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訪れ  作者: 夜音森 想
7/9

 エクレナが真実を知ってひと月ほど経った頃、酷く風の強い晩が訪れた。

 風は山の樹木をうねり、鳴かせ、家の窓はガタガタと揺れ、隙間からヒューヒューと奇妙な声を出した。

 雨は降っていないようだけど、これから荒れて嵐になるのかしら……。エクレナはなんだか胸がざわめいた。


「母様、すごい音がする……」

「お家が揺れてるの」

 子供たちは不安げにエクレナの足許にしがみついた。

「大丈夫よ。怖いのなら母様がご本を読んであげる」

 エクレナは二人の頭を撫でた。

「それじゃ、今日は早目に休むといいよ」

 シーナが居間で三人を見送った。

「そうします。ほら、お 祖母様(ばあさま)におやすみなさいは?」

「おやすみなさい」

「お祖母様、おやすみなさい」

「はい、おやすみ」


 寝室に入り、子供たちを着替えさせた後、本を選ばせる。ここにある本は全てシーナが魔法をかけて、指でなぞればエクレナにも文字が分かるようになっていた。

「母様、これ」

 アルヴィンが本を差し出す。受け取ったエクレナは子供たちをベッドに促した。

 二人はいそいそとベッドに入り、横になった。動きが収まるとエクレナは子供たちの襟元のカバーを正した。


「ガタガタ怖〜い」

「ヒューヒュー怖〜い」

 そう言いつつも子供たちは、いつもと違う夜に段々わくわくしている風でもあった。

 エクレナは二人の頭を撫でた後、椅子に座った。ページを開いて指でなぞる。もう何度も読んでいるので、最初が分かれば、何の話か大体暗記できている。

「昔々、あるところに……」

 ゆっくりと読み始めると、子供たちは風の音は気にならなくなったようだ。



 読み終える前に寝息が二つ聞こえてきた。

 エクレナは静かに本を棚に戻すと、部屋を出た。まだ眠れそうにないので居間に戻って子供たちの繕い物をすることにした。母となったエクレナは、余程複雑なものでない限り料理も裁縫も魔法の力を借りずとも、こなせるようになっていた。


 居間に入ると、シーナも寝室に行ってしまったようで風の音以外はしんとしていた。

 裁縫箱を取り出したその時、外で何か音がしたような気がした。耳を澄ましたが、聞こえるのは強い風の音だけだった。


 気のせいかとソファに腰掛けると、今度はしっかりと音を捉えた。ドアをノックする音だった。

 エクレナは、はっとしてドアの方を向いた。するとまた音が聞こえた。気のせいではなかった。エクレナは胸騒ぎが再び沸き起こるのを感じた。

 立ち上がり、引き寄せられるように小走りで戸口に向かうと、ドアの向こうから風に紛れて声が聞こえた。

「……ナ」


 間違いない。


 エクレナは急いでドアを開けた。

 その瞬間、強風が入り込み、エクレナは風圧で倒れそうになった。

「大丈夫かい?」

 ふわりと身体が浮くような感覚に陥った。声の主に咄嗟に抱きかかえられたのだった。


 エクレナは問いに返事をしなかった。いやできなかったのだ。声の主は左腕でエクレナを支えたまま右手でドアを閉めると、溜め息を一つ吐いた。

「今夜は酷い風だね。うちはもう古いから、風が止んだら建て付けを点検した方がいいかもしれないな」

 そう言って強風でくしゃくしゃになったエクレナの髪を、空いている右手で整えた。覚えのある香りがした。

「ハ……」

 エクレナは震えて上手く声が出せずにいた。代わりに涙が溢れてきた。

「長い間待たせて済まなかったね。ただいま、エクレナ」

 そう言って微笑した彼は、エクレナの涙がこぼれる前に人差し指で優しく拭った。

「ハーヴェイ……お帰りなさい……!」

 やっと声が出せたエクレナは、懐かしい声の主に思い切り抱きついた。



「風が凄いから一晩明かしてからにしようかとも思ったんだけど、やっぱり早く帰りたくて」

 居間に移動して床に荷物を置いたが、エクレナはぐすぐすと泣いたままハーヴェイにしっかりとしがみついて、離れなかった。

「困ったな。そんなに泣くなんて」

 ハーヴェイは苦笑しながらエクレナの頭を撫でた。

「とりあえず、ソファに座ろうか」

 ハーヴェイはエクレナの腰に手を回し、二人同時に腰掛けた。


「ほら、いつまでも俯いて泣いていないで、顔を見せておくれ」

 ハーヴェイが短い呪文を唱えると、鞄が開き中からハンカチーフが飛び出して宙を舞い彼の手に収まった。そして丁寧にエクレナの涙を拭いた。すると魔法のせいなのか、ぴたりと涙と嗚咽が治まった。

