三
その日、ハーヴェイはエクレナを馬に乗せ自宅に向かっていた。エクレナと一度も会ったことがないシーナに紹介するためだった。
初めての乗馬にエクレナは、あまりの速さに落ちやしないかと冷や冷やしたが、すぐ後ろで手綱を引くハーヴェイの魔法に護られているのを感じた。
速いが、不思議と振動が少ないのだ。眼が見えなくても魔法を感じられるんだな、とエクレナは温かい気持ちになった。
「どう、どう!」
ハーヴェイが馬を止める。
もう着くなんて、さすが魔法ですぐ着くと言っただけのことはある……と、エクレナが驚いていると、
「まだ家じゃないんだけど、この辺の森は子供の頃から遊んでいた、僕の庭みたいなものなんだ」
ハーヴェイはそう言ってエクレナを降ろした。
エクレナも幼い頃はよく森で遊んだので、森の匂いは分かる。
「少し休憩しよう」
馬に乗るのには邪魔だからとエクレナに杖を置いてこさせたので、ハーヴェイは自らエクレナの手を引いて、ゆっくりと歩き出した。
木漏れ日が二人の身体を穏やかに照らす。鳥や虫の声、風が草木を揺らす音、地面を踏みしめる足音だけが聞こえる。晴れた日の森は、何者をも包み込む豊かな母性のようなものを感じる。エクレナは森の景色を想像しながら歩いた。
「知らない場所へ来たのは久しぶり」
エクレナが嬉しそうに呟くと、
「行きたいところがあれば、これからは僕が連れて行くから」
と、ハーヴェイが言った。
思いがけない言葉にエクレナはハーヴェイの方を見上げた。
ハーヴェイは歩きながら優しくエクレナを見下ろしていた。エクレナの眼が見えれば、二人は見つめ合っていたことだろう。
「ありがとう」
エクレナは繋いだ手の温もりを一層優しく感じた。
ハーヴェイは森を案内して回り、魔法でエクレナを樹枝に乗せたり、リスと戯れたりした。エクレナは色々な魔法に触れて楽しんだ。
お腹が空いたのでそろそろ行こうかとハーヴェイが言うと、エクレナはお弁当を作ってきたとバスケットを差し出した。
「凄い。見えなくても、料理ができるんだね」
ハーヴェイは素直に驚嘆した。
「簡単なものしかできないけど……」
エクレナは期待されては困ると、恥ずかしそうに言った。
ハーヴェイは腰掛けるのにちょうどいい岩の上にハンカチーフを取りを出して敷くと、エクレナを座らせた。バスケットを開けると食事につられたのか、鳥たちが集まってきて二人を囲んだ。ハーヴェイがサンドウィッチの欠片を与えると、おいしそうに啄んだ。
「エクレナもやってごらん」
ハーヴェイはエクレナの手を取り、掌に細かくちぎったパンを置いた。
「きゃっ」
ハーヴェイの手が離れた途端、鳥たちは羽音を立ててエクレナの掌に集まり、夢中でパン屑を取り合った。
「こんなに鳥が近くに来るなんて、初めて」
エクレナは楽しそうに笑った。
食事をしながら二人はまた色々な話をした。時間が経つのを感じなかった。
*
ハーヴェイの家に着いたのは陽が傾きかけた頃だった。
ドアを開けるとシーナは客の相手をしていたので、挨拶はいいからとハーヴェイが中に促した。
シーナは初めてエクレナを見るが、客を優先し、軽くお帰りの一言で済ませた。
ハーヴェイの家は薬屋だけあって、様々な薬草や薬液の匂いに包まれていた。
「不思議な匂い」
エクレナが呟くと、ハーヴェイは、
「工房には薬の材料がたくさんあるからね。この匂いが染み付いてしまいそうだから、僕は香水をつけているんだ」
と、言った。
エクレナはハーヴェイの香水をつける理由が意外だったが、この家の匂いは嫌いではなかった。
それに薬の材料が棚に所狭しと並んでいる様子を想像すると心が躍った。エクレナの住むライザの町にはずっと魔法使いはおらず、伝聞や物語の中の存在だったからだ。
