第34話 アローデール最後の一日
バルドから準備の為と、もぎ取ったアローデール最後の一日、その朝、通りの商店がまだ扉を開けぬうちに、ふたりは静かに白楡の館亭を訪れた。朝の空気は澄んでいたが、肌を撫でる風がまだほんのり冷たかった。木の扉を軽く叩くと、やがて奥から足音が近づき、戸口が静かに開かれる。
「……なんだ、あんたたちか。こんな時間に何の用だい?」
訝し気な表情の女将が顔をのぞかせた。旅立つ客で忙しいかもしれないと案じていたが、女将が自ら顔を出すということは、ちょうど一息つける頃合いのようだった。アヤナが一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「おはようございます。突然すみません。借りたばかりで申し訳ないのですが、急用が出来まして、明日には街を出ることになったんです」
それを聞いて、女将の表情が少し渋い顔をした。
「まだ半月も経っていないのにどうしたんだい? まさか、やっちゃいけない事をしちまって、逃げるんじゃないんだろうね」
「いえ、そんな事は決してありません。実は巨人殺しのバルド様と知り合う機会がありまして、ご領地の村の手伝いをさせて頂くことになったのです」
アヤナが事情を話すと、女将は目を丸くした。
「おや、あの英雄の。何だい、大出世じゃないか。分かったよ。エルドには昼間のうちに聞いといてやるから、夕方にもう一度来な」
「ありがとうございます。お手間を掛けて申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
アヤナはペコリと頭を下げた。シュウは後ろから二人の様子を見ながら、一方でこの街の生活を始めた宿を感慨深く見ていた。しかし、アヤナが頭を下げたのに気付いて、彼も慌てて目礼する。そうして二人は宿を後にした。
荷物を整えるために一度借家へ戻った二人は、桶とタライ、テント、そして借家に置いて行くことにした丸くて背の高いテーブルを持って広場に向かった。二人は広場に着くと、いつもの端の方にテントを立ててコーヒーの屋台を始めた。とはいえ、人通りはまだまばらで、客になりそうな人影もなかった。
パイ屋のオヤジや、顔馴染みの露店の店主達が、遠くから手を上げるのが見えたので、シュウもその場で軽く手を上げて応える。実際にここで屋台をやっていたのは、たったの一週間程度だったはずなのに、シュウにはもっと長くいた気がした。
今、見るとそれほど広い広場でもないし、そこにいる人々も少し煤けたようで、キラキラした夢のような場所というわけでもない。それでもシュウにとっての冒険の最初の一ページ、いや森が一ページ目なら、ここは二ページ目だろうか。とにかく、冒険の一コマを飾った場所として感慨深く思えた。
シュウはテントに入ると、コーヒーを二杯召喚して出てくる。そのうち一つをアヤナに渡して言った。
「う~ん、本当にアローデールでの冒険はお終いなんだね」
それを聞いたアヤナは、彼の気持ちを探るように顔を覗き込む。
「ひょっとして、この街に名残惜しさを感じてるんですか?」
「まあ、有体に言えばそうだね。この広場でやっていた市も、コーヒーの屋台も、冒険のようでワクワクしていたから。三十年近くパソコンの前に座っていたオジサンからすると、大冒険だったよ」
アヤナは、彼の答えに少し眉根を寄せる。
「そうですか。私にとっては不衛生で、粗野で、彩りも少なくて、この街はそんなに好きになれなかったんですよ。ハッキリ言って、物足りなくて、面白みがなくて、飢えていたと言ってもいいかもしれません。私にはこの街は、全然足りません。
そんな中で、私に満足できる文化をくれたのは、シュウのコーヒーだけでした」
彼女は、コーヒーに口を寄せると音を立てずに、すっと口に含む。
「シュウ、これから私達の冒険は第二章に入ります。でも残念ですが、私だけでは冒険から簡単に跳ねのけられてしまうでしょう。これからも私に力を貸してくれますか?」