「……泣いたから、きっと酷い顔をしているわ」

 エクレナは躊躇って下を向いたが、ハーヴェイがそれを阻止した。

「酷くなんかないよ。四年も愛する妻に会えなかったんだ。よく見せて」

 ハーヴェイはエクレナの顎に手を添えて、上に向けた。

 ああ、私も愛する夫の顔が見れたなら、どんなにいいだろう……。エクレナがそう思うと同時に唇を塞がれた。


 お互いを感じあった後、ハーヴェイは小さく、しかし、力強く、

「大丈夫、見えるよ」

 と呟いた。

「え?」

 エクレナは一瞬、魔法で心が読まれたのかと思ったが、ハーヴェイが家を留守にした本当の理由を思い出した。

「今から君の視力を元に戻す」

 瞳に強い意志を宿らせ、ハーヴェイはエクレナの肩を掴んだ。


「エクレナは普段暗闇ではなく、ぼんやりと明暗を感じられるんだよね。でもやっぱり夜の方がいい。いきなり強い光は眼によくない。暗い内に戻して、慣らそう」

 そうは言われてもエクレナは信じられなかった。本当に見えるようになるのだろうか。


 硬い表情のエクレナを見てハーヴェイは言った。

「あ、信じていないね? 何故こんなに長い間帰って来れなかったと思っているのさ。研究に次ぐ研究を重ねたのと、何と言っても実験をする機会が訪れなかったからさ。失明した人はそう多くなくてね。でも確実に成功させなきゃ意味がない。それに——」

 肩を掴む力が緩んだ。

「僕を誰だと思っているのさ。ハーヴェイ=ラドウィックと言えばもう、海の向こうじゃ有名人だよ」

 ハーヴェイはいたずらっぽく微笑んだ。エクレナもハーヴェイと再会してから初めて笑った。


「やっと笑ってくれたね。その笑顔が見たかったんだ」

 優しい言葉にエクレナは再び涙が出そうになったが、懸命に堪えた。

 ハーヴェイは心変わりしなかった。私が一度猜疑心に囚われた時も、彼は熱心に研究をしていたのかと思うと、申し訳なくて胸が潰れそうになる。

 ごめんなさい、ハーヴェイ。万が一、魔法が失敗して見えないままだとしても、もう何処にも行かずにずっとそばにいてくれさえすれば、私はこの先永遠に見えなくとも構わない。


