八
瞼を開くと、エクレナはあまりの明るさに眼が眩みそうになった。陽の光が包み込む世界、これが朝なのだと実感した。
「おはよう」
ハーヴェイがまだ眠たそうに横になったままエクレナに挨拶をした。
「おはよう。今日もちゃんとあなたが見えるわ」
エクレナは微笑した。
結局明け方まで起きていたので、幾らも寝ていなかった。しかし、エクレナは眼を開けていることに今日ほど幸せを感じたことはなかった。
「随分陽が高いようだけど、今何時だろう」
ハーヴェイが起き上がって伸びをした。エクレナははっとした。そう言えばいつものような鳥の囀りが聞こえない。急いで着替えて洗面所に向かった。
ドアを開けると、洗面台の前には最後に鏡を見てから十四年後のエクレナがいた。
「……お帰りなさい、エクレナ」
鏡に向かって呟いた。
笑ってみた。眉をしかめてみた。まじまじと見つめてみた。
十四年経ってもやはり地味な顔は地味なままだった。予想はしていたが、少しだけ落胆し、やはり化粧道具を揃えたくなった。
「おはようございます! 遅くなりました」
エクレナは急いで居間の扉を開いた。居間にしかない柱時計の針は、すでに十時を回っていた。
「おはよう! 母様」
「母様、遅〜い」
アルヴィンとミュリエルがエクレナに飛び付いた。
「ごめんね。母様寝坊してしまったの」
エクレナが苦笑して二人の頭を撫でると、二人は母を見上げて呟いた。
「……母様のおめめ、違う」
「うん。違う」
エクレナも我が子の顔をじっくりと見つめ返した後、微笑んだ。
「そう、母様はもう、あなたたちのことがしっかりと見えるのよ。だから、いたずらをしたらすぐに分かるからね」
親子三人は笑い合った。
「おはよう、エクレナ。ハーヴェイはまだ寝ているのかい?」
シーナが台所から出てきた。
「いえ、起きてますので、もうすぐ来ると思います。起きるのが遅くなりまして申し訳ありませんでした。あの、この子たちの朝食は……」
「僕たち、もう食べちゃったよ」
「母様たちは遅いから、お祖母様が先に食べなさいって」
……やってしまった。エクレナは天を仰いだ。こんなに朝寝坊したのは、嫁いでから初めての事だった。
「昨夜は色々あったから眠れなかったんだろう? 食事の用意はもうできているから、座りなさい」
「申し訳ないです……」
「構わないよ。それより、本当に見えるようになったんだね」
シーナは感慨深げにエクレナの瞳を見つめた。
「はい。ハーヴェイのお陰です」
二人は微笑んだ。
「おはよう」
ハーヴェイも居間に入ってきた。
「あっ……」
子供たちは緊張して固くなった。昨夜抱き合ったとはいえ、まだハーヴェイを見るのは二度目なのだ。
「……アルヴィン、ミュリエル」
ハーヴェイは遠巻きに自分を見つめる子供たちを手招きして呼んだ。
「父様におはようは言ってくれないのかい?」
まだ慣れないので、二人はもじもじしている。しかし、眉目秀麗なハーヴェイに見つめられると子供であっても参るものを感じた。意を決し、ミュリエルが先に口を開いた。
「父様、おはよう……」
はにかみながら挨拶すると、ハーヴェイは両手を伸ばしミュリエルを抱き上げた。
「おはよう、ミュリエル。いい子だ」
ハーヴェイは自分の頭上までミュリエルを掲げ、くるくると回った。初めてこんなに高く抱き上げられたミュリエルは、きゃっきゃと、はしゃぎ声を上げて歓んだ。
「いいな、僕も僕も〜!」
アルヴィンがハーヴェイの足許で羨ましさを口にした。
「それじゃアルヴィン、ちゃんと挨拶してごらん」
ハーヴェイはミュリエルを降ろすと、アルヴィンの方を向いた。
「おはよう、父様!」
「おはよう。じゃあ、おいで」
ハーヴェイが破顔して両手を伸ばすと、アルヴィンが飛び込んだ。高く抱き上げて回ると、アルヴィンも嬉しそうに声を出して笑った。
「ハーヴェイ、そのくらいにして食事は早く済ませなさい」
シーナが窘めると、ハーヴェイは子供たちにまた後でと頭を撫でて、食卓に着いた。アルヴィンとミュリエルは興奮を分かち合った。
「母さん、エクレナ。今日は店は休みにして、皆で出掛けよう」
ハーヴェイはナイフでチーズを切りながら提案した。
「そんなこと言って、お前たち寝不足なんだろう。今日一日ゆっくりしていた方がいいんじゃないのかい」
