気な小僧め」


 たっぷりと口髭を生やした壮年の男の顔が赤らむのが、ぶれ始めたヴァイスの目にもはっきりと見えた。相変わらずこいつは短気らしい。今にもサーベルに手をかけ、切りかかってきそうだ。

 そんな湯気が立ちそうな将軍の横から、小男が足音も立てず進みでる。

 

「先生、余り将軍をからかわないでください」


「カリョウか。お前の部下は優秀だぞ?」


「ええ、部下を鍛えていただいているようですね。ありがとうございます」


 そう言ってカリョウは、また丁寧に頭を下げた。しかしそこからは、何の感慨も感じさせない。

 この男は言ってみればクラースの直属の上司に当たる男だ。なんでもいまは部隊長らしい。ヴァイスも顔だけなら良く知っている。しかし、奇妙な奴だと、会うたびに思う。

 おそらく表情のせいだろう。物腰こそ丁寧なのだが、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。その無表情の顔自体も、若いようにも老人のようにも見える。見ようによってはなかなか不気味な男だった。

 そんなカリョウが疑問を投げかけて来た。


「今回の一件、どこまでお察しでしょうか?」


「私が殺されかけていることか? それとも、その理由か?」


「出来れば理由の方をお聞かせいただけますか?」


 カリョウはそう言いながら指を動かし、ヴァイスをとり囲む者たちに合図を出す。包囲の輪が狭まり、ヴァイスはまた一歩後ろに下がる。すぐ後ろに、水晶の台座が迫っていた。

 ヴァイスは呟くように言った。


「……メビアとの戦争の一件だな」


「その通りです」


 そう言いながら、カリョウも包囲の輪に加わる。軍服の裾から、短い杖を取り出した。


「困ったことに、われわれ帝国、『グラファス・バルドラ』と『メビア』とで、近いうちに()り合わないといけないことになりましてね」


「それは、決定なのか?」


「近いものと思っていただいて構いません。ご存じの通り、メビアはこの東大陸で帝国に次ぐ大国です。そこでこちらも戦力を整えるため、国内の魔術師ギルドへ研究成果の供出を求めています。特に、大規模ギルドには念入りに。筆頭勢力を持つギルド、そう、先生の“真理の探究”などは真っ先に」


 そう言って、念を押すようにカリョウは一拍置いた。その無表情な顔でじっとヴァイスの顔を見つめている。


「ところが、“真理の探究”がこれを拒んでしまった。帝国筆頭魔術士である先生のギルドであり、五十年の歴史を持つ、勢力も一番大きいギルドが、そんなことをしてしまった。お陰で、他のギルドまで様子見の構えを見せ始めている始末です」


盟友(ギルド)協定は無視するのか?」


「『ギルドは国家間の争いに関わらない事とす』、ですね。無視してる連中も多いですし、今回も都合良く忘れてしまうつもりだったようなのですが、先生が思い出させてしまったんですよ。お陰でこういう次第になってしまった」


 不気味な顔で、抑揚のない話を続けるカリョウ。

 手持無沙汰に帽子のつばをいじっていたヴァイスは眉をひそめた。


「つまり?」


「助かる道もありますよ、という提案です」


 もう少し悪どい顔をして言った方が、迫力もあるのかもしれない。

 しかしカリョウはどこまでも無表情だ。たんたんと話を続けている。その後ろで、ミセルが面白くなさそうに顔をしかめていた。


「ヴァイス先生、さっきから解毒に魔力を使ってしまって、こちらへの対処に魔力が割けないのでしょう?」


「……よく分かるな」


 身体強化の魔法の応用だ。これのおかげでほとんど致命傷のような状態でも、ヴァイスは永らえることができている。体内に魔力を流して、体を活性化させるだけのものだが、慣れた者がやればその効果は絶大だ。ヴァイスもその効果は今までの人生でよく分かっていた。

