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この瞬間が世界を名作にする。~異世界でコーヒーを飲もうよ~  作者: きゅっぽん
第3章 巨人殺しの小領主編
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第35話 遠ざかる街

 朝日が屋根裏に射し込み、アヤナの睫毛の影を頬に落としていた。目覚めた彼女は、毛織物の掛け布をそっとよけると、肌着代わりのスモックの上から灰色のワンピースをかぶり、階下へとそっと降りる。彼女は眠るシュウの横を抜けて、近所の井戸から冷たい水を汲んで来た。

 屋根裏に戻った彼女は、この家への愛着や寂しさを捨て去るように、静かに服を脱ぎ去った。朝の光が柔らかく肌をなぞり、ひやりとした空気が裸身を包み込む。井戸水で湿らせた布を滑らせていくと、冷たさに肌が粟立った。

 明日から数日は旅の空かと思うと、身体をぬぐう手はことさら丹念なものとなる。指先が自分の輪郭をなぞるように、首筋から胸元へと丁寧に拭っていく。腰をなぞり、太腿の内側をぬぐうころには、微かな寂しさは消え、困難を乗り越えようとする静かな決意が固まっていた。


 アヤナが新しいスモックを付け、再び灰色のワンピースを着て降りて来たところで、シュウは目を覚ました。シュウが着替えている内に、アヤナは昨日の残り火でかまどに火を点け、スープの鍋を温めた。彼が身支度を終えた頃、テーブルには二人分のスープの椀と黒パンが並んでいた。


 「おはよう、シュウ。今日も、いい天気みたいですよ」


 「ん……ああ、おはよう。いよいよ出発か」


 「「いただきます」」


 シュウがスープを飲むと、塩の効いた干し肉が出て来た。少し濃い目の味に寝ぼけていた目が覚めていく。


 「アローデール最後の朝食ですね」


 「明日の朝食はどうなるかわからないから、しっかり味あわせてもらうよ。うん、旨い」


 二人の朝食は静かだったが、これまでの街の思い出がポツポツと語られていった。


 「この街に来て、色んな人に助けられましたね。最初は右も左も分からなかったのに」


 アヤナの言葉に、シュウも頷く。 


 「白楡の館亭の女将さんに、神官のデニスさん、コーヒーを飲みに来てくれたご婦人方に、職人の親方たち。パイ屋のオヤジに、織物職人の夫人にも何かと世話になったかな」


 「そうですね。バルドさんの領地は、きっと大変でしょうけど、だからこそ遣り甲斐あります。成り上がりましょうね、シュウ」


 「そ、そうだね。頑張っていこう」


 大変な仕事と聞いて腰が引けそうになるシュウだが、アヤナは乗り越える気満々なのか、目が輝いているように見えた。


 朝の光に照らされながら、二人はしばらく、期待と少しの不安を混ぜた未来の話を続けた。やがて、シュウは指先を軽く弾いてコーヒーを召喚し、二人でそれを味わう。苦味の中に、ほんの少しの甘さが残っている。


 「旅の朝でも、これくらいは楽しめるさ」


 「ふふっ、これからも名作の瞬間を作っていきましょう」


 食後、シュウは荷物をまとめる。背負い袋を床に置き、手には旅人用の長杖、腰には小剣。異世界に来た時の格好には、なんだか懐かしさを感じた。アヤナも同じく荷物を整え、灰色のワンピースの裾を軽く整える。最初に持ってきた服はもう使い物にならなかったため、この街で仕立ててもらったものだ。


 「それじゃ、行こうか。バルドさんを迎えに行こうか」


 「そうですね、忘れ物は……ない、かな」


 二人は戸締まりをし、静かだった借家を後にした。




 昨日、別れた路地へと向かい、バルドと合流する。相変わらず厳つい体の彼は、空になった馬車の荷台で毛織物の上に仰向けになり、干し肉を歯で引き裂いては、無言で咀嚼していた。


