第7話 焚火と夜の風
森の静寂を背景に、焚き火の小さな音が響く。先程まで柴田はアヤナから女神から聞いたこの世界の事を聞いていた。もう元の世界に戻れないらしいと聞いて衝撃を受けたが、しばらくして落ち着いてきた。柴田はぼんやりと夜空を見上げて、ぽつりと呟く。
「綺麗な星空だな…日本でこんなにのんびり星空を眺めた事ってあったかな」
「呑気ですね。こんな、いつ魔物が襲ってくるか分からない森の中で」
アヤナは火を見つめたまま、淡々と返す。柴田は少し苦笑して、肩をすくめた。
「そうなんだけどさ…でも、明日会社に行かなくていいんだって思ったら、なんか体が軽くなった気がして」
アヤナはちらっと柴田を見上げるが、すぐにまた火に視線を戻す。
「ご家族はどうですか?突然いなくなって、心配してるんじゃないですか?」
柴田は少し黙り、考え込むように火を見つめる。
「どうだろう…。それなりに貯金もあったし、保険金や遺族年金も入るだろうから、案外邪魔者がいなくなってホッとしてるかもな」
アヤナは眉間に皴を寄せてシュウを見る。
「冗談なら笑えませんけど」
柴田はアヤナの反応に少し躊躇してから気まずげに口を開く。
「こんな事、君には関係ないんだが。いつからか妻が俺を避けるようになってさ。何が悪いか聞いても気のせいだって言って答えてくれなくて。でも、もう5年以上は妻と一緒に出掛けてないかな。家でも俺から2mは離れて通るようになってるんだよね。
前の家族旅行は、なんやかんや理由を言って二人の子供をそれぞれ1人連れて、同じ日に箱根と軽井沢にそれぞれ行ったんだよね。もちろん、1日中会わないしホテルも別。それでいて離婚する気はないみたいで。
上の子なんかは中学に入ったら父親とは距離を取るようになって、まあそれが正常な成長なのかもしれないけど。顔も見ずにうるせぇしか言わなかったり、俺とはメシを食いたくないとか言われると、何で俺はコイツを育ててるんだろうって。何だか自分が給料製造機になったみたいでさ。」
アヤナの眉間の皴がさらに深まる。
「お話が全部本当なら家族と言うより奴隷ですね。嫌なら離婚して、お子さんの面倒をみるのも義務教育が終わるまでで良かったんじゃないですか。」
柴田は首を横に振って、苦笑いする。
「いや、それは無責任だろう。自分の意志で結婚したんだし、自分の子供なわけだから」
アヤナは、柴田を見つめたまま静かに首をかしげる。
「別に離婚は違法じゃないですし、自分の生存を握っている相手とワザワザ関係を悪くするなんて。私、馬鹿は嫌いなんです」
柴田は一瞬言葉を失い、焚き火の光をぼんやり見つめながら、少し考え込む。
「…そうかもな。一緒にやっていけないなら、別々の道を行くという選択もあったのかも。」
しばらくの沈黙の後、柴田は気を取り直したようにアヤナに聞いた。
「佐藤さんは、日本にいたら将来どんなことをしたかったんだ?」
アヤナは焚き火を見つめたまま、少し考え込むようにしてから口を開く。
「私は…地球の人口が増え続ける中で、食糧不足が深刻になると思ってるんです。それを解消するために、国際機関で働きたかったんですよ」
「国際機関?」
柴田は思いもしない進路に驚いて、アヤナをじっと見つめた。アヤナは冷静に、でも少し情熱を込めて話し始める。
「例えば、国際連合食糧農業機関(FAO)か、国際農業研究協議グループ(CGIAR)ですね。農業技術の向上や、栄養価の高い作物をもっと効率的に育てる方法を普及させたり、フードマイレージを減らせるような仕組みを作ったり。」