 でも、そんなことを言ったらハーヴェイは悲しむに違いないと、エクレナは心の中で言うに止めた。

「それじゃ準備があるから、工房に移ろう」

 工房に入ると、ハーヴェイはエクレナを椅子に座らせた。

 広い空間を作るためにその他のテーブルと椅子は移動させ、持ってきた鞄からたくさんの小瓶や袋を取り出し、ひとつひとつテーブルに並べた。


「海の向こうのベルデヒッツでは魔法が盛んでね、ここにはない材料が色々とあるんだ」

 ハーヴェイは火を熾して湯を沸かし、材料を次々に投入した。グツグツと煮えていく音が部屋に響く。

「ハーヴェイ、私はあなたの向こうでの暮らしを何も知らない。聞きたいことがたくさんあるの。こちらの生活だってハーヴェイが旅立ってから——」

「まあ、待って。まずは君への魔法をかけてからだよ」


 今度は手帳を片手に床に魔法陣を描き始めた。ちょうど両腕を広げたくらいの大きさの円だった。

「よし、準備完了だ。始めよう」

「ねえ、その魔法は危険だったりしないの?」

「さっき言ったじゃないか。大丈夫だよ」

「私がじゃなくて、ハーヴェイがまた呪われたりとか……」

「これは禁忌の魔法じゃないよ」

 ハーヴェイは苦笑した。

「それならよかった」

「じゃあ、こっちに来て」

 ハーヴェイがエクレナの手を引いて魔法陣の中心に位置させた。


「ここで膝を着いて、両手も前で床に着けて伏せるようにして。衝撃が来ても大丈夫なように、しっかり脚も広げてから眼を閉じて」

「衝撃!?」

「そう、爆風が起きる。まあ部屋の中でできる魔法だから、大したことはないけれど」

 伏せる必要があるというのに、本当に大したことないのだろうか……。

 不安は残るが、ハーヴェイを信じるしかない。エクレナは深呼吸をしてから座り込み、言われた通りに伏せると眼を閉じた。


「いいかい? 指示をするまで眼は開けないように。それじゃ、そのまま動かないで」

 ハーヴェイは呪文を唱え始めた。

 長い長い呪文だった。いつも家でお茶を入れたり、薬を作ったりする時の呪文とは比べ物にならなかった。それだけ大変な魔法なのだろう。エクレナは息を殺してじっと待った。


 ハーヴェイは呪文の最後の言葉と同時に、作った薬液を魔法陣に向かって放り投げた。すると薬液は魔法陣の外周から円錐形に蒸発しながら、大きな音を立てて爆発した。

 魔法陣の中でのみ爆風が起こり、エクレナの身体を大きく揺さぶった。


 だが、一瞬だったので倒れることなく済んだ。音こそ大きかったが、爆発自体は小さいものだったので家具や戸棚の瓶など、室内のものに影響はなかった。

「灯りを暗くするから、まだ眼は開けないで」

 ハーヴェイがランプの炎を吹き消した。途端に辺りは闇に包まれたが、数十秒で眼が慣れた。窓からは月の光が射し込み部屋を照らしているので、物を判別することは容易にできる。いつの間にか外の風は和らいでいた。


