第57話 闇に待つもの
シュウは洞窟の入口をくぐった途端、ひやりと湿った空気に包まれ、思わずブルリと体を震わせた。濡れた岩壁は揺れる松明の光を鈍く反射し、靴底にはぬるりとした感触が伝わる。数歩進むだけで外の濃い草木の匂いは消え、泥や湿った岩の匂いの中に、かすかなカビと、微かな鉄さびの匂いが混じってくる。
濡れた岩床は音を吸い込むのか、前を進む仲間たちの足音はほとんど聞こえない。静かな洞窟の中には、身につけた金具が触れ合う、カチャカチャというかすかな音だけが響いていた。
前に目を向ければ、松明に照らされた仲間たちの背が見える。だが、二、三歩先を進むアヤナでさえ、後姿の膝から下は闇に沈んでいた。その前を行くロレンツィオは、揺れる光の中で背と輪郭がかすかに浮かぶ程度だ。先頭のフィオやバルドとなると、闇の奥でチラつく小さな明かりにしか見えなかった。
洞窟の入口から歩き始めて五分ほど経ったころだった。一行は、右手の岩壁が緩やかにえぐれ、その奥に黒い裂け目が口を開けているのを見つけた。全員が足を止め、脇の暗がりをのぞき込む。
「……分かれ道か」バルドが大斧を肩から下ろして床に突く。「いや、狭いな。脇道か」
「さて、どちらに行くか」ロレンツィオが顎に手を当てると、フィオが身を乗り出して答えた。
「こっちに行こうよ!」元気よく指さしたのは、脇道の方だった。
「理由は?」アヤナが一応聞き返す。
「だって、なんか面白そうじゃない?」フィオの返答はあまりに単純だった。
「面白いかどうかはともかく……」とシュウが口を挟む。「もし脇道にコボルトが潜んでいたら、奥でコボルトと遭遇した時に挟まれる可能性があります。先に確認した方が安全じゃないでしょうか」
「だが、全員でいくほどことじゃないだろう」バルドが言う。
「そう……ですね。どうせ一人ずつしか通れません。主力は奥でしょうし、ここをバルドさんに守ってもらって、誰かが見にいくのが良いでしょう」シュウが続けた。
「はい、は~い。私が見てくるのよ」フィオが元気よく手を上げる。
「脇道にも何か発見があるかもしれん。よし、私が見てこよう」ロレンツィオもそう言うと、脇道に入っていく。
「あっ、待ってよ」彼を追ってフィオが駆け出す。
二人は松明を掲げ、暗闇へと消えていった。残されたシュウたちは入口の前で待つ。静かな洞窟に、しばらくは焚きしめられる松明の音だけが響いた。
シュウは、二人の消えていった暗闇を見ながら考えた。入口にいたコボルトがフィオの一撃で倒されたことを思えば、余程の数でなければ心配はいらないはずだ。正面にはバルドがいる。奥から何か出てきても問題ないハズだ。なら、自分が気にすべきは後ろか。
シュウは入口側へ向き直り、干し草用のフォーク――ピッチフォークを右手に構え、柄を床に突いた。それでも落ち着かず、時折脇道をのぞいては、また洞窟の奥へと視線を戻す。アヤナも壁を背に、三方へとチラチラと視線を巡らせていた。一方、バルドは度胸が違うのか、特に緊張した様子もなく、ただ奥を見据えて立っていた。
十分ほどして、ようやく二つの灯りが戻ってくる。
「何もなかった」「何もなかったよ……」ロレンツィオとフィオは肩を落としながら報告した。
「何もって、コボルトの痕跡くらいなかったのかい?」シュウはフィオに聞いてみた。
「全然、全く。金貨も、何かがいた跡も、何も無しよ。つまんない」
フィオは大げさにため息をついた。
「それは……お疲れ様だったね」シュウは、それ以上かける言葉を見つけられなかった。
「よし、奥に行くぞ」バルドの短い号令に、一行は再び洞窟の奥へと進み始めた。
脇道の探索も空振りに終わり、シュウの中で、洞窟に入った当初の緊張も少しずつ薄れていった。しかも暗い洞窟の中では、見えるのは自分の足元とアヤナの後姿、その膝から上くらいである。松明の光は照らすよりも、目の前の凹凸の陰影をより濃くしているようで、その輪郭を深く強調していた。
自然に視線が吸い寄せられる。少し気まずい思いをした彼は意識を切り替えようと、ここまでの旅を思いおこす。そうしているうちに、フィオの歌が頭に浮かんだ。
森かげ小道 小さな足
夕陽色の石 ひろってはこぶ
だれも見てない ひみつ道
小さな手が そっとかくして
くすくす笑い いっぱい踊る
地面の下で 見ている誰か
その続きは何だったか。ひみつ道はここまでの獣道か、それともこの洞窟か。小さな足、小さな手はきっとコボルトのことだろう。それにしても、誰が作ったのだろう。偶然だろうか。ぼうっと前を見ながら歩いていると、視線を感じたのかアヤナが振り返り、睨まれた。シュウは再び視線を外した。
