第37話 惨劇のコーヒー、笑劇の濡れ衣
翌朝、アヤナが焚火の上で小鍋をかき混ぜていると、空き家からバルドが出てくる。それを見たアヤナが彼に声を掛けた。
「バルド様、深皿をお持ちいただければスープをお注ぎしますが、いかがですか」
「うむ」
バルドが自分の荷物から皿を出してくると、アヤナはそれにスープを注ぎ、黒パンを手渡した。同じように自分とシュウの分の器にスープを注ぎ、パンを準備する。それからまだ肌寒さを残す朝、焚火の周りに三人で座って朝食を食べる。
「バルド様に質問があります。これからご領地の仕事をお手伝いするに当たり、関係する事です」
「言ってみろ」
バルドはアヤナに先を促す。
「ご領地はアローデールよりもリヴェンベルクの方が、近いのですよね。アローデールまでいらしたのは、ひょっとして邪魔する方がいるのでしょうか?」
バルドはそれからしばらく黙って、スープを飲んでいたが、皿が空になったところで口を開いた。
「ブランシュモンの奴だ。隣の領主だが、リヴェンベルクの商人に手を回してやがる」
「なるほど、隣の領主がですか。他にも何かされるのですか?」
アヤナの問いかけに、バルドは渋い顔をして考えていたが、しばらくしてまた口を開く。
「向こうの村の奴らが、こっちの村の連中を何人も怪我させやがった。頭に来て二十人ばかり引き連れて殴り込みに行ったが、領境に五十人で待ち伏せしてやがった。しかもこっちが畑を荒らしたとか、白々しい因縁までつけやがって。人数が違いすぎて引くしかなかったが、今思い出しても腸が煮えくり返るぜ」
これは要注意ね。それを聞いたアヤナの目が細くなった。それからもアヤナは、口の重いバルドをうまく解きほぐして話を引き出していった。どうやら古い家柄のブランシュモンは、新興のバルドが気に入らないらしく、領主になった時から嫌がらせを続けているという。
シュウは場の空気を和らげようと、話が一段落ついたところでバルドにコーヒーを勧めてみた。イライラしているならと、味付けは甘めにし、もちろん、召喚はバルドから隠した。
「バルド様、コーヒーというハーブ茶ですが、いかがですか? 少し苦いですが、慣れるとくせになる味ですよ」
バルドは何も考えずに、差し出された杯を一気に飲み込み、次の瞬間噴き出した。
「ブフッ!」
バルドは口を手首でぬぐいながら、ジロリとシュウを睨む。
「ヒッ」
「マズい。甘くて、苦くて、甘い。何なんだコレは」
バルドの怒気にシュウは情けない声を上げたが、バルドは容赦なく怒鳴りつけた。
「すいません、バルド様。お口に合わなかったようで」
「全く、三百人の農夫が水底に沈んでいるという『黒きマレーン沼』の泥水だって、これよりはマシな味だろうぜ」
シュウは平謝りしたが、バルドはそれを無視して、苛立たし気に立ち上がる。
「さっさと準備をしろよ」
バルドは御者台に上がって二人の準備を催促する。二人が慌てて荷物を荷台に積み込むと、バルドはすぐに馬車を動かして、そのまま村を出るのだった。
馬車についていくアヤナは、隣を歩くシュウに、小声で囁いた。その声には面白がるような響きがあった。
「何だか神話的にマズかったようですね。ブフッって言ってましたよ」
「甘めにしたら合わなかったみたいだね。あやうく殴られるかと思ったよ」
シュウも肩をすくめて、小声で応じた。アヤナが猫のような目をして、からかうように言葉を続けた。
「領主様、コーヒーに怒る。その一瞬が世界を名作にしたかもしれませんよ」
「いや、コーヒーがマズくて殴られるオジサンとか、とんだ失敗作だよ」
アヤナはつい緩む口元を、手を当ててバルドから隠した。シュウは情けない気分になって、渋い顔をするのだった。
朝食の後、村を出た一行は街道を北へ進んだ。街道から見える景色は、なだらかな丘陵へと変わり、背の低い潅木と突き出した白い岩が点在し始める。昨日までは僅かに湿り気を帯びていた空気も、今では気持ちの良い爽やかな風に代わっていた。
