第38話 冷血の瞳
アローデールを出て四日目の朝も、彼らは荷馬車を進めて平原を行く。陽に焼けた草の匂いと、低く吹き抜ける風ばかりが変わらぬ旅路を彩っていた。しかし道すがら現れる村々は、確かに少しずつ様子を変えていた。
旅の最初の頃に訪れた村々は、街の経済圏に組み込まれているのか比較的物資に溢れ、畑も大きくそれなり秩序立っていた。しかし、段々と訪れる村の畑は狭く、無秩序に、そして村人の住まう家々も貧しく、みすぼらしい物になっていくようだった。その日、泊った集落はこれまでで最も小さいものだった。
日の出からほどなくして、昨夜泊まった集落を後にした。馬車は平原を抜ける街道を、ぎしぎしと音を立てながら進んでいく。朝の光はまだ柔らかく、東の空は淡い金色に染まり、地面に落ちた露がきらめいていた。シュウとアヤナは馬車の少し後ろを並んで歩き、乾いた街道に靴音を刻む。
「いよいよ今日、バルド様の村に着くね」
シュウは隣を歩くアヤナに微笑み掛ける。彼は雄大な自然の中を歩くこの旅を、楽しんではいたのだが、それでも食事や寝床には色々と不自由を覚えていた。今日、そこに一区切りがつくとなると、それはそれで歓迎していた。
「そうですね。ずっと歩くのには辟易してきましたけど、何事もなく無事に着きそうで良かったです」
やや疲労の浮かんだアヤナの顔も、嬉しそうに見える。それフラグだよ。シュウはアヤナの言葉に一瞬そんなことを考えたが、まあ小説でもあるまいしと思い直して、それを口にする事はなかった。
それから一行は街道を進み続け、青みを残す空に、陽が穏やかな角度で差し込む頃、次の集落を通り抜けた。集落ではアヤナがいつものようにタマネギを売っており、ついに彼女は積み荷の何割を売り切った。とはいえ、それもここまでで、彼らの進む道は街道を逸れて森の中へと入り込む。その先にはバルドの村しかないのだから。
街道の集落を出てから約二時間、バルドの村の住人しか使わないであろう脇道を半分以上も過ぎた頃、バルドは急に馬車を止めた。
「バルド様、どうしたのですか?」
訝しんだアヤナが聞くが、彼は御者台を降りてしゃがみ込む。二人が彼の近くに回り込み、その手元を見ると何かの骨をつまんでいた。よく見ると、彼の足元にはまだ同じような骨が散らばっていた。ただし、人の骨のような大きい物ではない。
「それ何ですか?」
「鶏の骨だな」
今度はシュウが聞いてみたが、答えは端的に返って来た。シュウは森に鶏の骨があったとしても、それが大して重要なものだとは思えなかった。フライドチキンではないが、誰が鶏肉を食べながら森を歩いて、投げ捨てただけではないかと考えたからだ。
「そこにロープの切れ端がありますね。ひょっとして、誰かがここに鶏をつないでいた? でもなぜ?」
アヤナは小首を傾げて、頬に指を添え考える。しかし、バルドは鼻をクンクンとさせ、何かを嗅ぎ始める。シュウも同じようにやってみると、微かに煙の匂いがした。バルドは匂いを嗅ぐのを止めると、荷台から自分の大斧を引っ張り出す。そして荷台から降りて、手綱を近くの木に縛った。
「何か変だ。お前ら下手に動くなよ」
そう言うと、バルドは腰を落として斧を構える。それから、息を潜めて周囲の気配を探っているようだった。シュウも周囲を見回したが、何も怪しいものは見つからない。彼は動かないでいようと思ったが、バルドの斧が届く範囲は危険な気がした。
今度は避難先はないかと見回したところ、荷台の上が一番安全に見えた。何が来るにしても高さがある方が有利だろうし、見晴らしも良くなる。
「アヤナ、荷台に上がろう」
彼は荷台の縁に両手を掛けて体を持ち上げ、片足を掛けて這い上がった。彼は荷台から振り返って、アヤナに手を差し出す。
「ありがとう、シュウ」
彼女はシュウの手を取って、荷台に上がろうとする。スカートのせいで足を上げにくいが、彼が上から引っ張るので、アヤナはそれほど苦労せず荷台に上がっていく。そして、アヤナが荷台の縁に足を掛けた時、突如彼女の後ろからガサガサと音がしたかと思うと、黒い影だ飛び出して来た。
バクン
大きく広げられたトカゲのような口が、アヤナの足の左右に伸び、それが閉じる。