柴田はその言葉に圧倒された。高校生のアヤナがそんなことを考えていたとは、思ってもみなかったからだ。自分は高校生の時はもちろん、50を越えるオジサンになってもそんな事を考えた事も無かった。
柴田が会社での日々に追われ、家族を守ることで精一杯だった一方で、高校生のアヤナは世界全体を見据えた壮大なビジョンを持っていたのだ。
「それって、すごいな…。俺なんか、家族や会社のことしか考えてなかったよ。」
アヤナは少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら続ける。
「別に他利的な動機ってわけじゃなくて、功名心もあるんです。折角の人生だから、偉業に挑戦したいって気持ちも。私のごはんも確保しなきゃいけないし」
柴田は彼女の真剣な表情を見て、心から感心した。
「…そうか。すごいな」
なんとなく会話が止まって沈黙が続いた後、それを破ったのはアヤナだった。
「ふぅ、今夜は冷えるわね」
アヤナが肩を抱くようにして身震いする。薪の火は暖かいが、森の湿気を帯びた風は彼女の外套をすり抜け、肌を刺す。
「寝る前だけどコーヒーを出そうか?」
柴田が火に枝を足しながら尋ねる。
「そうしてくれると助かります」
柴田は両手にそれぞれコーヒーの入った紙コップを出すと、片方をアヤナに手渡して自分の分に口を付ける。アヤナもそれに続いた。再び訪れた沈黙の中、ふと、森の奥からかすかな羽ばたきの音が聞こえた。
「……何か音がする」
アヤナの声が低くなる。柴田も気配に気づき、手を腰の剣にやった。そして、焚き火の明かりに照らされて、夜の闇から一体の女の姿が現れた。 いや、それは女ではなかった。上半身は人間の女性、だが下半身は大きな鳥の翼と鋭い鉤爪を持つ魔物だった。その体躯は柴田とアヤナを見下ろすほど大きく、ゆうに二メートルを超えているだろう。彼女は美しい栗色の髪を風に遊ばせ、妖艶な笑みを浮かべている。
「リーヨリーヨ。 こんな所に人間がふたり……しかも、男と女? いいじゃないの。楽しませてもらおうかねぇ?」
魔物の声は妙に甘く、空気を震わせるような響きを持っていた。この時、柴田の頭はぼんやりとして咄嗟に身構えられなかった。違和感を覚えながらも、無意識に手に持ったコーヒーを口へと運ぶ。
「鳥のようだけど……顔は人間?」アヤナの声に、警戒の色が滲む。
コーヒーを口に含んだ瞬間、柴田の頭がようやく働き始める。現状を理解し、目の前の存在を改めて見据えた。昼間に遭遇した醜い小人のような生き物は、それでも人の姿をしていた。だが、今目の前にいる魔物は、まるで人と獣が溶け合ったかのような異形そのものだった。
柴田の心が警鐘を鳴らし、体が強張る。だが、驚き戸惑う彼らの様子を、魔物は別の意味に受け取ったようだった。
「リーヨリーヨ。 そんなに見とれちまってぇ……私の魅力は素敵に無敵。あたしの声を聞けば、みんな虜になっちまうんだからさ」
魔物は自信たっぷりに微笑むと、柴田たちへ一歩、また一歩と近づいた。二人の目の前まで来た魔物は、柴田から視線を外してアヤナの容姿を馬鹿にする。
「リーヨリーヨ。あんた、鼻が低くて目も小さいし、まるで平べったいお皿みたいな奇妙な顔ね!背も低くいし、手足も細くてすごく貧相だわ!」
「何ですって!」
アヤナが怒りの声を上げた時だった。(今しかねぇ……!)柴田は足元に転がっていた杖を握ると、迷わず全身の力を込めて魔物に振り下ろした。
バギィッ!