 ハーヴェイはエクレナのそばに行き、片膝を着いた。

「ゆっくりと眼を開けてごらん」

 エクレナは四つ這いの体勢のまま、固く閉じていた瞼の拘束をゆっくりと解いた。

「……」


 暗闇が広がっていた。


 ——何も見えない。

 エクレナは鼓動が激しくなるのを感じた。魔法は失敗してしまった。ハーヴェイを以てしても無理だった——。


 エクレナは動悸に囚われ、見えないと口にすることができなかった。無言のまま暫く同じ場所を見つめていると、何かが動いた気がした。エクレナは驚いて眼を凝らした。


 ハーヴェイの足だった。時間とともにに輪郭がはっきりとしてきた。

「!」

 エクレナは顔を上げた。すると眼前には薄暗くともよく分かる、顔立ちの整った美しい男性が微笑し、優しい眼差しでエクレナを見下ろしていた。

「!」

 エクレナはまた言葉が出せなかった。どうしていいのか分からず、うろたえ涙ぐんだ。

「大丈夫だよ、エクレナ」

 ハーヴェイは手を伸ばし、震えるエクレナを抱き寄せた。

 懐かしい香りと温もりに、エクレナは思考が働き始めた。この人がハーヴェイ、愛する我が夫なのだと。


 ハーヴェイに背中を擦ってもらい、エクレナは徐々に落ち着きを取り戻した。ハーヴェイの肩越しに部屋の中が見えると、エクレナは改めて眼が見える事実を認識した。

 ——今、私の眼は確かに世界を映している。本当に視力が戻る日が来るなんて。

 今度は違う涙がエクレナの瞳を覆い始めた。



 その時静寂を破り、いきなりドアが開いた。

 ハーヴェイとエクレナが驚いてドアの方を見ると、ランプを手にしたシーナが立っていた。

「眠っていたのに大きな音がしたから、何かと思って来てみたら……」

 シーナはハーヴェイの姿を見て、驚倒した。


「起こして済まなかったね、母さん。今、エクレナに魔法をかけていたんだ」

 ハーヴェイは涼しい顔でそう言うと、エクレナを抱いたまま立ち上がった。

「お前、何年も留守にしておいて、夜中に挨拶もなしに帰宅かい!」

 咎めるように言いながらもシーナは久々に息子を見て、泣き出しそうだった。


「夜の内の方が、エクレナの眼にはいいと思ったから」

 そう言ってハーヴェイはエクレナの身体を半転させ、シーナの正面に向けた。

 シーナは、はっとした。そうだった、息子が帰る理由はひとつしかなかった。


「お義母様が……見えます」

 エクレナは長年よくしてくれた義母の姿を初めて眼にして、涙がこぼれた。

「エクレナ……本当なのかい?」

 シーナはランプをそばの棚に置き、微かに震えながらエクレナに近づいた。見ると確かにエクレナの瞳は、以前と違って強い輝きを放っていた。


「お義母様……!」

 エクレナはシーナに抱きついた。シーナもエクレナを受け止めると、涙が溢れてきた。

「ああ、エクレナ、よかった……。よかったね」

 シーナがエクレナの髪を撫でたその時、背後から小さな声がした。

「……母様?」

「お祖母様……?」

 アルヴィンとミュリエルがドアの向こうから、恐る恐るこちらを覗いていた。シーナと同じく起きてしまっていたようだ。


 二人の姿を見たエクレナは思わず大きな声を出した。

「ああ、アルヴィン、ミュリエル……! 母様はあなたたちが見えるわ!」

「本当!?」

 二人は勢いよく工房の中へ入ってくる。シーナはエクレナを子供たちの方へと促すと、エクレナは二人の目線に合わせて跪いた。

「本当よ。アルヴィン、あなたは私と同じ赤い髪をしている。ミュリエルは父様と同じ金色なのね」

 エクレナは涙を拭うのも忘れ、二人の頭を撫でた。

「当たってる!」

「母様すごい!」

 二人は驚嘆の声を上げた。


 しかし、二人よりも驚いたのは、ハーヴェイだった。

「母様、父様って、まさか……」

 ハーヴェイはあまりの驚きによろめいてテーブルに手を着くと、エクレナの向こうの小さな来訪者を見つめた。

「そうだよ。エクレナが母親なら、父親はお前以外に誰がいるんだい」

 シーナが呆れんばかりに息子に告げた。

「驚いた……」

 ハーヴェイは脱力して椅子に座り込んだ。

「何故何も言ってくれなかったのさ、エクレナ」

