六
よく晴れたある日、店番をエクレナに任せシーナが買い物に出ようとすると、ブラシや本や工房にある薬など、様々なものが宙を舞い二階へ向かっていた。
不思議に思いながらシーナが後を追うと、全てハーヴェイの寝室に吸い込まれていた。ドアが開け放たれた部屋を覗くと、ハーヴェイが大きな鞄に魔法で色々な物を詰めていた。
「ハーヴェイ、一体何をしてるんだい?」
シーナが背を向けているハーヴェイに尋ねると、ハーヴェイは振り向かずに答えた。
「異国に出るよ」
「な、何? ……異国!?」
予想だにしなかった返答に、シーナは吃音した。
「エクレナの眼が見えるようになる魔法を探すんだ」
「エクレナの、眼を……?」
「そう。もう研究室の上役の許可は取ってある。数ヶ月、いや、もしかすると一年くらいは帰って来れないかもしれない」
「ちょっとお待ち! 何だって急に! エクレナは知っているのかい!?」
「いや、言っていない。言えば負担に思って、見えないままで構わないって言うだろうから」
「そうさ、 見えないままでも上手く暮らして来たんだ。これからだってそれでいいじゃないか!」
「よくないよ」
今まで荷物を見ていて一度も視線を合わせなかったハーヴェイが手を止め、鋭い目つきでシーナを正視した。シーナは一瞬たじろいだ。
「僕は呪いが解けて世界が変わった。だからエクレナの世界も変えてあげたいんだ」
「そんなことを言ってお前、眼が見えるようになる確証でもあるのかい!?」
シーナは失明した者が視力を取り戻すなど、不可能だと思っていた。
ハーヴェイはシーナから視線を外すと、荷造りを再開した。
「失明した人の視力を元に戻した話を城下町の酒場で聞いてね。それが海を越えたベルデヒッツでのことだと掴むまで、随分町を渡り歩いたよ。向こうはここよりずっと魔法が盛んで、技術も発達しているらしい。ただ、噂話の域を出ていないんだ。視力が戻った人物の名前も、治した魔法使いの所在も分からない」
「そんなんじゃ、お前……」
「例えその話が虚報だったとしても、魔法が栄えた国だ。行けばきっと手掛かりはある。僕は必ず方法を見つけて帰るよ」
鞄が閉じられた。外套が宙を舞い、ハーヴェイの手に収まった。
「留守を頼むよ、母さん。なるべく早く帰ってくる」
「お待ち! ハーヴェイ!」
つむじ風が起きた。シーナは咄嗟に顔を伏せた。部屋のカーテンやベッドのシーツが激しく舞い踊り、家具が揺れる。
風が止み、シーナが顔を上げた時には、もうそこにハーヴェイの姿はなかった。開いた窓から馬が駆けていく音が聞こえる。
「ああ、ハーヴェイ、なんてことを……!」
シーナはその場に両膝をついて打ち拉がれた。
エクレナは接客中だったが、馬の走る音でハーヴェイが出掛けたことに気が付いた。また帰りは遅くなるのかしら、と軽く考えていたが、夕食の席でシーナからハーヴェイは仕事の都合で異国に行くことになったと聞かされて、動揺した。
「そうなんですか……。でも、私に何も言わずに行くなんて……」
「きゅ、急に決まったみたいでね。あんたは接客中だったし、ゆっくりしていられなかったんだよ。申し訳ないって伝えてくれって」
「そうですか……。それで、いつ帰って来るんでしょうか」
「それは……仕事の成果次第だと言っていた。だから早ければ三ヶ月かそこらで帰れるんじゃないかい」
「そうですか。ハーヴェイならきっと早いですね」
エクレナは希望を持って微笑んだ。
シーナは心苦しかったが、真実を言うのは酷に感じて、つい嘘を吐いた。嘘のままでもハーヴェイが早く帰りさえすれば済む。そう思った。
*
次の日からエクレナは益々よく働いた。
動いている方が色々と考えなくて済む。ハーヴェイがいない日が暫く続くことを考えると寂しさに押し潰されそうになるので、それを避けるためにも毎日身体をくたくたにして、ベッドに入ったらすぐに眠りにつけるようにしたのだった。
しかし、身体は以前より動かしているのに、食事の方はあまり進まず気分が優れなかった。シーナは心配したが、エクレナは大丈夫だと答え、休むことなく身体を動かした。
