或る絵描きの話【1】
まったく、人間には未練が多すぎる。人生は諦めが肝心だと聞いたことがあるが、その言葉をぜひ死んだ後にも実行してほしい。
目的の場所へ向かいながら、頭の中で愚痴る。まあ、仕方がない。これが私の仕事だ。
午後二時過ぎの人通りが多い交差点を抜け、少し歩くと、今回の対象である平野麻美が寝泊まりしているという建物を見つけた。ここは彼女の家ではない。はじめは平野が借りているマンションを訪れたのだが、近所の者に尋ねてみると、どうやら彼女はここ最近帰ってきていないらしい。詳しく訊くと、今私の目の前にある大窓の付いた建物に籠りっきりということだった。
教えてくれた中年の女性は、「あんたが誰かは知らないけど、彼女に会うのはよしておいた方がいい。今、大変らしいから」となぜか声を潜めて忠告してきたが、こちらも仕事なのでそういうわけにはいかない。
ここで何をしているのだろうか、とぼんやり考えながら無断でドアを開けると、そこはアトリエらしかった。私にはどの用途に使うのかもわからない工具みたいなものや、紙くずや、木材などでごった返している。向こう側にも大きな窓が備え付けられていて、太陽の光を十分に部屋の中に注ぎ込ませていた。平野麻美はその陽だまりの中で、絵を描いていた。
彼女は描くのに夢中になっていて、堂々とアトリエに足を踏み入れた私にも気づいた様子がない。私も自分から声をかけるでもなく、彼女の様子を眺めていたが、やがて筆を置いて大きく伸びをすると、ようやく私に気づいた。予想外のことに、目をぱちぱちさせている。
「ごめんなさい。呼び鈴鳴らしたのに気付かなかったかしら」
確かに、仮に鳴らしていたとしても、気づかなくてもおかしくないくらい集中していたようには見えた。
「いや、鳴らしてない。勝手に上がらせてもらった」
「ああ、そう。よかった。……いや、それはそれでよくないと思うけど」
平野麻美は訝しげな視線で私を見る。「で、何か用?」
彼女は作業の邪魔にならないように、ぼさぼさの長い髪を後ろで括っている。目はぱっちりとして気の強さを感じさせ、年はまだ二十歳かそこらだろうと推測できる。つなぎには絵の具が飛び散って汚れていた。
私は無言で彼女に近づく。絵の具特有の鼻をつくにおいが強くなり、彼女も、何日も風呂に入っていないのか、ひどく不衛生に見える。
私はもったいつけるわけでもなく、いつも通り淡々と事実を告げることにした。
「君はもう死んでいるんだ。昨日のうちに、通り魔に刺されて」
たいていの人間が同じ反応をするので心外なのだが、彼女も「こいつ何馬鹿なことを言っているんだ?」とでもいいたげな表情だ。
「だから、早くこの世界を終わらせてほしい」
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「はあ?」
案の定、彼女はぽかんと口を開けて、私を見上げる。私が同じことを告げた人間の反応の六割が、彼女が言った「はあ?」で、三割が「頭、大丈夫?」で、残りの一割は無視だ。
「頭、大丈夫?」
おお、と思わず声を漏らした。「はあ?」の続けざまに「頭、大丈夫?」と言うのは、六割の中の二割ほどである。最近では、人間の行動パターンを観察するのが私のマイブームだ。私は、「ああ、いたって正気だ」と答える。どうせ、信じてもらえないだろうが。
「私には時間がないの。悪いけど、あなたに構っている暇はないから、何かの勧誘なら他をあたってくれない?」
時間ならすでになくなっている。タイムオーバー。これは、勝ち目のない延長戦だ。
「勧誘じゃない。事実だ」
「証拠はあるの?」
やはり訊いてきた。人間は証拠が大好きだ。
「ある」私は言う。
「じゃあ見せてよ」
彼女には本気にしている様子はなく、ただ適当にあしらっているだけのようだ。
私は右手を伸ばして彼女の頭に触れる。彼女はびっくりしたが、咄嗟のことだったので避けたりはしなかった。私は彼女に、彼女が昨日死んでしまった記憶を思い出させる。教えるのではなく、思い出させるなので、それは実際の経験として現れる。中には一瞬で死んだり、わけが分からず死んだ者もいるかもしれないが、その時はその時だ。