エクレナは眼が見えていれば薬を作るところを見せて貰いたかった。
この世界の魔法使いには血筋があり、修行を積めば誰でもなれるものではないため、その数は少ない。天変地異を起こす大魔法使いなどの昔話はあるが、時代の変移で国により規制がなされてからは、魔法使いの殆どが薬を作って細々と暮らしている。やはり商売のし易い土地に集まるので、魔法使いの棲む地域は偏っていた。
ハーヴェイはエクレナの手を取り食卓まで通すと、椅子を引き丁寧な動作で座らせた。ハーヴェイは基本的に動作が優雅で紳士的だった。それが美貌の他に女たちが放っておかない理由の一つだったが、エクレナは自分が眼が見えないために極力丁寧に扱ってくれているのだと思っていたので、感謝こそすれ舞い上がることはなかった。
「お茶を淹れるよ」
ハーヴェイはそう言って短く呪文の言葉を口にした後、席に着いた。
ハーヴェイは明らかに椅子に座っているのに、後ろではカチャカチャとお茶の用意をする音が聞こえたので、エクレナはわくわくしながら聞いた。
「もしかして、魔法で淹れてるの?」
「さあ、どうでしょう」
エクレナが身を乗り出して聞くのがなんだか可笑しくて、ハーヴェイはわざとはぐらかした。
「意地悪ね」
エクレナはテーブルに頬杖をついた。ハーヴェイはくすくすと笑っている。
紳士的なのに、こういうところは子供なんだわ……と、エクレナが膨れていると、紅茶のよい香りがしてきた。
「カモミールには、鎮静作用があるから」
ハーヴェイは笑いながらハーブティーを差し出した。
鎮静化の必要を生んだのは一体誰だと思っているのか。エクレナは口を尖らせた。
「ミルクは?」
「頂くわ」
ゆっくりとカップにミルクが注がれる。
「さあ、どうぞ」
ハーヴェイがエクレナの手をそっとカップに導く。一口飲んで驚いた。こんなに美味しい紅茶は初めてだった。
「美味しい!」
エクレナは思わず大きな声を出した。
「そりゃあ、僕が淹れたお茶だからね。他では口にできないものも色々と入っているし」
ハーヴェイはわざと含みのある言い方をした。
「……」
エクレナは幼い頃見た絵本に、大釜で蜥蜴の尻尾や蛇の抜け殻やらをグツグツと煮ている魔女の挿絵があったことを思い出し、眉をひそめ二口目を躊躇う仕草をした。
すると、ハーヴェイの大きな笑い声が部屋に響いた。
……完全にからかわれている、とエクレナは思った。
「随分楽しそうじゃないか」
店を閉めたシーナが入って来た。
「だって母さん、エクレナの反応は一々面白いんだ」
ハーヴェイは涙を浮かべながら答えた。エクレナはちっとも面白くなかったが、シーナに挨拶をしていなかったことに気付いて、立ち上がった。
「エクレナです。本日はお招き頂きまして——」
ハーヴェイが突然エクレナの服の袖を引っ張ったので、言葉が途切れた。
「エクレナ、そっち母さんのいる方と逆だから」
「!」
エクレナは赤面した。大きな笑い声は二人分響いた。
*
夕飯も食べていけとシーナが強く言うので、エクレナはそれに甘えた。
エクレナは何か手伝うと言おうとしたが、眼の見えない人間が初めての場所で台所に立つのは却って迷惑になると思って止めた。二人もそれが分かっていたので、ハーヴェイがエクレナの相手をし、シーナが腕を振るった。
エクレナは魔法で調理しているのかと気になったが、癪だったので決して聞かなかった。ところが厨房の方を向いては何か言いたげな表情をし、すぐにいやいやと制止していたので、何を思っているのかハーヴェイには明白だった。しかし、笑えばまた機嫌を損ねるだろうと、ハーヴェイは悟られないよう必死に堪えた。
食卓は久しぶりに賑わった。エクレナはよく食べ、よく笑った。ハーヴェイも珍しく饒舌になっているので、シーナは実に嬉しそうだった。
