第6話 原生林を進め
森の中を進む柴田とアヤナ。昼間とはいえ、森の奥は薄暗く、木々の間から漏れる陽光も頼りない。風が枝葉を揺らし、時折、小動物の走る気配が足元をかすめる。
「まあ、方角は分かったし、あとは歩くだけですね」
アヤナがそう言って前を向く。柴田も軽く頷いたが、気を抜くわけにはいかなかった。森の中には獣道のような細い道があるものの、足元には落ち葉が積もり、その下がどうなっているのか分からない。
「油断するなよ。こういう時に限って変なことが起こるんだからな」
「気をつけますけど、こんな深い森を歩いたことはなくて、思ったより進むのが大変ですね……」
その言葉が終わるよりも早く、柴田の足がずぶりと沈んだ。
「うわっ!?」
不意にバランスを崩し、柴田の身体がぐらつく。彼の片足は、枯葉に隠れていた泥濘にはまり込んでいた。
「ちょっと、なにやってるのよ!」
アヤナが呆れたように手を差し出す。柴田は彼女の手を掴み、なんとか引っ張り上げてもらったが、ズボンの裾は泥まみれになっていた。
「くそ、こんな落とし穴みたいな場所があるとはな……」
「何があるか分かりませんから、気をつけてくださいね」
アヤナは柴田の服についた泥を軽く払ってくれたが、口調はどこか呆れ気味だった。柴田はため息をつきつつ、再び歩き始める。
だが、次のトラブルはすぐにやってきた。
細い道を進むうちに、アヤナが突然足を止める。
「……ん? ちょっと待って」
柴田が不思議そうに彼女を振り返ると、アヤナは足元を見て、少し困ったような顔をしていた。
「動けない……」
「は?」
「なんか、ツタが絡まってるみたい……」
見ると、アヤナの足首に蔦が絡まっていた。森の下生えに紛れていたそれは、偶然にも彼女の足に巻きつき、引っ張ろうとするたびにきつく締まってしまっているようだった。
「くっ、動けない……これ、どうやって抜け出すの!?」
「待ってろ、すぐに切る」
柴田は腰のナイフを抜き、慎重にツタを切る。根元から順番に刃を入れると、やがてアヤナの足を縛っていたツタが弾けるように緩んだ。
「ふう、助かった……。これ、もし一人だったら危なかったかも」
「だな。君も気をつけろよ」
二人は再び歩き始めたが、森の中はさらに暗くなりつつあった。周囲では鳥の鳴き声が減り、代わりに草むらで小さな生き物が動く音が響く。
そして三度目のトラブルがやってきたのは、その時だった。
突然、頭上の枝が揺れ、大きな影が飛び出した。
「っ!」
「きゃっ!」
柴田の目の前を黒い影がかすめ、鋭い爪が彼の肩を引っ掻いていった。
「くそっ、なんだ……?」
肩を押さえると、じんわりと血が滲んでいる。見上げると、一本の木の上に大きな鳥のシルエットがあった。翼を広げ、鋭い目でこちらを睨んでいる。
「おそらく、縄張りを荒らされたと思ったのではないでしょうか」
「そんなつもりはなかったんだけどな……」
柴田は静かに後ずさる。鳥はもう一度羽を広げたが、こちらが動かないと分かると、ゆっくりと翼を畳んだ。そして、一声鳴いて森の奥へ飛び去る。
しばらくの間、二人はその場でじっとしていた。
「……もう、今日は散々ですね。魔物がいなくてもこんなに大変だなんて」
「同感だ」
柴田はため息をつきながら、もう一度西の方角を確かめた。空はすっかり橙色に染まり、森の影が濃くなってきていた。
「日が暮れるな……そろそろ寝る場所を探さないとまずいな」
アヤナは少し不安げに周囲を見渡しながら答えた。
「でも、こんな深い森の中じゃ、どこもかしこも危険そうよ……」
「そうだな。火を焚ける場所があればいいんだけど……」
二人はしばらく歩き続けたが、空の色がどんどん変わり、森の中が暗くなる一歩手前になった。足元を照らすわずかな光が道を見失わせないようにしてくれるが、それも長くは続かないだろう。
その時、ふと目の前に目を引くものが現れた。
「ん? これ、なんだ?」