きゃぁっ。
悲鳴を上げるアヤナ。トカゲの口は彼女を咥えるように閉じてしまったが、シュウは両手で力の限り彼女の手を引いた。
「フンハーッ」
ビリビリビリ
閉じたように見えたトカゲの口から、アヤナがズルズルと引っ張り出される。スカートが裂けてしまったが、今はそんな事を気にする余裕はない。シュウは彼女を庇うように、自分の後ろへと引き倒すと、トカゲの方を振り返った。
「オラ~ッ」
トカゲは荷台の縁に足を掛けて、その上に頭を突き出していたが、バルドが掛け声とともに斧を振り下ろした。
「ゲェー」
荷台の陰になってよく見えないが、地面近くのトカゲの体を傷つけたようだ。その様子からトカゲの大きさは二~三メートルくらいと見当をつけた。一撃を受けたトカゲは、荷台から足を離すと、バルドに向き直る。ふうっ、とりあえず危機一髪は回避したか。そう思ったシュウは急いでアヤナに向き直る。
ようやく自分とアヤナに気を向けると、荷台のタマネギの麻袋を背に、仰向けになる彼女の足の間で、膝立ちになっていた。彼女のスカートはほとんど残っていなかったが、お陰で足が千切れたりしてないのが一目で分かる。シュウは彼女の膝を掴んで閉じたり開いたりし、足の内側、外側と確認する。
「ちょ、イヤ」
アヤナが何か言っているが、とにかく良かった。どこにも傷は無い。あの大きなトカゲにガブリとやられたように見えたが、引っ張り出すのが間に合ったようだ。安心したシュウは、やっと彼女の顔を見た。アヤナの顔は真っ赤になり、涙目になっていた。まさか、毒か?
「アヤナ、大丈夫か? やっぱりどこか噛まれたのか?」
シュウは心底心配して聞いたのだが、アヤナは彼をキッと睨みつける。
「大丈夫じゃないわよ。馬鹿ーっ」
バチン
大きな音を立てて彼の頬が叩かれた。頬を抑えて呆けるシュウに、アヤナはシッシッと手を振る。
「早く離れて下さい。着替えますから」
そこでトカゲの出現から動転していたシュウは、落ち着きを取り戻す。自分が何をやらかしたか認識したシュウは、その場で土下座した。
「ご、ゴメン。ワザとじゃないんだ」
「当たり前です。人の足の間で土下座しないで下さい」
「本当にゴメン。許してくれ。何なら踏んでくれてもいい」
「では遠慮なく」
「ぶべら」
本気で腹を立てていたのだろう彼女は、遠慮なく頭を踏みつけた。シュウの口から変な声が出る。
アヤナは、荷物から新しいワンピースを取り出し、頭から被って着込む。上半身だけ二重になってしまうが、今はそんな事をいっている場合ではない。それから二人は、荷台の上からトカゲとバルドの戦いを見守る。落ち着いて見てみると、大トカゲは暗い灰色の鱗をしていた。
あれなら地面や岩、木の幹に紛れて動かなければ見つけづらいだろう。体長は三メートルくらいで、足は意外と長く体高は一メートルくらいはありそうだ。頭はシャープどころか体に対して横幅が広く、そのせいでアヤナの下半身を丸ごと咥えられるくらい口が大きい。その内側には恐ろしい牙が並んでいた。
横幅に対して頭の縦幅はあまりなく、平べったい印象だ。ワニのように瞳孔が縦に開いた目は、頭に対して小さく、左右の端に付いている。そして、鼻の頭から顔の真ん中を通って棘が並んでおり、それは頭頂部、首の裏、背骨の上を通って尻尾の先まで続いていた。
尾の付け根の近くにはバルドの斧が付けたのだろう、大きな傷が出来ているが千切れる程ではない。そして、トカゲは地面からばかりでなく、木にも駆け上がって上からバルドに噛み付こうとしていた。これに対してバルドは斧を振り下ろそうとするが、寸前で頭を引き、かわす。
さらに彼の死角から尾を振って、足に打撃を与えようとしたりもする。バルドも身を引いて躱すが、尾の先だけは避けきれず、ビシッと痛そうな音を立てる。だが、バルドはフラつくことなく、遠ざかる尾に向けて斧を振り下ろした。
「ゲェー」
斧が空中で尾に当たり、赤い血を撒き散らす。トカゲは鳴き声を上げるが、切り落とすには至らなかった。トカゲは怒りに駆られたのか、木から地面に降りてバルドに突進する。バルドは斧を頭上まで振り上げて、一気に地表のトカゲを振り下ろそうとしたが、トカゲは逆に斧に向かって飛びあがる。
