或る絵描きの話【2】
「明日、また来る」
彼女――平野麻美にそれだけ伝え、私はアトリエを出た。
人間には心の整理が必要なのだと私は知っている。理解しているわけではないが、仕事の経験上だ。どんなに思い悩んでも現実はたった一つだけ。それが望んだものだろうと、望まぬものだったとしても、黙って受け入れるしかない。しかし、多くの人間はそうそのようには考えないらしい。中にはリアリストなるものも存在するそうだが。
とにかく人は、辛いことやや悲しいことがあると、とにかく悩む。そのまま悩み続けて命を絶つような人間までいる。そこまではいかずとも、立ち直るのに長い時間を要する場合がほとんどだ。正直無駄だと思うし、そんな人間を弱いとも思う。
ずいぶん昔に担当した女性に、このことを話してみたことがある。
「そりゃあ、心があるからよ。だから人は、つまらないことで落ち込んだり、悲しみに耐えきれなくてふさぎ込んだりもする。でも、いつかは苦しみを乗り越えて、喜び、また苦しみ、そして生きていく。それが人間ってものなの。心がない人間なんて、機械となんら変わりないわ」
私にはよく分からなかった。しかし、
「私には、心はあるのだろうか?」
と聞いてみると、彼女は笑った。
「あったほうがいいの?」
「わからない。でも、機械はあまり好きじゃない」
「なら、あるわよ。きっと」
私に心があるのかないのか、あってほしいのかほしくないのか、まだ確信できていない。しかし、名前も忘れてしまった彼女との会話は、すっかり私の一部になっている。そしてこの頃から、私の仕事にも変化が出てきたのは確かだった。
私は公園のベンチに腰を下ろしてぼんやりしていた。当然だが、何かすることがあるわけでもなかった。
広くはない公園には、申し訳程度に滑り台と砂場だけがあるだけだったが、そこでは子どもたちが楽しそうに遊んでいる。何度も何度も滑り台を上っては無邪気な笑い声をあげ、砂場では、芸術家のように真剣な表情で城を作っている子どももいた。どの子どもも生き生きしていた。
やがて、ぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。空を見上げると、いつの間にか、どんよりとした重い雲がひしめいている。まもなく、耳にシェルターがかかっていると思わせるほどの音を立てて、勢いを増した雨が街中に降り注いだ。子どもたちは蜘蛛の巣を散らすように、わっと駆け出していく。
私は動かなかった。ただベンチに座ったまま、誰もいなくなった公園の様子を眺めていた。完成しかけていた砂の城は、すでに跡かたもなくなっていた。雨は止むことなく延々と振り続けていた。しかし、いつかは必ず終わりがくるのだろう。そして、太陽が顔を出すのだ。
次の日、彼女に会うため再びアトリエへ向かった。あちこちに水たまりができているが、雨はもう、やんでいた。
「それで」
私が何か言う前に、彼女が先に口を開いた。
「それで、私はどうしたらいいの?」
「簡単だ。自分が死んだことを理解した者が自ら望めば、君も、世界も消える」
彼女は、しばらくうつむいていた。それから私を見上げる。悪いことをして母親に謝りながらも、必死で言い訳をする子供のような顔だった。
「まだ、できないのだろう?」
私が言うと、今度は一転、隠し事がばれたような顔になる。
「どうしてわかったの?」
「死んだ後も自分の世界で生き続ける人間は、何かと未練があるものが多いんだ。でも、ここは現実じゃない。ここで何かを為し得たとしても、所詮、自己満足にすぎない。それでもやらなければいけないのか?」
「確かに自己満足かもしれない。けど、どうしても今描いている絵を完成させたいの」
「昨日言った通り、この状況は好ましいことじゃないんだ。マニュアルでは、本人が拒んだ場合は無理やり世界を消すように指示されている」
これも、歪みが大きくなるためいい方法ではないのだが。中にはそうしなければならない人間もいるということだ。
「お願い」
彼女の決意に揺らぎはないようだ。そういう目をしていた。
「あまり、長くは待てないぞ」
ため息を一つ。
「おかげで、私の成績はいまひとつなんだ」
こんなだから、周りに「甘い」と評されるようになったのだろう。