鈍い音とともに、魔物の左の翼が不自然に折れ曲がった。
「ぎゃああああっ!!!」
悲鳴が夜の森に響く。ハーピーは地面に転げ、痛みに身をよじらせた。羽根の一本や二本ではない──翼そのものが折れたのだ。
「やった……?」
柴田が杖を構えたまま様子を窺う。だが、倒れ込んだ魔物はすぐに身を起こし、憎悪に満ちた目で二人を睨みつけた。
「リーヨリーヨ。 よくもやってくれたね。でもアンタ達に風は吹いて無い。結局アンタ達は私に縊り殺されて、食われる運命に変わりは無いのさ。」
魔物は折れた翼を引きずりながらも、地を蹴って柴田に飛びかかった。
「くっ!」
柴田は杖を盾にしようとするが、鉤爪が勢いよく振り下ろされる。
ザシュッ!
「ぐあっ!」
柴田の服が裂け、腕に浅い傷が走る。間一髪で避けたものの、爪の一撃は重い。
「くそっ、コイツ、まだ動けるのかよ……!」
「リーヨリーヨ。 アンタのせいでぇ……飛べなくなっちまったんだよぉ!! どうしてくれるんだい!? 許さねぇぞ!!」
魔物の怒声が響く。飛ぶことを前提とした戦闘スタイルの彼女は、地に縛られたことで戦い方が大きく狂ったのだろう。しかし、彼女は人より大型の魔物だ。地上でも十分に脅威だった。
「柴田さん!」
アヤナは距離を取ると、声を上げると同時に小石を拾い、魔物の顔目がけて投げつけた。
「ちっ!」
石が顔に当たり、魔物がわずかに怯んだ。
「リーヨリーヨ。憎たらしい小娘め……でも、そんなもんであたしが倒れると思うかい?」
魔物は鋭い目つきでアヤナを睨む。
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでこっちに来るの!?」
アヤナは慌てて後ずさるが、魔物の爪が彼女の外套を裂く。
「うわっ!」
紙一重でかわしながら、アヤナは柴田に叫ぶ。
「早く何とかしなさいよ!!」
「無茶言うな!」
柴田も必死だった。彼は杖を構え直し、魔物がアヤナを狙って隙を見せた瞬間を狙う。今度は、もう一撃、決定的な一撃を叩き込むしかない!だが、それを察したのか、魔物も必死の形相で構える。泥まみれになりながら、獣のような唸り声をあげた。
飛べない鳥の魔物と、戦闘経験のない二人──戦いは、泥仕合の様相を呈し始めた。焚き火の灯りが揺れる中、互いに決定打を欠いたまま、息も絶え絶えの攻防が続く。そしてついにアヤナは吹き飛ばされて転がり、柴田も倒されて魔物に伸し掛かられる。
「リーヨリーヨ。 これで止めさ」
止めを刺そうと腕を振り上げ、威嚇の為か残った翼も大きく開いた。しかしその時、突然吹いた風が片翼が折れてバランスを欠いた魔物を一瞬よろめかせる。
「風が吹いたぜ!」
柴田は魔物を押して仰向けに倒す。その後ろではアヤナが杖を振り上げて立っていた。ゴッ。アヤナの杖が魔物の顔面に振り下ろされた。
「ギャッ、ギャピ」
「リーヨリーヨ。 あなたの顔は平べったいどころか抉れてるようよ。それに体も貧相でまるで鶏ガラのようだわ。あっ、鳥だったわね、ハゲワシみたいに汚らしい」
そう冷たく言い放ったアヤナは、仁王立ちで振り下ろした杖を手放した。その時、魔物をよろめかせた風がもう一度吹いた。(そうはならんやろ!)アヤナの服の正面が肌着も含めて身体の中心に沿ってスッパリと切れて風ではためいた。
そう言えばアヤナは魔物に吹き飛ばされる前に、魔物の爪を受けていた。しかし、それで切られたにしては、傷一つない綺麗な身体のように見える。魔物の爪は女子高生にしては大きなふくらみの間を神業のように通り抜けたのだろうか。
柴田はアヤナの死んだような目が自分に注がれているのに気付いて考察を止めた。