エクレナはハーヴェイが今まで連れてきたどの娘よりも垢抜けず、また息子より年上だったが、もし彼女が嫁いできたなら、昔のように明るい我が子の姿が日常に戻ってくるだろうとシーナは確信した。
たとえ生涯彼にかかった呪いが解けなかったとしても、エクレナとなら嘆きを忘れて前向きに暮らしていけるのではないか。シーナにはそうも思えた。
魔法使いとして、母として、呪いを解いてやることも傷を癒すこともできずにいた彼女もまた、ずっと苦しんでいたのだった。
シーナは夕食を終えると早々と寝室に入り、ハーヴェイとエクレナを二人きりにした。
エクレナは暫くハーヴェイと居間で話をしていたが、そろそろ帰らなくては……と、切り出そうとハーヴェイの腕に触れた。
するとハーヴェイは真面目な顔つきになって、エクレナの手を握った。
「見えなくても、こうして触れていれば分かるんだ。僕が醜い姿に変わるのは」
ハーヴェイはそう言って、エクレナの左手を自分の右の頬にあてた。
「……」
きっとハーヴェイは今、とても悲しい顔をしているのだろう。月日が経った今でも夜が更けていく度に重い気持ちになるのだろうか。エクレナは殊勝な気持ちになった。
帰るつもりだったが、言い出す機会を逃した。いや、帰ってはいけない気がした。ハーヴェイの沈んだ気持ちを和らげなければならない。恐らくそれができるのは私だけだ。何故かエクレナはそんな使命のようなものを感じた。
二人は二階にあるハーヴェイの寝室に移動した。ハーヴェイは明らかに口数が減っていた。エクレナもまた、無理に話そうとはしなかった。
促され、エクレナがベッドに腰掛けるとハーヴェイも隣に座ったが、そのまま上半身を倒し仰向けになって天井を眺めた。
「少し……このままで」
小さく溜め息を吐いた後、ハーヴェイが呟いた。
エクレナは暫く黙って座っていたが、ハーヴェイと同じく上半身を倒し、仰向けになった。シーツからはハーヴェイの香水の香りがした。
静寂が続いた。
ここは山に囲まれた場所なので、夜は一段と静かだった。
どのくらい時間が経ったのだろう。エクレナは仰向けのままハーヴェイの名を小さく呼んだ。
ハーヴェイは横になったまま黙ってエクレナの手を取り、自分の方に身体を向けさせると、また頬にあてた。エクレナは僅かに構えた。
ハーヴェイが小さく震えた次の瞬間、彼の顔は崩れだした。
エクレナの手に伝わる質感がどんどん変わっていく。滑らかな肌触りがゴツゴツとした硬いものになり、隆起に満ちた。樹の根のような、固く乾いた土のような、それでいて岩のようでもあり、不思議な感触だった。
しかし、恐ろしくはなかった。そこには確かに体温があり、血が通った人間であることは間違いなかった。
「分かるかい……?」
ハーヴェイは小さな声でエクレナに尋ねた。
エクレナは空いているもう片方の手を伸ばし、両手で確かめるようにハーヴェイの頬を撫でた。
何も見えない。
そう、私には見えないのだ。……しかし、見えたとしても。
「ここにいるのは、ハーヴェイ」
そう言ってエクレナは両手をゆっくりと移動させ、ハーヴェイの頭を包み、自分の胸元に引き寄せた。
エクレナは自分でも不思議なくらい落ち着いていた。子供を抱擁する母親の心境だったのかもしれない。
ハーヴェイは何が起きたのかすぐに理解できなかった。眼を見開いたまま黙って抱かれていたが、ややあってから小刻みに肩を震わせ始めた。静かにエクレナの胸元を濡らしていく。ハーヴェイは声を殺して泣いていた。
失明した時はただ絶望を感じただけだったけれど、今初めて盲目である自分の価値を感じることができた気がする——。エクレナは涙する相手を胸にそう思った。しかし、何も言わずに、ただハーヴェイの頭を撫で続けた。