 しかし、いつもなら片手間にでもできるはずのその作業が魔力のほとんどを食ってしまい、これ以上の手向かいが出来なくなっている

 悔しげに一瞬顔をゆがめるヴァイスに、カリョウが一つ頷いた。


「一応、この道(、、、)の秘伝の調薬法というものでしてね。少々別の物を、いろいろ混ぜておくのがコツです。そして、唯一の解毒薬が、ここにあります」


 空いた手で、懐から緑色の小瓶を取り出す。カリョウはそれをささげるようにヴァイスに見せた。


「解毒さえできれば、先生のことです。あとはどうとでもなるでしょう?」


「その代わりに、お前らに付け(、、)という話か?」


 コツコツと杖で床を叩きながらヴァイスが言うと、カリョウは首だけでうなずいた。


「早い話がそういうことですね。先生が折れてくだされば、他のギルドも大人しくなるでしょう」


「そうならなかった場合は?」


 ヴァイスの疑問に、カリョウは首をひっかく動作をして見せた。


「さもなくば死を(、、)、というわけです。もちろん他にも協力いただけるように色々策を用意させていただいております―――命令では、ここまで交渉するのが仕事になっていましたね。間違いありませんか、将軍?」


 後ろで憎々しげにヴァイスを睨むミセルを振り返り、カリョウは確認する。ミセルの舌を打ち鳴らす鋭い音が、広い部屋に鳴り響いた。


「カリョウ、こういうことは、もう少し時間をかけて話をするものじゃないのか?」


「あまり、その時間がありませんからね。それにヴァイス先生相手にそんなことをしても、それこそ時間の無駄というものでしょう? あとは将軍がお願いします」


 言いたいことを済ませたのか、カリョウはそのままうっすらと光る杖を構える。その杖には魔力が練りこんだ状態で込められ、少しカリョウが力を込めれば魔法が発動し、ヴァイスを襲うことになるだろう。

 ただ、この様子だとカリョウは魔法を使って戦うつもりなのだろう。昔からそれが得意な奴なのは知っている。しかし、それがクラースと並ぶように立っていて大丈夫なのだろうか。ヴァイスは純粋に疑問に思った。

 

「……それで、ヴァイス・クルーゼ。返答を聞かせてもらおうか?」


 しばらくして、ミセルが口を開いた。すっかり臨戦態勢に入り、一言もしゃべらなくなったカリョウを睨んでいたが、ようやく諦めたらしい。腰に佩いたサーベルの柄に手をかけ、ヴァイスに向き直る。鼻息が荒いせいか、その口髭がゆらゆらと揺れていた。


「もちろん、協力をするのならばそれなりの見返りを用意する。帝国一の魔術師を無碍にはせん。“イストリアス”なんて、生意気に爵位まで持っているんだからな」


「将軍、爵位ではなく碩学位(せきがくい)です。学術国家の教授号の……」


「似たようなものだ、黙っていろ!!」


 訂正を入れて来たカリョウを怒鳴りつけ、さらに鼻息荒くヴァイスを睨みつける。その顔が赤いのは、怒っているからなのか、恥をかいたと思っているか、良く分からない。

 相変わらず短気な奴だ。

 ヴァイスは小さくため息をついた。


「それで、話は全て終わったのか?」


「ああ、こちらの条件はこれだけだ!! 返答はどうする、ヴァイス・クルーゼ!!」


 ミセルの頭に湯気が見える。それが毒による幻覚なのかどうなのか、もはやヴァイスにはわからなかった。もう血が抜けてきているのだ。

 すでに背中を悪寒が走り、まるで雪山にでも放り込まれたような気分だ。視界はすでにぐるぐると歪んでしまい、立っていられるのも不思議なぐらいだ。頭も割れるように痛い。今にも瞼が落ちそうで、何がどうなっているかもわからない。

 ただ、それでも、一つだけ確かなことがある。 

 コツリと、ヴァイスは杖で床を叩いた。


「……私が、これくらいのことで、お前らの言うことを聞くと思うのか?」


 その返答に、クラースがため息をつく。カリョウが小さくうなずき、ミセルはその太い眉をぴくぴくと動かした。


「私の首を挿げ替えたところで、どの道、『真理の探究』は協力しないだろう。どいつもこいつも好き勝手する連中ばかりだからな。私がいなくなれば、ギルド自体が消えてなくなる。お前らもわかっているだろう?」


 そう言ってヴァイスがすこし周りを見回すと、クラースが若干苦笑を浮かべていた。思い当たる節があったらしい。言ったそばからヴァイス自身も、頭痛の種たちの顔が浮かんできた。