「大丈夫だよ。久しぶりに家族が揃ったんだし、天気もいいから出掛けない手はないよ。エクレナは外を見たいだろうし、子供たちだってまだ遠出したことないんだろう?」
ハーヴェイはチーズをパンに載せると、最後はエクレナに尋ねた。
「ええ」
エクレナが答える。
「じゃあ決まりだ。アルヴィン、ミュリエル。今日はみんなでお出掛けしよう」
「お出掛け?」
「遊べるの?」
「そうだよ。もう父様はずっと家にいるし、母様の眼も見えるから、これからはたくさん外で遊べるよ」
「やったあ!」
はしゃぎ出す子供たちを見て、エクレナは眼を細めた。心から幸福に思い、安堵した。
今朝目覚めたら、晩に起きた出来事は全て夢だったらどうしようと、不安が消えなかった。だから眼を閉じるのが嫌で、明け方までハーヴェイを付き合わせてしまった。疲れていたろうに、そこまで考えが回らなかった。ごめんなさい、ハーヴェイ。そして本当にありがとう。
エクレナは心の中で謝意を表した。
*
一家はエクレナの眼が見えるようになったことを、彼女の両親に知らせに行くことにした。
ハーヴェイは工房から椅子を二つとロープを持ってくると、馬に魔法をかけた。すると四人は優に座れる馬車に変身した。子供たちははしゃぎながら馬車に乗り込み、流れゆく景色を物珍しそうに眺めた。エクレナもまた、飽きることなく景観をその眼に焼き付けた。
ライザの町に着くと、十数年振りの光景にエクレナの視界は懐かしさと新鮮さが同居した。その空気をも取り込もうと、エクレナは無意識に深呼吸した。
「母様、あそこ人がいっぱいいる」
ミュリエルは左手でエクレナのスカートの裾を掴み、右手で市場の方を指差した。
「行きたい!」
アルヴィンは懇願したが、ハーヴェイが穏やかに制した。
「まずは親戚のみんなに母様のお披露目をしてからだよ。後で寄るから、少し我慢だ」
子供たちは後ろ髪引かれる思いだったが、後で寄ると言われたので素直に従った。
エクレナの実家に着くと、迎えた母親は腰を抜かさんばかりに驚いた。エクレナは結婚式の時のように号泣するのではないかと思っていたのだが、すぐに市場で働く父親に知らせに走り、飛んできた父親の方が泣き崩れた。
彼らはエクレナのためにハーヴェイが尽力した話を聞き、今日ほどハーヴェイとの結婚を歓んだことはなかった。
「こんなめでたい日に仕事なんかしていられるか! すぐに宴会だ!」
号泣していた父親は涙を拭くと、エクレナの弟妹たち家族も呼び寄せて昼間から祝宴を開いた。
普段は飲まないエクレナやシーナも、この日ばかりは少々酒を嗜んだ。子供たちは思いがけないご馳走に舌鼓を打った。
両親は今晩泊まっていけばいいと勧めたが、明日は店を開けなくてはならないし、子供たちに市場を見せる約束だからとエクレナは勧めを断り、夕方で帰ることにした。
帰る頃には父親は泥酔して周りにくだを巻き、まともに会話ができる状態ではなかったが、母親は戸口でそっとエクレナを抱き締めた。
「エクレナ、本当にハーヴェイと出会えてよかったね」
母親は涙腺が緩んでいた。
「……はい」
エクレナは幸せを噛み締めた。
エクレナが家を出ると、先に表に出ていた四人は少し離れたところで待っていた。子供たちのために見晴らしのよい場所に移動したようだった。
追い付くためにエクレナが走り出すと、気付いた子供たちは追い付かれないよう面白がって駆け出した。
「危ないからあんまり走っては駄目よ」
エクレナは子供たちに注意した。
「さっきからずっと、うずうずしていたから、彼らには回避の魔法をかけておいた。だからちょっとくらい走り回っても心配ないよ」
ハーヴェイが笑った。
ぶつかりそうになったら、兵隊のような動きになるあれか……と、エクレナは過去の自分を思い出した。兵隊の動きはハーヴェイの悪ふざけなのだが、エクレナには常にその状態でかけられていたので、それが当たり前の魔法なのだと思っていた。
「さて、何か食料でも買って帰ろうかね」
市場に入ると、シーナは野菜や果物が並ぶ店で立ち止まった。エクレナも一緒に店を覗いていると、ハーヴェイが前方でエクレナの名を呼んだ。
「どうしたの?」
エクレナが人混みをかき分けハーヴェイに近づくと、彼はアクセサリーの並ぶ店の店主に捕まっていた。
「これ、きっとエクレナに似合うよ」
ハーヴェイは花を型どった可愛らしいネックレスを両手で持ち上げると、エクレナに見せた。
