第5話 コーヒーギフト
「ふ~ぅ、染みるなぁ」
柴田はゴツゴツした石の上に腰を下ろし、新たに召喚した紙コップを片手にゆっくりと息を吐いた。 自分の使った恩恵が異世界転移説に説得力を与え、柴田の中でも八対二くらいでここが異世界であると信じられそうになっていた。
「何ですかソレ。異世界で、しかも初めて自分の恩恵で出したコーヒーですよ。もうちょっと何か無いのですか?」
アヤナは倒木に腰掛けながら、肩をすくめて言う。あまりにも平凡で日常的な柴田の呟きに、彼女の言葉は思わず咎めるようになってしまった。彼女も柴田から受け取った紙コップを両手で包み、指先で軽く回しながら、コーヒーの味をどう表現しようか考える。
「え、じゃあ。う~ん……この瞬間が世界を名作にする、とか」
「昔のCMとかですか。絶対今考えた言葉選びじゃないですよね」
アヤナは不審そうに柴田にジト目を向けながら、コーヒーをチビチビと口に運ぶ。その仕草を横目で見ながら、柴田は気恥ずかし気に呟いた。
「くっ、人間50年も生きていると1回くらい名言を考えたくなるんだよ」
「悪くないですよ、ソレ」
スベった話をフォローするように、アヤナは紙コップへと視線を逸らした。気まずい思いの柴田は腰を動かして石の上で座り直す。コーヒーはいつも会社で飲んでいた紙コップの自販の味だ。しかし、この異世界の澄んだ空気の中で飲むと、どこか違って感じる気がした。
「異世界ってのは信じがたいが、それは今は置いとこう。とにかく、森の中が危険なら早くここを出たほうがいい。……で、どっちへ行けばいい?」
柴田は腕を組みながら、周囲の森を見渡した。木々は高くそびえ、昼間にもかかわらず薄暗い。地面には湿った落ち葉が積もり、ところどころに獣の足跡らしきくぼみが残っている。風が吹くたび、木の葉がざわめき、不安を煽るようだった。
「話が早くて助かります。ただ、街まで歩いて2~3日かかるってことは分かっていますけど、コレじゃどっちに行けばいいか分からないんですよね」
アヤナは冷静に答えながら、周囲の景色を見回した。彼女の長い黒髪が風に揺れる。突然この異世界に飛ばされても、取り乱すどころか、状況を分析しようとしているのが見て取れた。
「……うーん、それは厄介だな。でも、まあ悩んでても仕方ないか」
柴田は軽く頭をかきながらため息をついた。どこへ進むべきかの手がかりはまるでない。森の奥は暗く、空を見上げても木々が入り組んでいて太陽の位置すら分からなかった。
「木に登れば、何か見えるかもしれないな」
そう言って、柴田は周囲を見渡し、登れそうな木を探した。最初に目をつけたのはモミの木だったが、針葉樹の幹は滑らかで登るのには向いていないとすぐに判断した。
次にブナの木を見上げると、確かに幹は太く見えるものの、枝が高いところに集中しているため足場を見つけるのは難しそうだ。
最後にオークの木に目を止めると、幹が太くて頑丈で、途中に足場になりそうな枝がいくつも見えた。これなら登れそうだと確信し、柴田はオークに向かって歩みを進めた。
柴田は慎重に木に手をかける。50代の体の感覚がまだ残っていて、思わず「無理をしたら筋を痛めるかも」と考えたが、その不安はすぐに消えた。腕を引けば軽々と体が持ち上がり、足場を変えるたびに筋肉がしなやかに動く。まるで30年以上前に戻ったかのようだ。
驚きと戸惑いを感じつつも、次第に楽しさが湧いてくる。調子に乗って少し勢いをつけると、気づけばあっという間に高い枝へと到達していた。幹の分かれ目に腰を下ろし、地上を見下ろして深呼吸する。「まだまだ、やれるもんだな」と、思わず口元がほころんだ。
柴田は幹に寄りかかり、木の上から広がる景色を見渡す。澄み切った青空の下、一面に広がる森。その先には地平線に向かって続く広大な平原があり、どこか遠くにポツンと街らしきが物がぽつりと見えるだけだった。