数日して、エクレナは気分が悪くなって嘔吐した。すぐに回復したが、翌日もまた同じ症状が出た。シーナは早々と店を閉めてエクレナをベッドで休ませた。
「すみません、お義母様。もう大丈夫ですから」
ベッドから起き上がろうとして止められた。
「お待ち、エクレナ。もしかしてお前、妊娠しているんじゃないのかい?」
「え……」
シーナの指摘通り、確かにエクレナのお腹には、小さな命が宿っていた。
エクレナは最初は戸惑ったものの、すぐに気を取り直した。
——子供ができた。私とハーヴェイの子だ。なんて素晴らしいのだろう。
自分の中に命が宿るというのは神秘的であり、哲学的でもあった。今はハーヴェイがいないが、生まれる頃にはきっと戻っているはずだ。それまでは寂しくとも頑張ろうとエクレナは決意した。
シーナは初孫の誕生は心底嬉しかったが、息子の不在が口惜しかった。知れば今頃泣いて歓んだかもしれない。そして毎日真っ直ぐ帰宅して、エクレナのお腹に話し掛けたかもしれない。異国に出ようとは微塵も思わないはずだ。
しかし、今更悔やんでもどうにもならない。一時は孫どころか結婚すら叶わないかと思われた息子に、希望と安らぎをもたらしたエクレナだ。何としてでも無事出産させたい。
「安心おし、エクレナ。ハーヴェイがいなくても私がついてる。元気な赤ちゃんを生めるよう、何だってするからね」
「ありがとうございます。お義母様」
シーナは毎日身体によいというスープを作ってくれたが、何が入っているのかよく分からない味がした。しかし、飲むと様々な不安が消えていく感じがする。きっと魔法のスープなのだろう。そう思いながらエクレナは有り難く飲み干した。
*
それから三ヶ月が過ぎた。ハーヴェイからは手紙の一通も来なかった。
何処に住み、どんな暮らしをしているのか。また慣れない地で怪我や病気はしていないか心配だったが、一切が不明だった。
居場所が分からなければ魔法を以てしても、こちらの様子を知らせる手立てはなかったので、エクレナの妊娠を告げることも叶わなかった。
*
六ヶ月が過ぎた。エクレナのお腹は大きく張りだし、母子共に順調だった。すでに二児の母である彼女の妹がくれた、妊婦用の服がちょうどよいサイズになっていた。
エクレナの父母や弟妹たち家族が時折訪ねてきてくれて、いい気分転換になった。エクレナは妊娠や育児について色々教わり、毎日が過ぎていったが、ハーヴェイはまだ戻る気配がなかった。
身重のエクレナは身体に影響がないよう心配する心に蓋をして、ただただ子供のことを考えるようにした。
*
いよいよ臨月を迎え、いつ生まれてもおかしくないという時が来た。就寝は常にシーナと共にし、出産に備えた。
その晩エクレナは妊娠から来る腰の痛みが酷かったので、シーナが擦ってくれていた。
「もう、名前は考えたのかい?」
「ええ、男の子ならアルヴィン、女の子ならミュリエルと」
「そうかい。どっちだろうねえ」
「ハーヴェイなら、なんて付けたかしら……」
エクレナは寂しそうに呟いた。
「……」
シーナは思わず手が止まった。
「あっ、ありがとうございます。大分楽になりました。もう休みます。おやすみなさい」
エクレナは慌ててそう言い、姿勢を変えると瞼を閉じた。
その翌日の昼に、山あいの家には大きな産声が二回響いた。
エクレナは元気な男女の双子を生んだ。
「エクレナ、男の子と女の子の双子だよ。いっぺんに二人もなんて、これから子育てが大変だ」
そう言ってシーナは目尻を下げ、男の子を抱き上げた。
「私もちょくちょく手伝いに来るからね」
エクレナの母親が女の子を抱いて言った。
明け方破水したエクレナの様子を見て、シーナが魔法で鳥を使いに出し、エクレナの母に伝書をしたのだった。
「あの……私にも……」
赤ちゃんを抱かせて欲しいと手を伸ばした。
「ああ、ごめんよ」
二人はエクレナの手を取り、赤ん坊を抱かせた。
両腕に伝わるずっしりと温かい二つの命は、何ものにも代え難く感じた。
アルヴィンとミュリエル。眼が見えなくてもこの子たちを立派に育てよう。エクレナは 固く誓った。
しかし、この場にはハーヴェイがいない。
ハーヴェイはこの子たちの誕生を知らない。そのことだけは、彼女の心に暗い陰を落とした。