二、三時間ほど進むと、街道脇の丘陵に数十頭の羊が草をはんでいるのが見えた。その近くの岩の上に、牧童らしい少年が座っている。少年は馬車に気付くと座ったまま手を振り、バルドは無視したが、シュウとアヤナは振り返した。
その後、馬車は村へと入った。しかし、バルドはここで休憩する気は無いのか、止まる様子も見せずに進み続けた。そこに村の女性たちの何人かが近寄ってきて、シュウとアヤナに並ぶように歩き出す。彼女達の一人が、アヤナに話し掛ける。
「ねぇ、アンタ達。馬車の荷は野菜か何かだろう? 売る気はないのかい?」
この問いに、アヤナは笑顔でスラスラ答えた。
「ご主人様は、この村でお止まりになる気はないようですね。ですが、タマネギを十個銀貨一枚で買うなら、ここでの休憩を提案するのもやぶさかではありません。言っておきますが、交渉は無し。多くても一袋までですよ」
シュウは昨日の半値だと思ったが、買値はさらにその三割だったことを思い出して納得する。むしろ昨日の婦人が横柄だったせいで、アヤナは値を吊り上げ、嫌がらせをしたのだろうと推測した。シュウがそんな事を考えている間に、アヤナは井戸の前にバルドの馬車を止めさせた。
そして、馬に水を飲ませる十分ぐらいの間に、袋一杯二百個以上のタマネギを完売させた。どうやらここで、アローデールの価格で売る行商は少なく、村人にもお安い買い物だったらしい。買い物客が離れると、荷馬車の車輪が再び回り出した。それに続くアヤナは、重くなった財布袋に僅かに頬を緩めた。
牧童の少年の村を抜けた馬車は、再び街道を進み始めた。街道の周囲は、朝からあまり変わらず、いくつもの丘と草原が続いている。昼過ぎ、彼らの馬車が森の傍らを通った時、濃い土の匂いが漂い、風が枝を揺らす音や、鳥の声が聞こえてきた。
「今の、カッコウの鳴き声が聞こえましたね」
アヤナが森の方を窺うと、シュウも頷きながら同じ方を見た。
「うん。何だか高原の森か、トレッキングで山にでも来た気分だね。空気も爽やかで綺麗だし。日本の観光地と違って、周りに人がいなくて、僕たちだけで独り占めしてるみたいで、ちょっとお得な気がするよ」
「私も同じように思わないでもないですが、何だかシュウは、いつもポジティブですね。昔からですか?」
アヤナは少し首を傾げてシュウに尋ねた。
「いや、何だかこっちに来てから、自然の中とか中世っぽい街並みとか、休暇で旅行に来ている気分になるせいかも。仕事中はあまり、ポジティブじゃなかったかな。開発の仕事は、ミスがないよう何度も確認するくらいのネガティブさが必要だからね。まあ、今はこの自然を楽しもうじゃないか」
「そうですね。あ、次の村が見えましたよ」
アヤナがシュウに同意した時、ちょうど馬車の先に森が開けて、その先に村が見えてきた。
「本当だね。昨日よりも村の間隔が狭いかな」
「昨日は湿地を抜けるまで、村が作れるような土地が無かったのでは?」
「ああ、そうかも」
シュウはアヤナの推測に同意した。
その村は、先ほど通り過ぎた村よりも大きいようで、周囲の畑は森から見える視界いっぱいに広がり、それを囲う木の柵が長く伸びていた。村の真ん中から白い煙が立ちのぼっている。
バルドはこの村で昼休憩を取るようで、村の空き地に荷馬車を止めた。村の女達は、荷馬車の荷が気になったようで、いつものようにアヤナが彼女らの相手をし始める。シュウは交渉を横で聞きながら、ぼんやりと村を見回した。すると、外からも見えた煙に目が止まる。
「すいません。あそこだけ煙が出てますけど、この時間に何をしてるんですか?」
シュウは馬車を見にきた老人に聞いてみた。
「ああ、あれは共同の窯だよ。パンを焼けるのは村であれ一つだからね。週に一回、火を入れた時は、交代交代一日中、焼いているんだ」
「へぇ~。じゃあ、焼きたてのパンがあるんですね。僕たちに売っては貰えませんか?」
そこまで言って、シュウはアヤナの意見が気になり、振り返って声を掛ける。
「いいよね、アヤナ?」