 ただでさえ痛い頭にさらなる頭痛を感じて、ヴァイスはすこし顔をしかめた。


「……まあ、それは良い。お前らに指示を出した奴には、そこまで分からなかったのだろう。いや、そうなって(、、、、、)欲しいのかもしれないが、そんなことはどうでもいい」


 将軍までが出張ってくるなど、尋常では無い事態だ。確かに将軍は複数人いる役職だが、そのうちの一人でもわざわざ暗殺の現場まで駆り出されるなど、まともなことではない。

 ミセルは確かに短気だが、有能なことでも有名なのだ。サーベル一本で戦局をひっくり返したこともある。軍隊を引っ張っていくタイプの司令官としては優秀だ。

 手こそ出していないもののそんな奴が、わざわざ出張るような暗殺。誰だかは知らないが、どうやら自分は相当にマズい奴にからまれてしまったらしい。

 

「この年まで生きてきたせいか、面倒事には飽き飽きしている。メビアに知り合いも多い。そいつらを殺しに行くことの手助けなんぞ、すると思っているのか?」


「帝国にも、ずいぶん知り合いがいるだろう? そいつらのことは良いのか?」 


 顎をしゃくり、ミセルがクラースを指して見せる。

 ヴァイスはため息をついた。


「正直、困っているよ。私としては、どちらもイヤなものだ」


「糞爺が、甘ったれた餓鬼みたいなことを言うんだな?」


「もう私も歳だ。正直、疲れているんだ」


 背中に鉛でも背負わされているようだった。

 今言ったことは、事実だ。長い年月の間、あちこち旅をして来て、そのたびに知り合いが増えた。それが積りにつもって、ギルドにもなった。学院の教鞭もとって、生徒も増えた。そうしてあちこちつながりが増えていき、結局、今のような事態になってしまった。


「長生きなんてするものじゃないな……」


 さっさとくたばってしまえば、こんな目に会わずに済んだのだろうか?

 そう考えて、ヴァイスは苦笑した。

 もう、こうなってしまった以上、今さら考えてもどうしようもないことだった。ここで自分は死ぬのだろう―――まあ、ある意味、ちょうどいいのかもしれないが。

 ぐいと、帽子をかぶり直す。

 かつて、教壇でしたように、ヴァイスは笑って見せた。ミセルがぽかんとした表情を浮かべるのが、すこしだけ見えた。

 

「……お前たち、私の授業を聞きたくはないか?」


 その瞬間閃光が走り、爆音が響き渡る。爆音が消えた後、ヴァイスが立っていた場所が煙を上げていた。


「隊長……」


 カリョウの杖が振り下ろされていた。クラースが呆然とした表情を浮かべ、自身の上司の顔を見つめていた。


「お前たち、殺すときは躊躇無く殺せといつも言っているだろう? 今回が特殊な任務だからと言って、それは変わらん。特に……」


 カリョウの顔に、うっすらと曖昧な表情が浮ぶ。それはどこか、あきらめの表情に似ていた。そんな顔で、煙の上がった場所に目を向ける。


「先生のような面倒臭いのを相手にするときは、特に(、、)、だ」


「……やれやれ、それが恩師に対する言いぐさかね?」


 魔力の動きが風となって、立ち昇る煙をかき消していく。そこには血まみれのヴァイスが、相変わらず杖をつき、帽子のつばに手をかけながら立っていた。

 

「魔力を局所的に爆発させられるのか。どうして魔術師がそんなところに立っているのかと思えば、器用なことをするものだ」


「昔先生に見せていただいたのを参考にさせていただきました。どうやら通じなかったようですがね?」


「まだまだ、精進が足りないな」


「そのようですね」


 くいと、カリョウが指を動かす。

 剣士たちが一斉にヴァイスへと襲いかかった。結界も斬りすてる魔剣が、ヴァイスめがけて振り下ろされる。金づちを鉄板に叩きつけたような、破砕音が響いた。


「……なに?」


 迫った剣は全て、ヴァイスの手前で止まっていた。

 怪訝な顔をするカリョウに、ヴァイスはちいさく笑って見せた。


「その剣の刻印式は、書いたやつのせいだろうが、最新のサリュード式で描かれている。知っているか? サリュードの婆め、効率重視でやりたがるせいで“エルバラダ魔術体系”から外れたやつにあまり詳しくないんだ」