*
エクレナは眼が見えなくとも感覚を研ぎ澄まし、常に子供に触れ、耳を澄まして懸命に子育てをした。シーナも色々と手助け、子供たちは順調に育っていった。
初めての子育てに奮闘するエクレナは忙しく毎日を過ごし、瞬く間に一年が過ぎた。だがハーヴェイは未だ帰らなかった。彼の香水の匂いのしたベッドは、もう殆ど香ってはいなかった。
「ハーヴェイは、まだ帰れないんですかね……」
ある晩、子供たちを寝かしつけながらエクレナが呟いた。
「エクレナ……済まないね。やっぱり私があの時、無理にでも止めておけば……」
「いえ、仕事なら仕方がないんですけど、手紙くらいくれてもいいのに……」
——本当は仕事ではないんだ。
シーナはそう言おうと思ったが、言えなかった。
便りすらないところを考えると、息子は異国に魅せられて、もう帰ってこないのではないかという不安がよぎったのだった。
せめてもう少し早く妊娠が分かっていれば……。シーナは後悔と疑心に苛まれた。
シーナはエクレナにいつ真実を告げるべきか、計り兼ねた。胸が詰まる思いだったが、可愛い孫たちの寝顔だけが救いだった。
*
そしてエクレナの子供たちは、父親の顔を知らぬまま四つになろうとしていた。
「どうしてうちには 父様がいないの?」
そんなことを口にするようになった。
「父様はお仕事で遠いところへ行っているの。済んだら戻ってくるのよ」
エクレナはそう説明した。しかし、いつ戻ってくるのか訊かれても答えることができずに困窮した。
エクレナの眼が見えないことについては、子供たちは自然と理解をしていった。シーナに進んで 母様の手伝いをしなさいと口煩く言われるので、ある日子供たちはどうしてかと問うと、答えの代わりに眼をつぶって歩いてみなさいと言われ、二人は見えないことがどういうことなのかを体感し、母を敬い気遣う子に育っていった。
子供に手がかからなくなってくると、一日が長い。長いと物思いに耽る時間ができてしまう。エクレナはそんなことを思いながら窓辺に佇んだ。
——ハーヴェイはいつ帰ってくるのだろう。
窓から差し込む月光が彼女の頬を照らした。夜の帳が降りるとエクレナは、ハーヴェイの顔が変化していた頃のことを思い出す。
あの頃のハーヴェイはまだ憂いを抱えていた。私と一緒に暮らすようになっても夜になればベッドは別々で、朝になるまで抱き締めてはくれなかった。それが呪いが解けたら、いつも私を抱き締めて眠るようになった。
嬉しかった。私は彼にとって必要な存在なのだと思うと、全てを受け入れてあげたいと思った。
だから彼が羽根を広げて外の世界へ飛び立とうとも、最後には私を抱き締めて眠りにつくのなら、何も言うことはなかった。でもいつの間にかハーヴェイは、外の世界の方が大事になってしまったのだ。
新しい世界——。今まで抑圧されていた分、新鮮だったに違いない。もしも私の眼が見えるようになったら、同じように魅せられるかもしれない。彼を責められはしない。
それにハーヴェイは美形なのだ。美しい男性には、美しい女性が似合う。何処に行っても彼は目立つだろう。店番をしていると、いつもハーヴェイの所在を尋ねられた。彼が店に顔を出すと、いつも女性に囲まれた。そんな人を周りが放っておくはずがない。
私は見えないからお洒落もできないし、何より元々の顔が地味だ。ハーヴェイが選んでくれたのは、私が逃げ出さなかったから、ただそれだけの理由なのではないか。私が眼の見える普通の女だったら、彼は見向きもしなかったろう。いや、それ以前に出会うことすらなかったかもしれない。
後ろ向きに考え出すと、止まらなかった。
……もう、私の役目は終わったのかもしれない。
そう思うと涙が溢れ、頬を伝った。
盲目の私は結婚できただけでも幸運だったのに、いつの間にかそれが当たり前だと思い上がっていたのかもしれない。
……いや、違う。感情を殺しすぎた。もっと寂しいと言えばよかったのかもしれない。彼を放って置き過ぎた。きっとつまらない女だと愛想を尽かしたのだ。もっと彼に甘えればよかった。こんなに早く別れの時が来るなんて……!