「あら、誰かさんは手紙の一通もくれないし、帰ったと思ったら、まず魔法って言って話す余地なんてなかったじゃない」

 エクレナは涙を拭ってハーヴェイに向き直り、笑った。

「……」

 ハーヴェイは参った。という顔をしていた。


「ほらアルヴィン、ミュリエル。あの人があなたたちの父様よ。帰ってきたの。母様の眼を治してくれた、大魔法使い」

 エクレナは子供たちの背中を優しく押して、ハーヴェイに近づけた。

「アルヴィンが兄で、ミュリエルが妹の双子の兄妹。ハーヴェイが旅立ってすぐ妊娠が分かったの。だから今、四つになるわ」

 子供たちは初めて見るその人を、恥ずかしそうに見つめた。

 ハーヴェイもなんだかくすぐったく、特に痒くもないのに頭を掻いた。小さな可愛い二人の姿は、よく見れば見るほど、確かに自分に似ているとハーヴェイは思った。


「と、父様……」

 二人は手を繋いで、もじもじしながらハーヴェイをそう呼んだ。

 あまりの愛らしさにハーヴェイは椅子を倒して二人に抱きついた。

「こんなに可愛い子たちが待っていてくれたなんて……。長いこと留守にしていて、済まなかったね。父様はもう、何処にも行かないよ」

 そう言ってハーヴェイは強く二人を抱き締めた。

 ハーヴェイにとっても子供たちにとっても、初めて感じる温もりだった。


「父様、痛い……」

「ああ、ごめん。つい力が入ってしまって」

 ハーヴェイが慌てて二人から腕を離した。

「ふふふ。普段はスマートなハーヴェイが扱いに戸惑ってる」

 エクレナが笑い、シーナが笑った。

「今日はなんて日なんだ。嬉しいことがありすぎて、眠れそうにないよ」

 ハーヴェイはそう言って立ち上がった。

「さあ、お前たちはもうベッドに戻りなさい。朝になったらゆっくり父様と母様に甘えたらいい」

 シーナが子供たちを寝室に促した。

「はい、お祖母様」

「ハーヴェイもエクレナも今日はもう休んで、明日ゆっくり話をなさい」

「はい」

「そうするよ」

「母様、父様。おやすみなさい」

「おやすみ」


 ドアが閉まり、工房はハーヴェイとエクレナの二人きりになり、静寂が戻った。

「……そうは言っても、興奮して眠れそうにないよ」

 ハーヴェイが苦笑して呟くと、エクレナも同意した。

「私も。せっかく見えるようになったのに、すぐに眼を閉じてしまうのは嫌だわ」

「よし、じゃあ風も大分収まったようだし、二人で外を歩こうか」

「ええ」



 二人は月光の下を歩き出した。

 山間部に位置するこの場所は他に集落もないので、夜ともなると闇に呑まれてしまうが、今宵の満月は不思議と明るく、灯りを持たずとも充分だった。


 木々の葉を全て振り落とすかのように荒々しく吹いていた風は、もう枝を揺らす程度になっている。しかし、上空をゆく風はまだ勢いが強く、どんどん雲が流されていく。時折月が隠されて暗くなるが、視野を遮るほどのものではなかった。


 エクレナは広がる視界に胸が高鳴った。——広大な夜空。草木生い茂る丘。ここが今、住んでいる地。そこを一歩一歩、自分の足で歩いている。


「エクレナの手を引かない外出は初めてだね」

「本当ね」

 そう思うと、エクレナは走り出したい衝動にかられた。

 だが隣を歩くハーヴェイを改めて眺めて、眼を奪われた。美形だとは聞いていたが、想像よりもずっと美しかった。


 金色の髪は月に照らされ輝きながら風に靡き、きりりと締まった二重瞼の奥の瞳は紺碧に濡れ、均整のとれた身体についた長い脚は、嫋やかに地表へと伸びている。


 更にハーヴェイは異国で四年を過ごし、精悍な顔つきになっていた。

 しかし、エクレナは以前のハーヴェイの顔を知らないので、その変化に気付くことはできなかったが、知っていればより強く惹かれたに違いない。


 そんなエクレナが初めてハーヴェイを眼にして、一番心惹かれたのは彼の長くて繊細な指だった。この指にいつも触れられていたのかと思うと、エクレナはどぎまぎしてきた。こんなに美しい人が自分の夫なのかと、今更ながら信じられなかった。


 そういえば、私はまだ自分の姿を見てはいない。十五で記憶が止まったままだ。十四年経っていようと、何もしていないのだから何も変わっていないだろう。いや、退化はあっても進化はしていないだろうと言う方が、きっと正しい……。

