第33話 荷馬車一杯、完売です
バルドにオーツ麦の販売を任されたシュウとアヤナは、一旦彼と別れ、神殿へと足を向けた。写本の手伝いがある日はいつも通る、あの木造の庇が続く細道と、古びた扉の向こうにある涼しい礼拝堂。だが今日の足取りには、これまでとは少し違う迷いがあった。
神殿の奥、いつもの書庫に入ると、神官デニスは机に向かって羽ペンを走らせていた。静かな気配のなかで、シュウが事情を話し始める。
「すいません、デニスさん。実は今日の午後、写本の仕事を休みたくて。それだけじゃなくて、しばらくの間、写本の手伝い自体が難しくなりそうで」
デニスは顔を上げ、ペンを静かに置く。問い返すでもなく、ただ静かに視線を向けた。
アヤナがちらりとシュウを見やり、彼はそのまま続けた。
「実は、バルドって男の手伝いで……もしかしたら、近いうちに彼の領地まで行くかもしれないんです。いつ戻れるか、正直まだ分かりません」
室内には、羊皮紙のかすかな匂いと、静まり返った空気だけが満ちていた。しばらくして、デニスが口を開いた。
「そうですか。……残念ですが、仕方ありません」
その声は淡々としていたが、どこか遠くに温かみを含んでいた。シュウは姿勢を正し、ゆっくりと言葉を選んだ。
「いろいろと……本当に、お世話になりました。あの、別に、今日が最後ってわけじゃないんです。でも、ちゃんと礼を言っておきたくて」
デニスはふっと微笑むと、小さく頷いた。
「いえ、君達の手伝いは助かりました。この神殿でも他に写本をする者がいなくて、なかなか進みませんでしたから」
アヤナは軽く頭を下げた。デニスは机の上の羊皮紙を丁寧に揃え、そっと端に寄せると、改めて二人を見た。
「またこの街に来ることがあれば、寄って下さい。あなた方の道中の無事を祈っていますよ」
部屋を出ると、さっきよりも日が高くなっていた。軋む床板の音が、この書庫で過ごしたいくつかの午後の記憶を、静かに呼び起こした。
神殿を出たシュウとアヤナは、広場の屋台で昼食用にパイを買った。すると、顔馴染みとなっていた店主が声をかけてくる。
「お前さんたち、もうハーブティーはやらねぇのか。さっき、お前たちを探してる人がいたぜ」
シュウは最初、常連の少女フィオかと思ったが、話を聞くと、どうやら最近よく来ていた商会の奥さまたちだった。
「実はもう、屋台は出せそうにないんです。バルド様の手伝いで、これから忙しくなりそうで」とシュウが事情を話すと、店主はにやりと笑う。
「で、誰か来たら伝えとけって? 俺を使い立てしようってんなら、俺にも一杯もらおうか」
シュウは苦笑しつつ、背後から木のカップを取り出し、コーヒーを差し出す。一応、言い訳ができるように、氷も浮いていないし、熱くもない、常温ぐらいのものにしておいた。
「これですね。さあ、どうぞ」
「おい、今どこから出した!?……って、ぶっ、苦ぇな!」
思わず吹き出す店主を横目に、シュウは苦笑する。とはいえ、これで不承不承ながらも伝言は引き受けてもらうことができた。
「これで少しは常連さんに義理を果たせたかな」
「無理ですね。でも、事情くらいは伝えられます」
二人は屋台を離れ、神殿の軒下で腰を下ろし、パイを頬張りながら今日のコーヒーを味わう。アヤナは最後に、広場を指で小さく切り取るように見つめて、誰にも聞こえない声でそっと呟いた。
「こういう瞬間が、世界をちょっとだけ名作にする。ふふっ」
「さて、バルドさんと合流しようか」
「そうですね、シュウ。ここからが本番です」
昼食を終えた二人は、バルドと会った路地に戻り、彼と合流した。彼は二人の準備ができるまで、そのまま荷台で寝ていたのだった。それから三人は、オーツ麦を積んだ荷馬車を引いて、午前中に調べていた宿や神殿を回り、最後に兵舎を訪れた。
オーツ麦の取引はアヤナが主導し、シュウはバルドが取引をぶち壊さないよう抑える役を担った。アヤナは宿では当初の話よりも多くのオーツ麦を売り込み、兵舎では最初に提示された単価よりも値を引き上げることに成功した。
これにより、最初に提案した銀貨五十枚を上回る五十五枚で売り切る事が出来た。あの巨体に凶悪な面構えのバルドが、革袋に入った銀貨を指でかき混ぜながらニヤ付いていた。その様子に、シュウは思わず顔をしかめたが、アヤナは手応えを感じた様子で、満足そうに頷いていた。
「本当に売りやがったな。いいだろう、お前らを俺の村で雇ってやる。これから麦の販売なんかはお前らに任せるし、他にもいろいろ面倒なことはお前らにやってもらおう」
面倒な事は全部自分達に押し付けると厳かに宣言するバルドに、思わず顔が引き攣るシュウだった。しかしアヤナは、にこやかに笑って応じる。
「お任せください」
ひと仕事を終わらせた達成感に、シュウとアヤナの二人は思わず目を見合わせて微笑み合う。これで街でのチマチマしたその日暮らしの仕事から脱し、農村の管理の仕事に割り込むことができそうだ。正直、勝手の分からない仕事に不安はある。
だが農業の実務自体は村人達が詳しいだろうから、自分達はそれを現代的な合理性で効率化したり、収益化の部分で以前よりもマシになる提案ができれば、それなりに認められるだろう。そういえば、現代知識で農業無双するラノベなんてのもあったな、シュウは思い出した。
