或る絵描きの話【3】
絵を描いているときの平野は、他のものなど一切目に入っていないかのように作業に没頭する。初めて彼女に会ったときもそうだった。私が作業の途中で勝手に入ってきても気づかないことがほとんどだし、最初からいたとしても、特に気にならないようだ。目の前で手を振ってみても、もしかしたら気づかれないかもしれない。
ここ数日、彼女はアトリエに籠りっきりだ。私がくる前から、彼女が死ぬ前からもそうだったのだろう。時々思い出したように買い物に行ったり、食事を摂るぐらいで、あと短い睡眠以外は絵と向かい合っている。私から見ても不健康なのは明らかだ。すでに死んでいるから、と割り切っている様子でもなくて、昔から絵を描くときはこのような生活を続けていたようである。
忙しなく働いている彼女とは対照的に、私は非常に時間を持て余していた。持て余していたといっても、それほど退屈だったわけではない。絵に没頭する彼女の姿を眺めるのは面白く、たいてい、私もアトリエに居座っていた。彼女が用意してくれた木椅子に座っていただけだが。しかし、絵を描く彼女の姿はずっと見てきたものの、まだ描いている絵を見せてもらったことはない。
「見てもいいか?」
と、前に一度尋ねてみた。
「死神にもこういうのが分かるの?」
彼女の中では、私はすっかり死神らしい。別に私が人を殺しているわけでもないし、そもそも、神ですらない。
「分からない。絵の良し悪しがではなくて、それが分かるかどうかが分からない」
「ふうん。悪いけど、まだ見せられないわ」
「そうか」
「残念そうな顔しないでよ。あなただから駄目なんじゃなくて、ただの私の主義だから。絵が完成するまでは誰にも見せないようにしているの」
彼女は子供をなだめるように言う。
「してない」
「ん?」
「私は残念そうな顔などしてないぞ」
彼女は軽く吹き出した。
「どっちでもいいわよ、そんなこと。ちゃんと完成したら見せてあげるから」
それからは、絵の完成がひそかに楽しみだったりする。今は絵を描く彼女を眺めながら、いったいどんな絵なのだろうか、と思いを巡らすだけだ。
徐々に日が落ち始めたのか、明かりを点けていないアトリエは薄暗くなっていく。窓から差し込む光も少なくなり、彼女と絵だけをぼうっと浮かび上がらせていた。
筆を置き、しばらく絵と睨めっこしていたが、座ったまま大きく伸びをすると、ようやく力を抜いたようだった。それから、私に視線を向ける。
「ずっと見ていたの? また?」
「ああ」
私は頷く。
「呆れた。あなたといい、絵を描いているところを見て何が楽しいんだか」
ま、別にいいけど。と言って、おぼつかない足取りで電気のスイッチまで歩き、明かりを点けた。一本に括っていた髪をほどいて、彼女のベッド代わりとなっているソファーへダイブする。ソファーが軋む音がする。
彼女は顔をうずめていたが、やがて首だけ動かして顔をこちらへ向けると、どこか定まらない目で私を見つめた。
「……私ね」
ぽつり、と彼女が話し出した。
「弟がいるんだ。まだ中学生の。両親は早いうちに死んじゃったから、私のたった一人の家族」
一旦、間が開いた。
「その子も、私が絵を描いていると、なぜかじっと私を観察するように見ててさ。描いてるときは気になんないからいいんだけど、さすがに一度は聞いてみたんだ」
彼女は懐かしむように、遠い目をした。
「そしたら、『絵を描いてるときの姉ちゃんが、一番生き生きしてる』とかなんとか言いだして、それだけの理由で何時間も眺めてたのかと呆れたわ」
なるほど、と私は思った。私がずっと彼女を見つめ続けていたのは、彼女が生き生きしてたからなのか。確かにその通りだと思った。絵を描くということに体全部を使って取り組む彼女は、とても美しかった。
「弟は正しい。君は生き生きしてる」
彼女は薄く微笑んだ。
「ありがと。……そこでいつもみたいに、もう死んでいるが、とか言わないの?」
おそらく私の真似をしたところだけ、仏頂面だった。
「君は、私をなんだと思っているのだ」
「死神。ちょっと変わったやつだけど」
「死神ではない。それに、そんな不謹慎な事、私は言ったことないぞ」
すると彼女は突然笑い出した。平野が声をあげて笑うのは初めて見た。それは悪くないことだが、どうして彼女が笑ったのか見当もつかない。
「あなた、やっぱり面白いよ。ぜんぜん死神らしくない」
だから死神ではないと言っているのだが。
「もうこの際だから話しちゃうけど。私の弟、生まれたときから結構きつい病を抱えてて、今入院してるんだよ。意識不明の重体」
笑っていた顔が、少し歪む。
「私は三年くらい前に絵を描かなくなったの。けど、それからもあの子は私の絵が見たいってうるさかったわ。私の絵を一番食い入るように見てたのはあの子だったから。
だから、私にとってこの絵は希望なんだ。これを完成させたら、弟が何事もなかったように目を覚まして、絵を見て喜んでくれる。ありえないってわかってるんだけど、そんな気がするの」
再び、ソファーに顔をうずめる。
「それが君の未練か。繰り返すが、その絵を弟が見ることはできない。それでもいいのか?」
「いいの。完成させることに意味があるんだから、きっと」
彼女はそう信じてるみたいだった。私にはその意味がよく理解できない。やはり、私に心はないのだろうか。
彼女があくびを噛み殺した。
「今日はもうこのまま寝る。なんだか疲れちゃった」
すぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。私は静かにアトリエを出る。そのまま子どもたちが遊んでいた公園へと向かった。今夜も物思いが尽きることはないだろう。なにせ、答えが出るはずもないのだから。