「ああ、もちろんだよ。ひとつ、この冒険を、たっぷりと楽しんでやろうじゃないか」
それを聞いて微笑むアヤナ。彼女はこの中世の街並みを嫌っていたかもしれないが、この世界の衣装をまとった彼女はまるで物語の世界の住人のようによく似あう。艶やかな長い黒髪の美貌の少女は、絵画の一枚のように絵になった。シュウはコーヒーを一口飲むと、心の中でつぶやく。
「この瞬間が世界を名作にする」
その日の午前中、最後の日だからと常連が次々訪れるようなことなく、昼の前まで客が来ることはなかった。それでもたった一組やって来た客は、弟子達を連れた職人の親方だった。
「……もう終いか?」
シュウが今後の予定を話すと、親方はボソりとそう言った。
「そっか。……残念だ」
シュウは思わず頭を下げた。口数は少なくとも、その言葉は確かに、この街での自分たちの“居場所”のひとつだった。あっさりと終わった最後の屋台だが、彼はそれに小さな達成感と、同じくらいの寂しさを感じるのだった。
一度借家に戻った二人は、黒パンとチーズ、刻んだ生野菜で昼食をとり、コーヒーで流し込んだ。その後、大通りへ戻り、まずタマネギを買えないか探してみたが、街中では馬車一台分を売るような店は見つからなかった。
「すいません、シュウ。麦などが倉庫に相当量蓄えられているようだったので、タマネギも同じだろうと安易に考えていました」
「いや、いつもいつもアヤナには、無駄のない段取りを組んでもらって助かっているよ。それにたぶん、郊外には十分蓄えている農家もあるだろうから、知っている人を探してみようよ」
アヤナは想定の甘さを気に病んでいた。一方、シュウはそんな彼女に気を遣わせてしまったことを申し訳なく思った。しかし、街に二軒ある青果店では、どちらもタマネギが無いだけでなく仕入れ先も教えてもらえなかった。
一旦タマネギの件を保留にし、北の城門近くの雑貨店で他の物を買おうとした二人。しかし、そこで一袋のタマネギが置いてあることに気が付く。アヤナは開かれた口からタマネギの見える麻袋を指さし、店主に尋ねた。
「あの、それ、タマネギですよね。ひょっとして、荷馬車一台分くらいお持ちか、持っていそうなところを知りませんか?」
店主は肩を竦めて答える。
「市の日なら農夫どもが持って来るが、普段からそんなに蓄えている店はないと思うぞ」
その返答はアヤナの想定内であり、彼女は落ち着いた声でさらに問いかける。
「では、どちらの村ならタマネギを蓄えているか、教えて頂けないでしょうか」
店主はそれを聞いて、ニヤリと笑った。
「おいおい、メシの種をタダで教える商人はいないぜ。もし、そんな奴がいれば、そいつはトンでもなく不真面目な不良商人だ。それに次の市を待てばいいじゃねぇか」
アヤナはそれを聞いて泣きそうな声を出す。
「それは道理ですね。でも私達、巨人殺しのバルド様にお仕えすることになったのですが、バルド様は明日には出発するとおっしゃって。まだ、何の準備もできていないのに、どうしたら良いと思いますか?」
突然、女性に泣かれて泡を食った店主は狼狽える。
「それは俺のせいじゃねえよ。なあ、旦那。奥さんを何とかしてくれよ」
不意に振られて、内心では店主同様狼狽えたシュウだったが、とにかく下手なことは言うまいと、下を向いた。普段から表情筋を鍛えていなかった彼は、ただ下を向くだけで悲痛そうな雰囲気を出すことができたのだった。アヤナはそっと、シュウの肩に触れて続ける。
「そういえば、こちらに胡桃や乾燥豆はあったかしら。田舎では手に入りづらいから、少しでも手に入れおきたかったのですけど。それに酢と干しパンも。あとハードチーズも買わなくては。ああ、どうしましょう。時間もお金もあまりないのに、世の中非常でございますね」
恐ろしいことに、そこまで言い切ったアヤナの目には薄っすら涙さえ浮かんでいた。女は女優というが、アヤナは間違いなく女優だろう。もともとシュウは彼女と敵対する気はなかったが、よりその気持ちを強くした。