 ぼんやりと、ヴァイスを中心に、幾何学模様を組み合わせた魔方陣が浮かび上がっていた。ところどころ書かれた円に、帝国では見たこともない、蛇の絡みあったような文字が浮かび上がっていた。カリョウも魔術には詳しいと自負していたが、これは見たことが無い。


「これは西大陸、コルドン地方で使われていた魔方陣でな。エルバラダ魔術体系からも外れた、独自の体系を持つ魔術だ。お陰で、婆の刻印式での魔術式をほぐすというやり方が通じない―――ああ、ただ発動にあまりに時間がかかるので、今は廃れてしまっているから安心しろ。まともに使えるのも、もう私ぐらいだろう」


 唖然とする男たちに、ヴァイスは訳知り顔で説明した。

 カリョウが小さく息をついた。手を振って、剣士たちを下げさせる。


「……やはり、さっさと()ってしまうんでしたね。一応殺せるなら殺しておけと指示しておいたんですが」


「賢明だったな―――さて、お待ちかね、お前たちの大好きなヴァイス・クルーゼ教諭の授業の始まりだ。今日は、いま話に出て来たエルバラダ魔術体系、そしてその文明について話そう」


「逃げられないのですか?」


 若干顔のひきつったクラースに、ヴァイスは小さく首を振った。


こいつ(、、、)は床に直接魔力を流さないといけないので移動ができないんだ。そういう意味でも、エルバラダ式の結界術は優秀だ。これは空間に魔力を流すというエルバラダ時代に発見された技術に基づいている。実際使い勝手もいいし、エルバラダ式の優位さを改めて認識できるだろう―――さて、さっきからエルバラダ、エルバラダと言っているが、これは元を質せば、『古代エルバラダ・ガルタイア魔術王国』がその名前の由来だ。その文明は滅んだが、名前は現代の主流魔術体系である“エルバラダ魔術体系”へと引き継がれている。いわば現代魔術の始祖といってもいいだろう。……寝るなよ、ミセル。昔のように杖で小突いてほしいのか?」


 いかにもつまらなさそうな顔をするミセルにヴァイスが言うと、少しだけ大男が顔をひきつらせた。昔は歴史の授業になるとしょっちゅう寝ていた奴だ。将軍になっても相変わらず苦手なままらしい。ヴァイスは顔に苦笑を浮かべた。


「さて、“エルバラダ”は滅んだといったな? 事実、その通りだ。“エルバラダ・ガルタイア魔術王国”の七一代目国王、“賢王”クラヴィラ一四世の時代において、この文明は突如滅び去った。その原因は今もはっきりしていない。当時の王国跡地と目される場所でも、骨の一つ、瓦礫のかけらさえ見つからないのだ。おかげで現代においてその名残を知ることができるのは、エルバラダ時代の数点の書物を除けば、世界各地に点在する史跡としての『迷宮』や『遺跡』のみとなっている」


 再び金属音が鳴り響く。クラースがその剣を振るっていた。亜竜の首を落としたこともある一閃だが、そんな物ではこの結界はびくともしない。クラースを嗜める余裕さえあった。

 

「クラース、授業中は静かにしろ―――ところで、『迷宮』と『遺跡』。これらは全てエルバラダ時代に残されたものといわれている。いま我々がいるこの場所(、、、、)も、そうだ。つい最近、灌漑工事の際に見つかった」


 時折こういうことがあるのだ。どうしてかエルバラダ時代の建物は地中の奥深くに眠っていることがある。五百年程度ではそこまで埋まるはずもないのだが、理由はまだ解明されていない。

 ここ(、、)もまた、帝国辺境伯が開拓工事のためにたまたま掘り起こしたものだった。その研究発掘を“真理の探究”で請け負ったのだ。ただ、いつもならたくさんいる人足などの作業員もここにはいない。今日、ここにいるのはヴァイスだけだ。


「『迷宮』と『遺跡』、これらは冒険者の間では区別をされないが学術的には明確な区分がある。簡潔に言うと、生きているか、死んでいるかが重要になる。……っ!」


 口の中にこみ上げて来た血を、ヴァイスは吐き捨てた。頭の中で割れ鐘が鳴り響いているようだった。生徒たちの見慣れたつまらなさそうな顔を見れば、ちゃんと喋れている事はわかるが、最期まで見届られるだろうか?