見渡すと、森の中に大きな岩がいくつか点在している。中でも目立つのは、割れたような形で半分埋まった岩の塊だ。その周りには、小さな岩や岩の破片が散らばっているが、ちょうどその中心に位置すれば、火を焚いても周囲に延焼する心配はなさそうだ。
「これ、ちょうどいいんじゃないか?」
「本当ね……ちょっと周りを調べてみましょう」
アヤナと柴田は足早にその場所に向かい、まずは周囲を慎重に調べ始めた。小さな石や枯れた枝を払い除け、火を焚くためのスペースを確保する。森の中では湿気が多く、火をつけるには少し手間取るだろうが、ここなら岩が周囲を囲っていて風の影響を受けにくい。
「よし、この辺りならなんとかなるか」
柴田が腰を屈めて枯れ木を集め始めると、アヤナも周囲をさらに確認しながら小さな枝を拾い集める。落ち葉を集めてその上に枝を並べた後、柴田はナイフを取り出し、木の皮を削っておが屑のようなものを作り始めた。
雑誌で読んだキャンプの知識を思い出し、いきなり大きな枝に火をつけるのではなく、火がつきやすいおが屑を作った方が良いと気づいたのだ。不格好ながらも一生懸命木くずを作り、ようやくそれが一定の量になったところで、柴田は火打石と鉄片を取り出して火を点け始める。
だが、何度も擦っては火花を飛ばすものの、なかなか火がつかない。焦りの色が二人の顔に浮かんだ。
「くそっ、どうしてもつかないな……ファイヤースターターがあれば、もっと簡単に火がつくのに」
柴田がぶつ ぶつと言いながら、苛立ちを抑えきれない様子で火打石を振る。アヤナがちらりと彼を見て、首をかしげた。
「キャンプでもやっていたんですか?」
「いや、実際にやったことはないけど……雑誌を買って読んだことはあるんだ。いずれやろうと思ってさ」
アヤナはその答えを聞いて、思わず苦笑を漏らした。
「ふふっ、勉強熱心なのは良いことです」
「まあ、そうだな」
二人は少し苦笑しながら、再度火打石を使って火を起こそうとする。少しの間、沈黙が流れたが、やっと火打石と鉄片がうまく作用し、パチパチと小さな火花が木の葉の上に落ちる。
「よし、今度こそ……」
柴田が慎重に火種を囲うようにして枯れ木を積み重ねると、ついに火がつき煙が立ち上った。
「やっと……ついた」
アヤナも安堵のため息をつきながら、火をじっと見守った。森の中に暖かな明かりが広がり、二人はようやく安全な夜を迎えられる準備が整った。
「ふう……これで明日まで何とか持たせないとな」
柴田とアヤナは、焚き火の炎を見守りながら、小さな鍋を火にかけた。柴田がナイフを取り出し、硬いパンを慎重に削り始める。そのナイフの刃がパンに食い込むと、パリッとした音が響き、細かいパン屑が地面に落ちる。アヤナは隣で、干し肉をナイフで薄く切り分けながら、「こういう素朴な料理もよいですが、街では別の方向の食事も悪くないでしょうね」と零した。
「大丈夫だ、塩があれば味はつくだろう」と柴田は笑みを浮かべながら答えた。
鍋の中の湯が少しずつ温まると、柴田は削ったパンを小さな塊にして湯に投入した。パンはすぐに湯に吸収され、フワッと膨らんでいった。続いて、干し肉を加え、もう一度ナイフで切りながら肉を小さくして鍋に放り込む。
肉が湯の中でほぐれ、だんだんとその旨味が湯に溶け出していった。しばらくすると、鍋の中から湯気が立ち上り、ほんのり香ばしい香りが漂ってくる。
「思ったより良い香り。これなら、塩だけでも。」とアヤナが呟く。
湯が完全に温まると、柴田は鍋を火から下ろし、ふたりはそのまま鍋を持ち寄る。お互いに注意深くスープをすくい取り、手元の木皿に注ぐ。そのスープは、塩と肉の味がしっかり染み込んでいて、ひと口飲むと温かさと共にほっとするような味わいが広がった。
「これで少しは元気が出るだろう」と柴田が言い、アヤナも頷く。ふたりは静かに、温かいスープを飲みながら、焚き火のそばに座り込み、食事を楽しんだ。二人は岩の近くに腰を下ろし、焚き火の周りに背を預ける。薄暗い森の中で、オレンジ色の炎が二人の顔を照らし、静かな時間が流れていく。焚き火の音だけが、夜の森の静けさの中で響く。