第36話 沼沢地を抜けて
北の村には午前中のうちに着くことができた。村の外の濃い緑の麦畑の隣の区画には、細く上に伸びる葉が規則正しく並んでいる。別の畑では、畝に沿って葉を茂らせた低い緑の列が伸び、その隣では黒い土の間からまばらに芽が顔を出していた。村の道沿いには、簡素な木の柵や粗末な納屋が点在し、素朴な春の農村の風景が広がっている。
「……あそこじゃないでしょうか?」
アヤナの先導で、三人は雑貨屋から聞いた農家へ向かう。木造の家屋は質素で、壁や屋根には経年の汚れや苔が目立っていた。軒先には干し草や農具が無造作に置かれている。家の前に馬車を止め、シュウが戸を叩こうとしたその時、畑の方から声がかかった。
「おーい、アンタら。うちに何の用だ」
畑から歩いてくる農夫に気付き、シュウとアヤナはそちらに向き直る。農夫が声の届く距離まで近づくと、シュウが手短に事情を説明した。
「こんにちは。僕はシュウ、隣が妻のアヤナです。馬車に乗っているのは僕たちの雇い主、バルド様。これから北へ向かうところなのですが、荷台に空きがあるので、タマネギを仕入れたいんです。
でも、アローデールの街では馬車一台分を売ってくれる店がなくて……それで雑貨屋に相談したら、こちらの農家なら、と教えてもらって来ました」
話を聞いた農夫は、なるほどと頷いた。
「タマネギなら、まだ倉にたっぷりあるよ。それこそ、売るほどにね」
農夫は三人を倉庫へ案内した。中にはすでに全体の三割ほどしか残っていなかったが、それでも荷馬車三台分はありそうだった。シュウは倉庫前に回された馬車の荷台に、農夫と二人で麻袋に詰められたタマネギを積んでいった。バルドはそれを御者台で眺め、アヤナはシュウの横で応援しているのだった。
積み込みが一段落したころ、すっとアヤナが前に出て来て値段の交渉を始めた。荷上げで疲れたシュウは、その様子を近くの木陰に腰を下ろして、見ていた。どうやら今回、アヤナは商人相手とは違い手加減しているようだった。この辺は彼女の独特の倫理観か、処世術なのかもしれない。
最終的に農夫はアヤナとの商談を楽しんだようで、笑いながら程よい値で手を打ってくれた。アヤナが気に入られたせいか、農夫はさらに三人に「村で一泊していけ」と言ってくれた。しかし、これにはバルドの苛立たしげな顔に気づいたシュウが丁寧に断りを入れた。
農夫は「また寄ってくれ」と手を振り、他の村人たちも好奇の目を向けながら三人を見送る。タマネギの取引を終えた三人は、馬車の車輪が土道をきしませながら、静かに村を後にした。
村を出てしばらく歩いていくと、段々と視界が開けていった。シュウは、この徒歩の旅が思いのほか楽しくなってきていた。
アローデールの北と東には大きな湿地帯が広がっており、いま歩いているこの街道は、その間を北東に抜けるように通った丘の上にあった。そのせいか、街道からの見晴らしはとてもいい。街道から見渡せる緑豊かな沼沢地は、遠くの森まで続いていた。
遠くまで遮るもののない解放感と、美しい自然に囲まれて、シュウは日本では感じたことのない、心が広がるような、晴れやかな気持ちを感じていた。何となく隣の足音に耳を傾けて視線を向けると、対照的にアヤナは少し不機嫌そうにしているように見えた。
今、自分達は現代の自動車があれば一、二時間で行ける距離を、何日もかけて歩いている。頭のいい彼女は、先の事を考えて、この時間を無駄とか、非効率的だとか考えているのかもしれない。シュウは少し、アヤナを和ませようと試みた。
「アヤナ。何だか凄く広いね」
シュウの言葉を聞いたアヤナは、ぷっと吹き出した。
「何ですか、その小学生のような感想は。でも確かに綺麗な景色ですね。まるで」
「そう、尾瀬みたい」「イギリスのダートムーアのようですね」
景色を表す二人の言葉は同時だったが、その場所は別々だった。
「くす。そろいませんね」「いや、全く。でも綺麗だからいいじゃないか」
思い描いた場所は違っていても、シュウはアヤナの顔が緩んだ事で満足した。それからその日の午後も、二人は沼沢地に挟まれた街道を、春の光を浴びながら歩み続けた。
日が傾き、湿地を抜けた頃、わずかに高い地に家々が寄り添う村が現れた。茅葺き屋根は冬の名残か灰色に色褪せ、壁は木骨に葦と泥を塗り込めた土壁で、雨に削られた跡がまだらに残っている。軒先や庭先には黒褐色の泥炭の塊が積まれ、陽を浴びて乾いていた。
畑には不揃いに芽吹いた葉がそよぎ、小さな柵の中では羊が二、三頭、首を下げて草を食んでいる。道端では籠を背負った女が立ち止まり、荷馬車を眺めていたが、バルドはそれを気にする事なく、村の中へと進んで行った。
しばらく、進むと数人の男達が現れ、バルドへと近寄っていく。バルドも彼らを見て荷馬車を止めた。
「バルド様、お戻りですか? 麦が売れたようで何よりでございますね」
先頭の男が、バルドを気遣うようにそう言ったが、バルドは面白くない顔をする。
「アローデールの商人どもも、業突張りばかりだったぞ」
「そうでしょうな。街に住む者は不人情な者ばかりですから。ところで何か沢山お運びのようですが、村への土産ですかな?」
「違う、それは後ろの二人の荷だ。俺の雇い人だが、荷台を貸してやっている」
「それはそれは。それでバルド様は、またあの空き家をお使いになりますか」