「いい品ですよ。ええ、きっとお似合いですわ」
小太りの女店主は、にこにこしながらエクレナを見ている。
「ちょっと合わせてみなよ」
「でも……」
エクレナはお洒落を意識する頃に眼が見えなくなったので、アクセサリーなど着けたことがなかった。
「さあ、遠慮せずに。どうぞ、どうぞ」
躊躇うエクレナを店主は半ば強引に引き入れて鏡の前に立たせると、ハーヴェイが後ろからネックレスを首に回した。
「ほら」
エクレナは初めてネックレスを着けた自分を見て、頬を紅潮させた。
「よくお似合いですよ。でもそれは小振りでちょっと地味だから、こっちなんかどうかしら」
店主は手元の引き出しから大振りの石がじゃらじゃらと付いた派手なネックレスを取り出すと、二人の前に差し出した。
エクレナはぎょっとした。とても似合いそうにない。
「ありがとう。でも折角ですが、妻にはこちらの方が似合うと思いますから」
ハーヴェイは穏便に勧めを断った。
ほっとしたエクレナは改めて鏡を見ながらネックレスに触れたみた。小さな石は傾きかけた陽の光を反射して、きらきらとして綺麗だった。エクレナは小さく感嘆の溜め息を洩らした。
「これ下さい」
エクレナの表情を見てハーヴェイが店主に伝えた。
「ありがとうございます」
「待って! 駄目よ、無駄遣いは」
エクレナは慌ててネックレスを外そうとした。しかし、慣れていないので首の後ろの小さな金具を外すのはなかなか上手くいかなかった。
「そのまま着けて帰ればいいよ」
ハーヴェイはくすくすと笑うと、店主に代金を渡した。
「今後もご贔屓に」
ハーヴェイはもたつくエクレナの手を引いて店を出た。
「ハーヴェイ」
「無駄遣いじゃないよ。せっかく眼が見えるようになったんだから、お祝いだ」
「……」
「気に入らなかった?」
エクレナはぶんぶんと首を横に振った。無駄遣いは駄目とは言ったが、欲しくないとは言えなかった。
「……ありがとう。嬉しい」
エクレナはハーヴェイの優しさに打たれ、下を向いた。
「そうそう。素直が一番」
ハーヴェイは子供にするようにエクレナの頭を撫でた。
「父様ー! 母様ー!」
向かいからアルヴィンとミュリエルが走って来た。
「すごいの! 兄様が空を飛んだの!」
ミュリエルが興奮しながら報告した。
「え?」
エクレナは意味が分からなかった。
「転びそうになったのに、転ばなかったんだ!」
「兄様が飛んで、元に戻ったの!」
子供の説明は言葉足らずだったが、要は走っていて躓いたのに、地面に手を着く前に身体が浮いて、体勢が元に戻ったらしい。
「アルヴィン、それは父様がね……」
エクレナが真相を話そうとすると、ハーヴェイが割り込んだ。
「すごいぞ、アルヴィン! さすがは父様の子だ。大魔法使いの素質がある!」
「やったあ!」
褒められてアルヴィンは歓んだ。ミュリエルも一緒になって歓んでいる。
エクレナは溜め息を吐くと、無邪気に笑い合う親子を仕様のないという優しい眼差しで眺めて言及は避けた。
*
一日はしゃぎ回ったせいか夕食の途中で子供たちは、うとうとし始めたので、見兼ねたエクレナが寝室に連れていった。
ハーヴェイは食事を終えると、伸びをしながら居間のソファに腰掛け、大きな欠伸をした。
「お前たちも今日こそは早く休みなさいよ」
シーナが窘めるように言った。
「うん。——ねえ母さん、僕はいくつの時から魔法を使えた?」
ハーヴェイはソファの背もたれに肘を掛け、シーナの方を向いた。
「ええ? いくつだったかねえ。……確かあの人が昇進した時だから、六つの時には洗濯物を飛ばして遊んでいたね」
シーナは懐かしそうに遠い眼をした。
「そうか、六つか。アルヴィンは筋がいいかもしれない」
「何かあったのかい?」
「人混みで転ばないようにかけておいた回避の魔法、効果が少し変わっていたんだ。空を飛んだって帰りに騒いでいた、あれ。満更誇張された話じゃないかもしれない」
「回避の魔法なら確かに、転びそうになる前に転ばないよう作用するはずだね……」
ハーヴェイは背もたれに掛けた方の腕で頬杖をつくと、にやりとした。
「明日から色々教えるとするかな。磨けば光る原石は大切にしないと」
「誰かさんみたいに禁忌の魔法に手を出さなきゃいいけど」
シーナがぴしゃりと言い放つと、ハーヴェイは痛いところを突かれたという顔をした。