跳ね起きざまに頭突きを繰り出すトカゲ。ガッと岩を砕くような音が響き、同時に血しぶきが舞う。トカゲの頭はバルドの頭と同じ高さで、斧を受け止めていた。トカゲは頭から血が流れるのも構わず、そのまま彼に倒れ込む。バルドもさすがにその重量を押し止めることはできず、倒れ込んでしまった。
トカゲはバルドの上に乗ったまま、口を開いてその頭に噛み付こうとする。バルドは両手でその口を逸らして、噛みつきから逃れる。バルドはトカゲの下から逃れることはできないが、両手で顎を押し返し、必死に何度も噛みつきを防ぐ。そのたびに尾が振り回され、森の土や藪が跳ね飛ばされた。
シュウは長杖を握って、バルドに加勢しようと一歩を踏み出すが、後ろから肘を掴まれる。振り返ると、長い黒髪の美少女が首を振って、その行動を止めようとした。シュウは彼女と、トカゲに組み敷かれたバルドを何度も見比べる。
その時、勢い余ってバルドのすぐ横の地面に噛み付いたトカゲの首に、彼は両腕を回した。トカゲはバルドを振りほどこうと、何度も首を振るがバルドは全く離れない。シュウはこの戦いに割り込むことは止める。
首を離したら終わりだ。手を離すなよ、バルド様。シュウは手に汗握りながら、その様子を見守った。首を振るだけでは引き剥がせないと思ったのか、トカゲは周りの草木を巻き込んで体ごと転がる。しかし、バルドはそれでも離さない。
それが五分か十分続いただろうか、突然バキリとトカゲの首から音がした。その瞬間、トカゲはガックリと動かなくなる。
「まさか、噛まれないようにしていたのではなく」
「どうやら、首を締め上げていたようですね。さすが巨人殺しの英雄です」
シュウとアヤナは英雄の力を目の当たりにして驚愕した。
その後、バルドはそのまま地面に大の字に寝転んだ。さすがの彼もだいぶ疲れたのだろう。シュウは、大丈夫かと声を掛けたが、少し待ってろと言われただけだった。少し時間のできたシュウは、死んだ大トカゲに恐る恐る近付いた。
尾や足などに傷はあるが、絞め殺されたせいで、見た目に致命傷になるような傷は無い。まだ生きてやしないかと警戒しつつも、好奇心に負けて触ってみる。トカゲの鱗部分は岩のように固い。腹側も硬いが、鱗よりもはずっと柔らかかった。何だか恐竜に触っているみたいでワクワクする。
対してアヤナは、睨むように大トカゲを見てから、馬車の周りを見て回る。それから、先程の鶏の骨の辺りに行って、拾った木の枝で草や藪をどけたりした。その後も、落ちているロープを拾って、その切れ目をしげしげと見る。
「う~ん、やっぱりこの大トカゲは、鶏か何かでここに誘導されたのでしょうか」
アヤナの呟きに、バルドは起き上がって森を睨む。そして吐き捨てるように言った。
「今、考えてもしょうがねぇ。さっさと村に行くぞ」
そうしてバルドは、大トカゲの前のシュウを蹴飛ばした。シュウはよろめいて数歩たたらを踏む。
「おわっ。何をするんですか」
シュウは非難の目を向けるが、バルドはそれに構わず大トカゲの首の下に手を入れた。そしてその頭を肩に担ぐと、立ち上がった。馬鹿な、あの大きさなら二百~三百キロはあるぞ。シュウは驚愕に目の色を変える。バルドはそのまま、森の中の道を歩き始める。その速度は、普通に歩くのと遜色ないほどだった。
「シュウ、お前は馬の手綱を牽け。車輪を木の根に引っ掛けたりするなよ」
「は、はい。すぐ行きます」
シュウは、木に縛られていた手綱を解き、バルドの後を追う。馬が歩き出すと、それに引かれる荷馬車の車輪も回り始めた。
「あれが、俺の村だ」
それから約一時間、彼らは森を抜けて丘の上に立っていた。バルドが指し示す先には、十数軒の藁ぶき屋根の家が見えた。家々とそれに隣接する狭い畑は無秩序に並び、まだ粒にしか見えない人影も何だか疲れ果てているように見える。
これがバルドの村か。想像以上に難儀しそうだけど、アヤナと一緒にここで頑張ると決めたんだ。やってやろうじゃないか。そう心に誓うシュウだった。隣のアヤナに振り返ると、彼女の顔は何の感情も見せずに、村の様子を冷徹に見つめていた。