 

「……続けるぞ? この、生きている、死んでいるを区別する一番の指標は、なんといっても『迷宮核』がまだ機能しているか、いないかだ。ちなみに、その『迷宮核』の実物がこれ(、、)だ」


 杖を振るい、後ろにある水晶球を指し示す。魔力を体に流し、なんとか気力を取り戻す。それでも、もうあまり持ちそうにないが、いくらかはマシだ。

 連中はクラースを最後に切りかかってこようとはしていない。どうやら死ぬまで待つつもりらしいが、そう簡単にいくかな?


「さて、たった今、エルバラダの史跡には二つしか区分が無いと言ったな。ところがこの区分だけでは足りないことが分かった。ここは、今まで発見された中で唯一のその『例外』だ。なぜか、わかるかね?」


「……『魔物』の気配がまったく無いからだろう?」


 驚くべきことに、ミセルから答えがあった。カリョウやクラースたちが少し驚いたような表情をしているが、何より驚いたのは質問したヴァイス自身だった。まさかミセルがこんな積極性を出そうとは思わなかった。

 授業の時もこのくらいの積極性さえ見せてくれれば、試験で落第点をくれてやることもなかったのだが、まあ、今は褒めてやろう。


「そう、正解だ、ミセル。生きている迷宮は魔物を生み出し、死んでいる遺跡には大抵、魔物の残骸が転がっている。ここで言う魔物とは、エルバラダ時代の建造物の防衛機構のことだ。それが今も生きている史跡のことを『迷宮』と呼ぶ。死んでいる『遺跡』ではその機構が維持できず、魔物の死骸が転がっていることが多い。魔物は知っての通り冒険者たちの飯の種だな。だが、外の魔物と迷宮の中の魔物は、その存在は全く違うものだ。ここは考古学、歴史学の重要な点だ。覚えておけ」


 そこで言ったん言葉を切ると、くるりとヴァイスは迷宮核へと向き直る。体の中で、残っている魔力をありったけ練り上げる。視界が少しぶれた、もう少し持ってくれ。


「さて、話は変わるが私は今日、ここ(、、)へ一人で来た。こんな爺でも魔術師ギルドの重鎮なんて呼ばれる身だ。一人で出掛けるなどそうそうない。大抵、ヴィオラのやつがいつもくっついてくる。お前たちもそのおかげで手出しできなかったし、だからこそ今日という機会を見つけて襲いかかってきた、そうだな?」


 後ろで身じろぎする気配があった。最盛期の師匠に次ぐ実力もある優秀な秘書は、いつもヴァイスに影のようにつき従っていることでも有名だった。それが、今日はいない。


「なぜ、今日、私が一人でここへ来たか。おそらく、お前たちは知るまい。なにせ、理由を知っていればわざわざ暗殺になんぞ来ないはずだからな」


 大方誰か監視に付けておいて、そこからの情報をもとに計画を練ったのだろう。一応、ギルドにクラースが出入りしていたが、そこからこの情報は漏れないはずなのだ。何せ誰にも言わずに来たのだから。


「私は、今日実験をしに来たんだ。なかなか興味深い実験だぞ?」


 両手に、練っていた魔力を流していく。ぼんやりとした光が手を覆っていく。それを確認し、ヴァイスは一つうなずいた。


「さて、先ほども話したが、この遺跡は『例外』だと言ったな。それは今まで、“生きている”『迷宮』と“死んでいる”『遺跡』しか見つかっていなかったからだ。だが、ここには魔物の気配が全くない。死骸すらない。なぜか?」


 少し床の魔方陣にも魔力を流し、強度を上げておく。魔方陣の光が強まり、ヴァイスと『迷宮核』をすっぽりと覆うまでに広がった。ぼんやりとした光が立ち昇り、その光を強めていく。