「どうだ? 思い出したか?」
これで完了、と手を頭からどける。なぜこんなことができるのかと聞かれても、私が人間ではなく、これが仕事だからだとしか答えようがない。逆に、これくらいしか私にできることはない。
彼女の額には汗がにじんでいて、顔も青褪めている。苦しい死に方だったのだろうか。そういえば、彼女は通り魔にナイフで刺されて死んだのだ。以前担当した人間から聞いたことがあるのだが、刺さったところによっては、相当苦しいと言っていた。ナイフで刺されても、拳銃で撃たれても死なない私にはいまいち理解できないが。
「これ……本当? 私死んでるの?」
「ああ」
「でも、ここにいるじゃない。それに周りの人間にも私は見えてるし、触れるし、足だってちゃんとあるよ」
「たしかに、君は物に触ることもできるし、食事もできる。足だってある。それは、ここが君が生きてきた世界とは別の世界だからだ。君のための世界と言ってもいい」
彼女は、私の説明を、ほんのわずかさえも理解していないようだった。
「いったいどういうことか、詳しく教えて。あなたのこと信じたわけじゃないけど、聞くだけ聞いてあげるから。それに、私の経験として、刺されたことを理解しているのも本当だし」
「いいだろう」
今回の仕事はだいぶ楽になりそうだ。死んだ時の記憶を思い出しても、それほど取り乱していない。
「君は昨日、間違いなく死んでいる。現実では、肉体はとっくに解剖なり火葬なりされているかもしれない。つまり、今の君は肉体とは異なる別の部分――つまるところ、魂のようなものだ。ここまではわかったか?」
「なんとなくだけど」
「夢を見ているようなものだと思ってくれ。死んだことなど忘れてしまって、今までと何一つ変わらない日常を送り続ける夢。こう言ったらおかしいかもしれないが、君は、夢で現実を見ているんだ。それだけなら問題ないのだが、この状態が続くと、君の魂にも負荷がかかるし、世界に悪影響を及ぼしかねないらしい」
「らしい、って。そんな中途半端な」彼女は苦いものを食べたような顔をする。
「詳しいことは知らない。私の管轄外だ」
「やっぱり、嘘みたいな話だわ。信じるには、ちょっと根拠が足りないんじゃないかしら」
……やれやれ。やはり、これをするしかないか。
私は何も言わず、そこらに転がっていた刃物を右手で拾って、大きく振り上げた。刃先は――私の方に向ける。
「え……ちょっと! 何する気!?」
彼女も私のやろうとしていることに気が付き、慌てふためく。私はためらうことなく、そのまま刃を、人間だったら心臓がある位置へ深く突き立てた。瞬間、彼女は、無意識に目を閉じる。できれば、しっかりと目に焼き付けてほしかった。あとで、手品とかいうものだといわれても困る。
「目を開けろ。この程度では死なない」痛くも痒くもない。
彼女はおそるおそると言ったふうに目を開けると、まず驚き、それから
「……シュールね」
と口にした。
意図したとおり、刃は私の左胸に限界まで深く突き刺さっており、柄の部分だけが視認できる。だが、一滴たりとも血は流れておらず、当の私も苦痛に顔をゆがめることもなく、いたって無感情な顔をしているので不自然極まりないのだろう。
「私が死んだとかの前に、いったいあなたは何者なの。死神?」
死神か。そういえば、人間のイメージする死神というのはなぜみんな大きな鎌をもっているのだろうか。だいたいが骸骨みたいな顔だし、あれでは人を怖がらせるだけだと思う。
「何をする者のことを指して死神というのかはわからないが、君たちの方からしたらそれほど違いはないかもしれないな」
私は刺さったままの刃物を右手を使って抜いた。もちろん、血が噴き出てくるようなことはない。人間の見た目をしているが、人間ではないのだから。しかし、これ以外の姿が取れないのはなぜだろうか。
「これで、信じたか?」
「ええ。信じられないけど、信じるわ。さっきは心臓が止まるかと思った」
「もう止まってるじゃないか」
彼女は弱々しい口調で、言った。
「それ、さすがに笑えないわ」