鬱蒼とした木々の海。濃い緑が波のようにうねり、風が吹くたび葉がさざめいて森全体が呼吸しているようだ。その奥には広々とした平原が広がり、絨毯のような緑と白や黄色の模様は草木や花々が生い茂っているのだろう。遠くの街を除いて人工物らしいものは一切映らない。送電線もなければ、鉄塔もない。アスファルトの道路も線路も電波塔も高架橋もない。ただ自然だけが、そこにある。
「…すげぇな。」
思わず声が漏れる。目の前に広がる景色に圧倒されたのは、これが初めてではない。だが、こうして上空からこの広大な自然を見下ろした感動は、柴田の胸の奥を深く揺さぶった。
日本で柴田が知っている「自然」とは全く違う。観光地で見かける「緑」は整備されていて、どこか人工的だった。山や森を訪れたとしても、視界の端には必ず人の手が入った何かが映り込む。山道には安全のための柵や看板、切り開かれた舗装路、そして遠くに見える人の住む家々。そんな景色は美しいとはいえ、どこか「管理された自然」という感覚を拭いきれなかった。
そして、都心の生活を思い返す。無数のビルがひしめき合い、空の隙間を奪い合うように立ち並ぶ景色。交通量の多い道路の上には電線が張り巡らされ、窮屈な視界をさらに縛る。どこに行っても人の気配があり、誰かの生活感が漂っている。
だが、ここは違う。人間の痕跡など存在しない、完全な自然が支配する世界。目の前の森はどこまでも広がり、その先の平原もまた無限に続いているように見える。空気は澄み切り、鳥のさえずりや風に揺れる木々の音がシュウの耳を満たす。自然そのものが放つ生命の息吹が全身を包み込んでくるようだった。
「日本の山とか森が狭いって言うつもりはないけど、こうしてみると、人間がいないだけでこんなにも違うんだな…。」
この壮大な光景に、シュウは異世界に来た実感を改めて噛みしめる。誰もいない、何もない。ただ広がる自然の中にいるということが、これほどまでに心を震わせるものなのか。胸がざわつき、何か大きなものに触れた気がした。
「ここが俺の今いる世界なんだな…。」
思わず呟いた言葉は、風にさらわれていく。鬱蒼とした森、続く平原、そしてその先の小さな街。シュウはそのすべてを瞳に焼き付けながら、自分がいる場所の広大さ、そしてその厳しさを改めて感じていた。
柴田は木の幹に手をかけながら慎重に足を滑らせ、数メートルの高さから地面へと飛び降りた。落ち葉がふわりと舞い、足元でわずかにクッションとなる。
「どうでした?」アヤナがすぐさま駆け寄る。
「やっぱりなかなか厳しいな」柴田は軽く息を整えながら、見てきた光景を整理するように答えた。「この森を抜けるまで10キロくらいだろうけど、ここと同じような道なんてない原生林のようになっていると思う。最短でも1日はかかるし、場合によっては2日かかるもしれないな」
「そんなに……」アヤナは周囲を見渡した。確かに、この森の奥に進めば進むほど木々は太く、高く、鬱蒼としている。昼間でも薄暗く、生き物の気配も濃厚だ。
「それに、森を抜けた先も楽じゃない。そこから街までも10キロはありそうだけど、地形が問題だ。平らな平原というより、なだらかな丘がいくつも連なっている。見た目より距離が伸びるし、移動には半日はかかりそうだ」
アヤナは柴田の言葉を聞きながら腕を組んだ。「つまり、順調にいっても1日半、悪くすると3日かかるってことですね」
「ああ」柴田は周囲を見回した。「できれば夜までに少しでも進みたいところだけど、どうする?」
柴田は考え込んだあと、小さく頷いた。「行きましょう。ここにいても安全とは限らないし、夜になる前に、進めるところまで進んでおいた方がいいと思います」
柴田は苦笑しながら肩をすくめた。「だよな。じゃあ、行くか」
二人は森の奥へと歩を進めた。光の届かぬ深い緑の中へと。