「ああ、それならここでも揃うからよ。店先で泣くなんてやめてくれよ」
「本当ですか? 胡桃一キログラム、乾燥豆十キログラム、酢は五リットル、干しパンは五キログラム、ハードチーズは5キロを売って頂けますか?」
「うぇ!? あるにはあるけど、それうちの在庫のほぼ全てなんだけど」
「全部で銀貨四枚で」
「いやいや、そんなすぐに計算できない、ちょっと待って」
「じゃあ、ひとつずつ見ていきましょうか。胡桃が銀貨一枚、乾燥豆も同じでしょ? 酢は銅貨五十枚、干しパンは銀貨一枚半、チーズは銀貨二枚……ね、ざっと四枚くらいでしょ? これだけ買うんですから、善良で真面目な商人さんなら、それでいいですよね。それで買えないと私、困ります」
「困りますって言われても、え、計算は合っている? あれ、どうなんだ」
「それで、タマネギを置いてありそうな村って、教えて下さいよ。タダではなくて、これだけ買うんですから。いいですよね」
「ちょ、ちょっと、」
「ん? どちらで迷っています? 合計ですか? それとも村の場所? でも、タダじゃ無ければいいて言いましたよ。では、明日の朝に引き取りに来るので、品を揃えて店を開けておいて下さいね」
泣き落としで心を揺さぶったかと思えば、計算混乱に論点のすり替え。気づけば交渉の主導権はすっかりアヤナのものだった。なお、タマネギを蔵一杯に蓄えていそうな農村は、北にあるのでバルドの領地行く時に寄れそうだった。
買い物を終えた二人は、路地にいるバルドを訪ね、明日の朝に借家の前まで荷馬車を回してもらえるよう頼んだ。その際、雑貨屋に立ち寄ることと、郊外の村でのタマネギの仕入れも了承を得ている。バルドと別れたあとも、白楡の館亭の女将との約束の時間までにはまだ余裕があった。
二人はアローデールの見納めに、街を回ることにした。まず中央通りへ出て、南門を目指す。南側には領主ロスチャイルド男爵の館があり、治安もよく、裕福な住民が多い。そちら方面はこれまであまり来る機会がなかったため、観光気分で遠くから館を眺めてみることにした。
男爵の館はオリンピックプールほどの広さがあるようだが、石壁に囲まれていて中の様子はうかがえない。それでも母屋は二階建てらしく、石壁の上には黒ずんだ切妻屋根が重なって見えていた。門の前には槍を構えた門番が立ち、頑丈そうな木扉の脇では、紋章入りの小さな旗が静かにはためいていた。
「シュウ、ちょっと耳を貸して下さい」
アヤナが手招きするので、少し屈んだシュウ。アヤナは距離を詰め、肩に手を添えて耳元に口を寄せた。急に感じた彼女の匂いと熱に、シュウは思わず動揺してしまう。
「領主の館という割には、意外と地味で小さいですね」
そう言って彼から離れたアヤナは、微笑んでいた。シュウは自分の顔が赤くないか気にしながらも、答える。
「まあ、外壁の中はスペースが限られてるからね。寧ろあれでも街の中ではどこよりも大きい家だよ」
その後、中央通りを北上して職人街へ足を運び、アヤナは織物職人の女の店でいくつかの布を購入した。オーツ麦の相場を調べた商業地区を抜けて広場へ戻り、神殿を眺め、さらには下町の「尻の大きな鹿亭」の前も通り過ぎる。
こうして、二人はアローデールの街のあちこちに、静かに別れを告げていった。
夕方、白楡の館亭を訪れ、借家の解約について尋ねてみると、驚いたことに退去時の確認などは特に必要ないという。
「エルドに聞いてやったけど、明日の朝、鍵をここに持って来ればいいよ。家の中を壊したりしていないだろ。まあ、もし壊していたら、エルドがどこまで追いかけていって、嬢ちゃんを売っぱらっちまうかもしれないがね」
信用を裏切った場合は、大変中世的で野蛮な方法で解決されるらしかった。売られるのはアヤナの方だが、シュウの冷や汗は止まらなかった。彼に引き換え、アヤナはさらりと受け流すように笑っていた。
最後の用事をすべて終えた二人は、借家に戻って夕食をとった。窓の外では、暮れゆく空が街を柔らかく染めていた。あとは、明日の朝に出発するだけだった。