 エクレナは自分の容姿を想像し、見る前から落胆した。


 そしてエクレナは立ち止まると、スカートの裾をつまんで広げて眺めた。昔、母親が着ていたような地味な服だった。

 見えないから服などは全て母親が用意してくれたものしか持っていなかった。化粧もしていないし、髪だっていつもさっと梳かして、一つに束ねてしまう。

 気にしたことなどなかったが、ハーヴェイを前にしてエクレナは急に恥ずかしさを覚えた。


「どうしたの?」

 隣を歩いているはずのエクレナが後ろで立ち止まっていることに気付き、ハーヴェイは前方から声を掛けた。

「……」

 私はあなたと釣り合いが取れていない——。

 そう言おうとしてエクレナは堪えた。せっかくの日だというのに、水を差す。


「分かった」

 ハーヴェイは何故かそう言うと、エクレナの許へ歩き出した。

「エクレナも素直じゃないなあ」

 ハーヴェイは徐にエクレナの手を握って微笑んだ。エクレナは言っている意味が分からず、眼をぱちくりさせた。

「やっぱり今までみたいに手を繋いでいたいなら、早く言えばいいのに」

 ハーヴェイは笑いながらエクレナの手を引いて歩き出した。

 最初は呆気にとられたエクレナだったが、嬉しい勘違いにはにかむと、そういうことにしておこうと思った。


「ねえ、ハーヴェイ。向こうでの暮らしはどうだったの?」

「住処を探すのには時間がかかったけど、それなりに順調だったよ」

「体調を崩したりとか、身体は何ともなっていない?」

「大丈夫だよ」

「じゃあ、どうして手紙の一通もくれなかったの? 子供のこと、伝えたかった」

 エクレナは少し責めた。

「……」

 ハーヴェイは前方を向いたまま、ゆっくりと立ち止まった。


「そういう話を聞いてしまったら、戻りたくなるから」

 ハーヴェイは哀しげに眼を伏せた。

「何もかも投げ出して、帰りたくなってしまったら駄目なんだ。必ず魔法を完成させて帰ると決めて家を出たのに、無駄に終わらせてしまう。だから、一切の情報を遮断した」

「……」

 エクレナはハーヴェイの横顔を黙って見つめ、言葉の続きを待った。物憂げなハーヴェイは益々美しく、妖艶なほどだった。


「僕は昔から弱かった。いつも誰かに何かを与えられるのを待っていたように思う。呪いにかかった時は部屋に引き籠って母さんに引越しを余儀なくさせてしまったし、恋愛だって好意を寄せてきた女性しか対象としてこなかった。相手が逃げ出したらそれでもうおしまいで、分かって貰おうとは思わずに、分かってくれる人を待っていた。僕は臆病だったんだ」


 ハーヴェイは夜空を見上げた。

「でもエクレナと出会ってから、少しずつ意識が変わっていったんだ。誰かのために何かをしたい、自分から動きたい。そう思うようになった。エクレナは弱く醜い僕を受け入れてくれた。エクレナは僕の心に色んなものをくれたけど、僕は何もあげられなかった。だから君の視力を元に戻すことが僕にできる最大のお返しだと思った。失明の原因が病気や直接眼球に関わるものじゃなかったから、必ず治せると思ったんだ」


 ハーヴェイはエクレナに向き直ると、神妙な面持ちで言った。

「連絡を絶っていたのは僕の弱さを隠すためだったけど、少し長過ぎたね。ごめん。不安にさせて済まなかったと思ってる」

「……」

 エクレナは言葉にならなかった。自分の方こそ何かしてもらうばかりで、与えてなどいないと思った。


「……ハーヴェイ、ごめんなさい」

 やっとの思いでそれだけ口にした。

「何でエクレナが謝るのさ」

「だって、私の方こそ何も……」

 涙で言葉が途切れた。

「また泣く。エクレナは色々してくれたって言ったじゃないか」

「でも……」

「僕の好きなエクレナはそんなに泣かなかったよ。まあ、僕のせいだと言われると、否定できないんだけど」

 ハーヴェイは苦笑した。


 エクレナは堪らずハーヴェイの胸に抱きついた。

「眼が見えるようになった私は、ハーヴェイに何をしたらいいの?」

「……生涯そばにいてくれれば、それだけでいいよ」

 ハーヴェイは優しく左手をエクレナの腰に腕をまわし、右手で髪を撫でた。エクレナは子供のように声を上げて泣いた。



 エクレナが落ち着きを取り戻すまで、ハーヴェイは何も言わずに髪を撫で続けていた。

 今日はそればかりしてもらっているな、とエクレナは赤い鼻で思った。

「泣いてばかりでごめんなさい。もう大丈夫……。ありがとう」

 エクレナは反省して身体を離した。

「じゃあ、歩こうか」

 ハーヴェイは微笑むと、二人は再び手を繋いで歩き出した。


「ねえハーヴェイ、覚えてる? あなたが初めて私を家に連れてきてくれた時のこと」

「ん?」

「行きたいところがあれば、僕が連れていくって言ってくれたの」

「……随分、昔の事のように感じるな」

 ハーヴェイは追憶した。

「気持ちは嬉しかったのだけど、その時本当は、見えないから行きたい場所なんかなかったの。でも今は違う。色んなところへ行って、色んなものを見たいわ」

 エクレナは夜空を見上げ、眼を輝かせながら言った。

「うん」

 ハーヴェイは穏やかに微笑んで、エクレナを見つめた。

「ハーヴェイと一緒に」

 エクレナはそう続け、ハーヴェイを見つめた。二人は眼が合った。


 ハーヴェイは立ち止まると、繋いだ手をゆっくりと引き寄せてエクレナを抱き締めた。

「うん。僕はもう何処へも行かない。これからは、二人で一緒に同じものを見よう」

 それを聞くとエクレナは安心したように眼を閉じた。


 月に見守られながら、二人は長年の空白を埋めるように互いの温もりを確かめ合った。

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