アヤナは女達から目を離さなかったが、シュウに向けて左手でOKのサインを送る。それからタマネギの取引を手早く済ませたアヤナがパンを三つ購入し、それを昼食とした。焼きたてのパンは素朴ながらも、ずっと硬い黒パンが続いた三人には美味しく感じられた。
さらにアヤナは積み荷から胡桃と乾燥豆を取り出し、パンに添えた。旅の昼食としては申し分ないだろう。それを見ていた村人が、胡桃と豆も売って欲しいと言うので、アヤナは勿体ぶって少量だけ高値で売った。
シュウは食後に村人の目から隠れてコーヒーを召喚し、アヤナにも手渡した。二人が静かに楽しんだコーヒーは、この世界では味わえない飲み物だっただろう。だが、理解できないバルドは、それを見ても首を振るだけだった。
馬車は、昼食を食べた村を出てから、依然として平原を抜けて行った。三人はさらに集落を一つ通り過ぎてから、夕方前に辿り着いた集落に泊まることになった。ここでもバルドは空き家に泊まったが、シュウとアヤナは昨日の泥棒のこともあって、荷台の上で寝ることにする。
二人は昨日、今日でタマネギを売って荷台に空いたスペースを寄せてみた。二人が寝転がるだけのスペースは無かったが、二人で腰を落とし、タマネギの袋に寄りかかったり、足を乗せたりして寝る体勢を作った。
その晩、二人は周りのタマネギの匂いを我慢して眠った。そのせいか、この夜は泥棒が来ることは無かったが、二人の服やアヤナの長い黒髪にタマネギの臭いが付いてしまう。翌朝、アヤナは玉ねぎの匂いが染みついた服を渋々着替え、濡れ布で黒髪を何度も拭っていた。
新しい一日が始まっても、旅路は昨日と変わらず、平原の街道を淡々と進んでいった。午前中に二つの集落を通り抜けたが、そこでも休憩がてらアヤナはタマネギを売った。その後、昼前に馬車は街道を横切る幅五メートルほどの小川の前にやってきた。バルドは小川の前で馬車を止めると、二人に呼び掛けた。
「おい、お前ら。浅いところを探せ」
これまでも小川を渡ることはあったが、川底は浅く、幅も二~三メートルといったところだったので、馬車はそのまま水に入って渡っていた。二人もズボンやスカートの裾をまくるだけで、靴を履いたまま川に入っている。だが、今度の川は幅も広く、深そうだった。
二人は顔を見合わせると、渋々バルドに従った。アヤナは外套を脱いで荷台に乗せ、二人は裾をまくって、長杖を突きながら慎重に川底の様子をさぐる。アヤナは川上に回り、シュウが川下を歩いた。川底のほとんどはシュウのふくらはぎまでしかなかったが、真ん中は膝までくるところもあった。
ふとシュウがアヤナの方を見ると、彼女は膝上までスカートをたくし上げていた。あっちの方が深いのか。彼がそう思った時、ズルっと彼女は足を深みに突っ込んでしまい、腰の下まで水に浸かってしまった。
「アヤナ、大丈夫?」
慌てて近付いていくシュウ。
「大丈夫です。来ないで下さい」
追い返そうとするアヤナだが、その時にはシュウはもう数歩というところまで近付いていた。シュウはアヤナを心配気に眺めるが、彼女は自分で深みから足を引き抜く。すでに水は膝までしかなかったが、彼女のスカートは腰あたりまでが濡れ、咄嗟に水を跳ねさせたのか上半身にも飛んでいた。
「こっちはダメですね。そちらはどうでしたか?」
濡れた服を張りつかせ、身体の線が出てしまったアヤナが、ムスッとした表情でシュウを見つめる。
「ああ、こっちは大丈夫そうだよ」
「そうですか。では、上がりましょう」
シュウの返事を聞くと、アヤナは先に立って川を出ようとする。気まずい思いで後に続くシュウに、彼女は一瞬足を止めてパシャリと彼に水を掛けた。
「うわ、ゴメンて。これはヒドイよ」
シュウのズボンは、まるでお漏らしでもしたように股間が濡れていた。トホホ、と肩を落とすシュウ。それを見たバルドが、大笑いをするのだった。その後も、馬車は平原のあまり変わらない景色の中を進み、いくつかの集落を通り過ぎ、日暮れ前に辿り着いた集落で一夜を過ごした。