「ああ、一晩借りるぞ」
それで村人は離れていき、バルドも慣れた様子で一軒の空き家へと向かった。シュウとアヤナがそれに続こうとすると、村の主婦の一人が声を掛けてくる。
「なあ、アンタ。あの荷は野菜か何かかい」
主婦の問いに、微笑んで答えるアヤナ。
「ええ、あれのほとんどはタマネギですよ」
「ふ~ん。あれをこの辺で売ろうってんなら、値段次第で買ってやってもいいよ」
若干、横柄な言いようの主婦だが、それでもアヤナは笑顔を続ける。
「いいえ、あれは売り物じゃありません。バルド様のご領地はあまり野菜を作っていないようなので、自分達で食べる為に買い貯めているだけです」
「そんなこと言ったって、あの量は二人で食べきれる量じゃないだろう。すぐに痛んじまうさ。これは親切で言っているんだよ」
主婦はまだ恩着せがましい。
「う~ん、どうしてもというなら五個で銀貨一枚なら分けてもいいですよ」
「馬鹿言うんじゃないよ。アローデールでだって銀貨で十個は買えるよ」
「それなら、アローデールに買いに行くといいですよ。私達はこれからバルド様の領地へ行くので、アローデールへは行けませんから」
アヤナは威圧的な主婦にも気後れすることなく強気な値段を付ける。ここで売れなくてもいいので、引く理由は無かった。結局、この村では集まって来た主婦達に合計二百個のタマネギを売って、かなりの儲けを出した。
ただ、その様子を横で眺めていたシュウは、村の男達の何人かが、荷台のタマネギを物欲しそうに眺めていることに気づいた。シュウは、これは少し気をつけた方がいいかもしれない、と思うのだった。
空き家の前に荷馬車を止めると、バルドはさっさと中に入ろうとする。そこでシュウは彼を止めて、念のため、今夜は荷を見張って外で寝ると申し出た。だが、彼はそういう事もあるだろう、と言って空き家に引っ込んでしまう。シュウとアヤナは荷馬車の前に小さな焚火を作って寝る準備をした。
シュウは周りに人がいない事を確認すると、寝る前にシャツを脱いで濡れ布でぬぐったが、アヤナは流石にワンピースを脱ぐことなかった。彼女は一度服の中に腕を引っ込めるとスモックを襟ぐりから抜き取って、襟や袖から濡れ布を入れて拭いていた。
シュウが自分の体を拭きながら、ふとアヤナの方に目をやると、彼女はシュウに背を向けていた。彼女が手を襟から入れて動かす様子を何気なく眺めていると、それは何かをモニュモニュと拭いているようだった。いやいや、こんなん見てちゃダメだろう。
そこまで考えたシュウだったが、時すでに遅かった。その視線は、背中越しでも当然の如くアヤナに察知され、睨まれてしまう。彼は首を振りながら手を上げ、違うんです、事故だったんですと目で語り掛けようとしたが、彼女の目は冷たいままだった。
二人は荷馬車と焚火の間に腰を下ろすと、毛織物の布を掛け、荷台に背をもたれかかるようにして寝ることにする。旅の間、夫婦を偽装している二人は、寄り添って寝ているように見せて、その間は僅かに隙間が空いていた。それは彼女の心の距離なのだろう。
シュウは夜中、肩を揺すられて目を覚ます。何か柔らかい温かい物が、むにゅりと自分の胸に押し当てられている。目を開くと、アヤナの顔がすぐ近くにあった。彼女はシュウの肩に手を置き、シュウにのしかかるように身体を寄せていた。
いつの間にかアヤナとの距離がほとんどなくなっていることに気づき、慌てて体が硬直した。これまでそんな素振りも無かったのに、急にどうしたのかと戸惑うシュウ。その彼の口に、アヤナの唇が近付いていく。だが、そのまま頬の上を通過して、耳元で止まった。囁き声が聞こえる。
「誰かいます。一人じゃない。馬車の反対側です」
その言葉の内容を頭が認識した時、シュウは冷や水を浴びせられた気がした。勘違いに赤面する場合じゃない。シュウは、ふうっと一息ついて自分を落ち着けようとした。それから肩に当てられた、アヤナの手に軽くタップし、離れてもらうと、長杖をとってそっと起きた。
シュウは馬車の荷台に隠れるように屈み、足音を忍ばせてゆっくりと反対側へ回り込もうとする。やがて荷台の角を曲がったところで人影が見えた。人数は三人か。一人が荷台の上にのり、残り二人が荷台の下で待っている。
彼らがいるのは馬車を挟んで焚火と反対側だし、今夜は星明りしか無いので、彼らの顔は確認できない。おそらく三人とも、身長はシュウと同じか低いくらいで、少なくとも大きな武器を持っているようには見えない。それを確認している内に、上の一人がタマネギの袋を担いで下に下ろそうとする。
シュウはすぅと深く息を吸い込むと、出来る限り大声で怒鳴った。
「こら、お前ら!何やってる」
逆切れして襲って来ないかと、内心ビクビクしていたシュウだが、男達はそれを聞いて慌てて逃げ出した。荷馬車を離れれば、その隙に別の泥棒が来るかもしれない。結局、泥棒が誰だか分からなかったが、村人と争ってもいい事はないだろうと、シュウは追うのを諦めた。
その後、荷台を背に、横で寝ようとするアヤナの腕が、自分にくっついていることに気づくシュウ。恐らく不安からなのだろうが、さっきの急接近を思い出して、ドキマギしてしまう。しかし、彼はオッサンが女子高生に手を出したら犯罪と、心の中で唱えながら眠る努力をした。