涙はどんどん溢れ出し、手で拭っても拭っても消えてはくれなかった。一度堰を切った大粒の涙は、留まることを知らなかった。月明かりがエクレナの涙を寂しく光らせた。
「エクレナ、どうかしたのかい?」
突然シーナの声がしたので、エクレナは驚いて身体を強張らせた。ドアの開く音がしなかった。どうやらきちんと閉まっていなかったようだ。
「い、いえ、なんでもありません……」
急いでエプロンで涙を拭いて誤魔化した。灯りは点けていないので、もしかしたら涙に気付かれていないかもしれない。エクレナは仄かな期待を持った。
「アルヴィンとミュリエルが、母様が泣いていると心配して私を呼びに来たよ」
エクレナの思いは打ち砕かれた。まさか子供たちが見ていたなんて。
アルヴィンとミュリエルはシーナのスカートに掴まって、エクレナを心配そうに見ている。
「母様、何処か痛いの?」
アルヴィンが尋ねた。
「母様、お腹痛い?」
ミュリエルが続いた。
「ああ、二人とも……ごめんね。母様は大丈夫。大丈夫よ」
エクレナがドアの方に駆け寄ると二人も駆け出し、母の足許にしがみついた。
いけない、子供たちを不安にさせるなんて。エクレナは強く反省した。
エクレナが泣いているのを初めて見たシーナは、胸が痛んだ。彼女は嫁いできて一度も泣いたことはなかったのだ。理由は息子のことしかあるまい。シーナは重い口を開いた。
「……エクレナ、私はお前に謝らなければならない」
「え?」
「ずっと、嘘を吐いていた」
「嘘、ですか……」
アルヴィンとミュリエルもシーナを見上げる。
「ハーヴェイは仕事で異国に行ったというのは、あれは嘘なんだ。本当はエクレナ、お前の眼が見えるようになる魔法を探しに行ったんだよ」
「え……」
「いつ帰るか分からないと言うから、自分のためと知ればお前は自分を責めるんじゃないかと思ってね。ハーヴェイもそう思ったから、何も言わずに旅立ったのさ。私はあの子がすぐに戻りさえすれば済むと思ったんだけれど、甘かった。まさか音信不通のまま四年も戻らないとは……。お前を深く悲しませることになってしまったこと、許しておくれ」
シーナは右手で顔を覆って俯いた。
「そう……だったんですか……」
エクレナは目尻に残っていた涙が乾いていくのを感じた。
ハーヴェイは私のことを思って出国した——。確かにその理由で異国に行くなどと言われたら、反対した。見えなくとも、もう充分な暮らしをしているのだから。
「見えなくなった人の視力を元に戻した話を耳にしたと言ってね、もっと情報はないかと色んな町の盛り場に通ったから、あの子は留守がちになっていたんだ」
分かって欲しい。いつかハーヴェイはそう言っていた。
「でも、もし……。もしも、あの子が目的を忘れて二度と帰って来なかったとしても、許してやって欲しい。あの子は昔から好奇心に身を任せ過ぎるきらいがある。異国に魅せられてしまって戻らないということも、あるかもしれない……」
音信不通で四年——。忘れられたと思うには充分な期間ではある。
「でも確かに言ったんだ。エクレナは自分に新しい世界をくれた、だから今度は自分の番なんだと。お前を思って旅立った。それに偽りはない」
「……」
私はまだ、彼にとって必要な存在なのだろうか。エクレナは一縷の望みを感じた。
「母様のおめめが見えるようになるの?」
「父様が帰ったら、見えるの?」
アルヴィンとミュリエルが口を挟んだ。子供なりに二人は話を理解していたようだ。
「そう、父様は母様のために頑張っているの。だから待ちましょう。今に帰ってくるわ。そして帰ったら母様の眼はきっと見えるようになるわ」
子供たちに聞かせているが、エクレナは自身にも言い聞かせるように言った。
「母様は大丈夫。もう泣いたりしないわ。心配かけてごめんね」
エクレナは跪き、子供たちを強く抱き締めた。
「済まない、本当に済まないね」
シーナも膝を折り、三人を抱き締めた。
エクレナはこの日誓った。
——待とう。私が信じて待たなければ、ハーヴェイは何のために旅立ったのか分からない。きっとあの人は帰る。新たな魔法を手に入れて。