「ここは建設途中で、放棄された場所なのだ。年代はおそらく、クラヴィラ一四世の治世の頃だろう。そう、エルバラダが滅んだころだ。生死によって史跡を判別することから鑑みれば、“生まれてすらない場所”といったところかな? だが、ここはもうほとんど完成している。装飾こそされていないが、肝心な部分は出来上がっていることが分かっている。では何が足りないのかと言えば、そう、『迷宮核』に、まだ魔力が流れていない」


「まさか……」


 カリョウが引きつった声を上げた。ここまで感情の表れたカリョウの声を聞いたのはヴァイスも初めてだった。この年まで生きてみたが、今日は初めてが多い。まだまだ知らないことは多いものだ。

 ヴァイスはにっこりと笑い、後ろを振り返った。


「お前たち、誇っていいぞ? 世界初”エルバラダ史跡の起動実験”だ。学術国家の爵位である教授号、“歴史学教授(イストリアス)”なんてものをもらった私にさえ、何が起こるかわからない。正直言って危険しかない(、、、、、、)史上初の実験の観察者になれるんだからな!」


 一瞬、辺りが静まり返る。何の音もしなくなった。それを破ったのは誰だったか。


「……この、糞爺が!!」


「お前たち、退避しろ!!」


「先生!!」


 阿鼻叫喚の騒ぎだった。ある者は剣を取り落とし、ある者は出口へと駈け出して行く。

 まったく、運のない奴らだ。だから誰にも言わずに来たというのに。

 ヴァイスは笑いながらその様子を眺めていた。じつはヴァイスもギルドの連中に止められていたのだ。辺境伯からは起動できるものならさせてくれといわれていたが、危険性が測れなかった。おかげで一人で抜け出すというという方法を採るしかなかったのだ。

 少なくとも内部の罠や、防衛機構としての魔物は動き始めると思うのだが、さてどうなるかな?

 すでに辺境伯に話を通して周辺の人払いは済ませてある。本当はもっと安全な方法を使うつもりだったのだが、今の自分にはもはや必要ない。起動の瞬間を間近で見られると考えれば、これくらいは安いものだ。

 連中が慌てているのは、迷宮踏破用の装備を全くしていないからだろう。実際ここが安全な場所だと思って()に及んだようだ。ところがこれからこの場所は魔物の跋扈する迷宮になるとなれば慌てるのも仕方ない。だいたいどんな魔物が出てくるかもわからないのだ。まあ、成功すればそれだけで済む話で、失敗すれば、……どうなるんだろうか? 多分崩落はしないだろうが。

 ヴァイスは軍人たちがバタバタと部屋から出ていくのを見送った。吹き飛ばされて倒れたままの兵士を回収したクラースが何か言いたげにしているのが少しだけ見えたが、さて何を言いたかったのか、今となってはわからない。“灯火”の魔法が維持する力を失い、音も立てずに消えていく。部屋に再び闇が忍び寄ってきた。いまこの部屋の光源は、唯一ヴァイスの足元に広がる魔方陣だけだ。

 足音が完全に聞こえなくなるまで、ヴァイスは待った。この場所自体はそこまで広くないのだ。連中なら無事に脱出できるだろう。

 

「さて……」


 迷宮核がその間に来るように両手を掲げる。多少手が震えるが、練りこんだ魔量の方は十分だ。起動に必要な量は計算でわかっている。正直消耗したヴァイスにはぎりぎりの量だが、はたして上手くいくかどうか。まあ、試してみればわかる。手と手の間を魔力の光の帯が通り、迷宮核に流れ込んでいく。ぼんやりと、『迷宮核』が光を宿していくのが分かった。あとはこれを容量いっぱいになるまで続ければいい。ぼんやりする頭に鞭打って、ヴァイスはその作業を続けた。

 

「あ、しまった……」


 あと少し。そこまでになった時、ヴァイスは思いだしてしまった。

 それはヴィオラを追い出すときに使った言い訳だ。

 踊る赤猫亭のケーキを買ってきてほしいと言っておいたのだが、持ち合わせが無かったせいで立て替えさせたのだ。料理は美味いのだが、赤猫亭は高いことでも有名なのだ。悪いことをした。

 騒がしくなってしまったとはいえ、こんなことも忘れてしまうとは、全く、歳は取りたくないものだ。

 それが、ヴァイスが光に包まれる前、最後に思ったことだった。

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