二つ目の分岐は、ロレンツィオが辞退し、フィオ、シュウ、アヤナの三人で見にいくことになった。反応の早いフィオを先頭に立たせ、続くシュウは、彼女の頭越しにピッチフォークを構える。急に跳びはねたりしないよう、事前に言い含めてある。
最後尾のアヤナは、積極的に戦力として数えられるとは言い難い。それでも彼女は、バルドやロレンツィオと分岐に残るより、シュウたちと行動する方を選んだ。分岐には二人が控えている。後ろから襲われる心配はない。少なくとも、シュウはそう判断していた。
バルドがいないことに、わずかな不安は残ったが、幸いというべきか、この分岐も空振りに終わる。一番奥にあったのは、掘ろうとした跡の残る岩壁だけだった。古い採掘道具も木片もなく、獣臭さやカビ臭さも感じられない。ただ、湿った岩の匂いが静かに漂っているだけだ。
少しがっかりしながらも、シュウは引き返すことにした。来たときと同じ並びで戻ろうとしたが、フィオは二人の足元をチョロチョロとすり抜け、何事もなかったように先頭へと回り込んだ。そうして分岐まで戻ると、一行はさらに奥へと進んだ。
二つ目の分岐を越えて数分も進んだ頃、ふいにフィオが足を止めた。
「……待って。匂いがする」
囁くような声だったが、先頭を行くバルドは即座に足を止めた。シュウも思わず鼻をひくつかせたが、湿った岩と土の匂い以外、何も分からなかった。
「少し進むぞ。静かに」
バルドが短く合図すると、自然と隊列の間隔が詰まった。一歩ずつ慎重に進むと、僅かだが血の匂いと腐敗臭、カビ臭さが空気に混じる。自然洞窟には似つかわしくない匂いだ。通路はその先で、緩やかに右へと曲がっている。松明の光は曲がり角の向こうまでは届かず、闇が先を隠していた。
ザラッという擦れる音と共にロレンツィオが長剣を抜いた。フィオはくの字の短剣を、シュウはピックフォークを、アヤナは長杖を構える。数歩、さらに数歩。やがて曲がり角を越えた瞬間、視界がふっと開けた。通路の先は、わずかに広がった半広間になっている。そこにいくつかの影が浮かび上がった。
そいつらは、突然照らされた松明の明かりに、目の上に手をかざして庇う。バルドが半広間へ一歩踏み込むのに合わせ、残りの一行も反射的に左右へ散開する。そこには入口で見たコボルトが三匹、立ち上がっていた。足元には肉の切れ端と、革の袋が落ちている。酒の匂いもするので、袋の中身は酒だろうとシュウは当たりをつけた。
「ガルッ、ズグラァ? ズグラァ、ナッ!」一匹がこちらを指さし、吠える。
「グル・インダ! インダ・ナッ!」「ゴラァ! オウト! オウト!」
残り二匹も手を振ってがなり立てる。そこにバルドが一歩足を踏み出す。
「ズガッ! オウトル!」
コボルト達は一声叫ぶと、後ろを向いて脱兎のごとく逃げ去った。
「逃がすな!」
バルドの低い号令と同時に、彼は先頭に立って駆け出した。半広間の向こうも同じような洞窟が続く。再び一列になる一行。後ろから続くシュウには、コボルトは既に見えない。だが、その追跡は唐突に終わった。
「うおっ」「きゃっ」「何っ」
バルド、フィオ、ロレンツィオの声が立て続けに上がり、アヤナの足が急に止まる。シュウは思わずぶつかりそうになり、とっさにアヤナの肩に手をついて踏みとどまった。その拍子に、彼女の肩越しに、壁から突き出した棒状のものが視界に入る。
アヤナは振り返らなかったが、シュウは急いで手を離し、横から前を覗き込んだ。
「下がれ」
バルドの声に従い、一行はいったん後退する。半広間まで戻ったところで、全員が顔をそろえた。
「何があったんですか」
シュウは問いながら、ロレンツィオの足から血が流れていることに気付いた。
「槍よ。壁から飛び出してきたの」
フィオが短く答える。その横で、アヤナがすぐにロレンツィオの足の手当てを始めた。どうやらバルドとフィオの前にも槍は突き出されたようだが、間一髪でかわしたらしい。
「俺の前には二本出てきた。お前らは?」「三本よ」「二本だ」
バルドの問いに、フィオ、ロレンツィオが答える。それぞれの話を合わせると、少なくとも槍は七本、全て右の壁からで、バルドの腰から膝くらいの高さだったらしい。
「その高さからすると、コボルトが壁の向こうから槍を突き出しているのでしょうか」
足の手当てをしながら、アヤナが言う。慌てた様子がないことから、彼のケガは大したことがなさそうだ。
「じゃあ、さっきのコボルト達が逃げたのは誘いだったのか」
シュウは、半広間にいたコボルトを思い出す。
「それで、どうしたらいいと思います」
「突破するしかあるまい」バルドは通路の闇を見据えたまま言う。
「くぐり抜けたらいいよ」フィオが言った。
「何かで穴をふさぐか」ロレンツィオが続ける。だが、意見はまとまらない。
「……こういうのはどうでしょう?」しばらくして、シュウが切り出した。