 「おう、もう準備とやらは終わったんだろうな」


 「はい。それで僕たちの荷物を運びたいので、一度、家まで馬車を回して貰えませんか」


 バルドはぶつくさ言いながらも、彼らの借家に荷馬車を回す。戻ってきた二人は、背負い袋に鍋と掛け布、そして貯蔵庫に残っていた食材を手際よく積み込んでいった。借家の鍵をしっかりと掛けると、今度は白楡の館亭へ向かった。

 二人が宿を訪れた時、帳場では女将は、出立する客たちの対応に追われていた。シュウはその合間を縫って鍵を返したが、ろくに言葉も交わせず、二人はそのまま宿を後にすることになった。ちゃんとお礼を言えなかったことが、シュウには少し心残りだった。




 それから荷台にまだ余裕を残したまま、旅の物資を頼んでいた城門近くの雑貨屋へと馬車を回した。店の扉は閉じられていたが、馬車を降りるとアヤナは躊躇なく戸を叩く。シュウも降りて彼女の隣で待つが、バルドは御者台に乗ったまま退屈そうに眺めていた。

 しばらくして、昨日の店主が出てきた。彼はアヤナを見ると、渋い顔をして声を掛けてくる。


 「ああ、やっぱりアンタか。あの後、ちゃんと計算してみたんだが、銀貨四枚じゃこっちの儲けが出ねぇよ」


 しかし、アヤナは不思議そうな顔をして小首を傾げる。


 「あら、昨日成立した商談を無かった事にしたいのかしら。どうしてもというなら、考えてもいいですけど。真面目な商人さんが計算を間違えて、後から取引を無かったことにしたいなんて知ったら、街のみなさんもガッカリするのではないかしら?」


 それを聞いて、店主は益々顔を渋くする。


 「そうは言うけどよ。お互いに得するのが、いい取引ってもんだぜ。アンタもこの街での買い出しは、最後ってわけじゃないんだろう?」


 アヤナは何でも無いことのように頷くと、不意に振り返って後ろへと声を掛けた。


 「バルド様、どうでしょうか?」


 その言葉にやっと、店主は馬車の御者台を見て、厳めしい顔で上から眺める巨漢に気づいた。


 「うげぇ、ほ、本物か!?」


 思わず漏らした店主の言葉じりを捕らえるアヤナ。


 「うげぇ? もしかして、バルド様に言ったんですか? そんな、まさか」


 「いえ、違うんです。う、う、噂に違わぬ立派な御仁だと」


 慌てて否定する店主にバルドは鼻を鳴らした。店主は、アヤナにグッと近付き、耳元で囁く。シュウは彼をアヤナから引き剥がそうかと一歩前に出ようとするが、アヤナの手がそれを制する。彼女は近付く店主に胸が当たらないよう、やや横に向きを変えて彼の話を聞く。


 「バルド様と喧嘩する気はないけどよ。ご領地は金が無いって聞くぜ。アンタ、大丈夫なのか」


 「ご心配ありがとう。だから私達が行くんです。これからはバルド様のご領地が、良いお客さんになるってこともあるかもしれないわよ」


 アヤナはわざとらしく片側の眉を上げて、店主に小声で返した。


 「まあ、アンタなら間違いなさそうだがよ。分かったよ。取引成立だ」


 「それはよかったわ」


 頭を掻く店主に、アヤナは満足そうに答えた。


 それからシュウと店主の二人で、胡桃に乾燥豆、干しパン、酢、チーズと荷台に乗せていく。腕を組んで満足そうにそれを眺めるアヤナに対し、あきらめ顔で荷を詰め込んでいた店主だったが、途中で表情に緩みが見えた。

 どうやら粗織りのワンピース越しでも、組んだ腕に押されて変化するアヤナの胸のふくらみに、彼の視線が吸い寄せられたようである。それに気づいたシュウだったが、交渉で完全にやられたらしい彼に、武士の情けで何も言わずに荷を運び続けた。




 その後、三人は北門へ向かった。バルドが御者台で荷馬車を操り、シュウとアヤナはその後ろを歩いてついていく。通りには次第に人の気配が増し、肩に道具袋を掛けた職人や、布包みを胸に抱えた女たちが足音を残して通り過ぎていく。その流れに混じるように、荷馬車がきしむ音を残しながら進んでいった。