*
「おはよう」
エクレナが目覚めると、頭上からハーヴェイの穏やかな声がした。
朝の光が頬を照らしているのを感じた。いつの間に眠ったのだろう。エクレナはまだぼうっとしながらも挨拶に応えた。
「おはよう……」
「いい天気だよ。洗面所まで案内するから、顔を洗っておいで」
明るい声にエクレナは、ほっとした。
上半身を起こすと、ハーヴェイが手を取った。ゆっくりと階段を降りると、左手にあるドアを開けて洗面台まで導かれた。
「顔はこれで拭いて」
「ありがとう」
「トイレットはすぐ右だから。済んだらドアを出て、壁伝いに左に進むと食堂に行ける。あ、言わなくてもエクレナなら朝食の匂いで、すいすい来られるかな」
ハーヴェイは憎まれ口を利いた。
「それは私が食い意地が張っているって言いたいの?」
「だって、昨日の食べっぷりは……」
「あれはシーナさんの料理が美味しかったからで、いつもはあんなに食べません!」
エクレナは赤くなった。確かに昨日は少し食べ過ぎていた。
「ふうん。それは母さん喜ぶなあ」
ハーヴェイはまた含みのある言い方をした。
エクレナは堪らずハーヴェイの胸元を力を入れずに両手で何度も叩いた。ハーヴェイは笑っていたが、エクレナがふと何かに気付いたかのように動きを止め、両手でハーヴェイの頬に触れたので、はっとした。
「……」
夜が明ければハーヴェイは、自身で魔法をかけて本来の美しい顔に戻す。
エクレナが何を考えているのか察し口を開こうとすると、思いもよらない挙動で止められた。
エクレナは両手の親指と人差し指に力を込め、ハーヴェイの頬をつねったのだった。
「い……!」
ハーヴェイは痛いと言おうとしたが、両の頬をつねられているので、きちんと口が開かなかった。
「私は決して大食らいじゃないから。そして、紳士は淑女に向かってそんな口利かない」
エクレナはにっこり笑って、そう言った。
「は……い……」
「分かれば宜しい」
エクレナは手を離すと何事もなかったかのように蛇口をひねり、顔を洗い出した。
「……」
予想外の出来事にハーヴェイは痛む頬を押さえることもせず、呆然とした。年上の女とは、こういうものなのだろうか。
シーナは上機嫌で朝食の支度をしていた。
今二人は洗面所にいる。うちで一晩明かした女はエクレナが初めてだ。やはり私の予想は外れることはないだろう。
そう思うとシーナは鼻歌を歌い始めた。焼き立てのベーコンエッグをフライパンから皿に移すと、ハミングしながらテーブルの上に置いた。そこに頬を擦りながらハーヴェイがやってきた。
「ん? お前、頬がどうかしたのかい?」
「いや、なんでもない……」
ハーヴェイはばつの悪い顔をしながら席についた。
「エクレナは? 一人で大丈夫なのかい?」
「用足しをしている時も、そばにいられたら嫌かなと思ったから」
「じゃあ、私が行くよ」
シーナが洗面所に向かおうとすると、エクレナが兵隊のように両手両足を規則正しく動かしながら入ってきた。
「ハーヴェイ、一言言ってよ!」
エクレナは自分の意思で動けずにいた。ハーヴェイが一人でも問題なく食卓まで来られるよう魔法をかけていたのだった。しかし、少々悪ふざけが混じっている。
エクレナがくるくると回りながら席に着くと、ハーヴェイは無言で指を鳴らした。同時に彼女への魔法が解けた。
「ハーヴェイ!」
「お礼は言われても、文句を言われる謂れはないな」
「だから一言……! びっくりするじゃない!」
「頬をつねられた僕もびっくりしたよ」
わあわあと言い合っている。
この二人は朝から何をやっているのか。シーナは呆気にとられた。
「まあ、仲良くなるのに越したことはないけどね……」
シーナはそう独りごちて、台所に戻った。