 やがて北門に着くと、二人の門番がこちらへ近づいてくる。バルドは手綱を引いて馬を止め、シュウとアヤナもその場に立ち止まった。


 「バルド殿、ご領地へお戻りですかな」


 中年の門番がバルドの横に立ち、声をかける。もう一人の若い門番は荷台の方へ回り込み、積み荷に目をやった。


 「ああ、用事は済んだからな。むしろ後ろの奴らの準備に手間取って、出発が遅れちまった」


 「なるほど。それで、彼らは?」


 バルドの返答に、中年の門番がシュウたちを一瞥して尋ね返す。


 「オーツ麦を売らせてみたら、それなりに使えたんでな。数字や面倒ごとに向いた連中だ。雇ってくれって言うから、雇った」


 門番は軽く頷いた。


 「なるほど。そういう人間がいると便利でしょうな」


 一方の若い門番だが、荷台をざっと確認すると、大した荷物もないと判断したのかすぐに前へ戻ってしまった。物足りなさを感じたシュウだったが、原因は何だろうと考えた時、いつもジロジロ見られているアヤナが、見られていないことに気づく。

 そこでシュウは、チラリとアヤナに振り返った。彼女はいつの間にか外套をまとい、長杖を前に持っていて、身体の線が分かりづらくなっていた。納得したシュウだったが、その瞬間、視線に気づいた彼女に睨まれ、慌てて視線を逸らす。

 逸らした視界に中年の門番が入った時、シュウは二人が街に入った時も彼が門番だったと思い出した。白楡の館亭を紹介してくれたのも彼だ。その中年の門番は、馬車の前でバルドと街道の様子を語り合っていた。


 「最近は野盗や魔物の話もありませんな。それより、道のぬかるみにお気をつけ下さい」


 「まあ、この季節ならそんなもんだろうな。……よし、行くぞ」


 「はい。お気をつけて」


 門番の声に見送られながら、三人はアローデールの門を通り抜けた。シュウは通り抜ける時、中年の門番と目があった気がして、軽く目礼した。彼が気付いたかどうかは分からないが、この街で最初に世話になったは彼だったのだ。街の全てがシュウの後ろへと流れていく。

 門を抜けた先で、踏み固められた土の街道を、荷馬車がゆっくりと進んでいく。背後では、アローデールの街並みが徐々に遠ざかっていった。木柵で囲まれた外縁の内側には、赤や茶の屋根がまだまばらに見え、そのあいだから白い煙がいくつも立ちのぼっている。中央にはひときわ高い屋根が並び、街の輪郭を形作っていたが、それも次第に遠ざかっていった。




 街道の両側には大小さまざまな畑が続いている。ある畑では麦がすでに青々と茂り、別の畑ではまだ出たばかりの芽で緑に彩られている。その間には土がむき出しで、雑草が点々と生える場所もあった。ところどころで鍬を手にした農夫が、春の土を丁寧に起こしているのが見える。

 シュウはふと振り返って、背後を眺めた。街の影はゆるやかにぼやけて、遠ざかる光景の中に溶けていく。


 「……あの街も、結構面白かったかな」


 ぽつりと呟くと、隣のアヤナは肩を竦めた。


 「そうですか? まあ、写本や屋台も面白かったですが、ワーカーや日銭を稼ぐだけじゃ、食べて寝て、また働くだけの毎日が延々と続くだけ。私は、もっと先へ進みたいんです。自分の意思で、何をするか選べる場所まで」


 その言葉に、一瞬たじろぐシュウだったが、不思議と体の奥に活力が吹き込まれ、僅かに体温が上がる気がした。


 「……そっか。じゃあ、目指してみますか。その“自分で選べる世界”を」


 ふと目を上げると、馬車に乗るバルドの大きな背中が目に入った。かつて巨人を斃したという、あの背に導かれるように、二人は歩を進める。新たな地に向かう緊張と、見ぬ未来への期待を胸に、それぞれの歩幅で道を踏みしめながら。

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