しかし、ここでは実際に自分や村人達の命が掛かっているので、急激に変化させて失敗するよりも、小さく改善して結果が出てから次にという、スローでも着実な方策を取るべきだろう。幸い、アヤナも合理的で現実的なタイプだ。それなりにやっていけるだろう。
シュウがそんなことを考えている時、バルドはあくびをしてから重そうな革袋を腰に戻し、ぽつりとつぶやいた。
「じゃあ村に戻る。お前らもついて来い」
一瞬、時が止まった気がした。アヤナが慌てて聞き返す。
「ちょっと待って下さい。私達は、まだ街を出る準備が何もできていません。借家を返さなきゃいけないし、今日は休みましたが仕事もしていて、止めるなら事情の説明も必要です。今すぐ、街を出るなんて出来ませんよ」
常識的な理由を並べて説得を試みたアヤナだったが、バルドは面倒くさそうに肩をすくめた。
「何だよ、面倒くさい。だったら、お前らは準備とやらが終わってから追いかけて来い。街にいると金が掛かるから、俺はもう行く」
バルドはせっかちだった。しかし、ここは異世界で、文明の未発達な土地だ。GPSも地図アプリもないなかで、道案内もなしに街の外に出れば、目的地にたどり着ける自信はない。何よりこの凶悪な戦士と一緒かどうかで、安全性が大きく変わるだろう。絶対に彼からはぐれてはいけない、アヤナはそう考えていた。
「だいたい、水や食料なんかの旅の準備もしていないでしょう。それにせっかく街に来たのに、何か村に必要な物を買って行ったりしないんですか?」
現実的な問題を挙げてみたが、バルドは一顧だにしない。
「別に荒野を行こうってんじゃない。だいたい毎日どこかの村に泊まるし、準備なんていらねぇよ。だいたいこっちは金が無くて麦を売りに来たんだ。何かを買う金なんてねぇよ」
だいたい毎日ということは、野宿の日もあるのだろう。それでも気が急いて食料も買わずに跳び出そうとしている。本当に辛抱の効かない人だ。アヤナは、説得の方向性を変えて説得を試みることにした。
「では、こうしましょう。荷台、私に銀貨三枚で貸していただけませんか? 私が用意する荷を積んで頂ければ、私がそれ以上儲けてみせますから。だから、明後日の朝まで待って下さい」
銀貨三枚と言えば、シュウ達の感覚では日本円でたったの三千円くらいである。ただし、穀物なら一家族が一月以上暮らせるほどの金額でもある。バルドはしばらく黙ったまま顎を撫でていたが、やがてうなずいた。
「いいだろう。明後日の朝まで待ってやる」
アヤナはようやく安堵の息をついた。すぐ横で見守っていたシュウも、緊張で張り詰めていた肩をそっと落とした。
バルドと再び別れた二人は、借家へと帰った。それから借家にある物で、持って行くものと置いて行くものを仕分けした。バルドの荷馬車があるので、持って行くものを制限する必要はないだろう。逆に、借家も朽ちた家具付きで引き渡されているので、いらない物は置いて行ってもいいだろう。
その日の食事は少し、豪華になった。昨日の市で食材は買ったばかりだし、日持ちしない物はもちろん、荷馬車の振動や日差しの中での移動で痛みそうな物は、捨てずに食べてしまおうというわけだ。テーブルについた二人は、食事をとりながら明日の行動について計画し始めた。
「結局、置いて行くのは、屋台用のテーブルだけなんだよな」
「そうですね。あれは、自分達の食事に使うには微妙ですし。村で使う場面は、あまりないように思えます。他の鍋やらは生活に必要ですから、全部持って行っていいでしょう」
「ベッドを買わずに、まだ藁にシーツだけだったのは、今となっては無駄にならずに幸運だったかな。それで、明日は最後のコーヒー屋台をするんだよな」
「はい。最初に白楡の館亭に行って借家の返却の手順を確認して、それに合わせて明日の行動を調整しましょう。そして、可能なら午前中は最後のコーヒー屋台をして、常連さんに挨拶したり、可能なら街の様子を聞いたりしたいですね。
それから、デニスさんにも挨拶して、午後に買い物をして回りましょう」
「買い物は何をするか決まっているの?」
「そうですね。街でしか手に入りにくそうな物は買っておきたいです。酒に酢、それからドライフルーツや乾燥豆、ハードチーズなんかの保存の効く物。これらは多めに買っておいて、手元に残っても自分達で消費出来ますから無駄にはなりません。
それとメインは野菜類、それも保存性の高い物、例えば、そう、タマネギとか」
アヤナはそう言いながら、切り分けてあったチーズを取ってパンに乗せ、それを左手で持ちながら、右手のフォークで煮込みの深皿からタマネギを取り出し、さらにパンに乗せて齧る。対面に座るシュウも、それを聞いて深皿の中の干し肉とタマネギをフォークで突き刺し、取り出して眺める。
「ん~、自分達でも消費できる物を多く買っておくのは同意だけど、タマネギっていうのは?」
「これから行くのは、ここより田舎の農村部のようですから。そういうところでは穀物が中心で、野菜は後回しにされ、街に比べると不足しやすいんですよ。ですから、タマネギなどを持って行けば、間違いなく売れるでしょう」
今度はアヤナは、酢漬けのキャベツとカブを突いて一口食べた。酢の物が苦手なシュウだが、出された物は食べる主義なので、にこやかな顔を取り繕って食べて見せる。
「なるほど、流石だね。いつの間にそんなことを調べたんだい?」
「この街に来てもう十日以上経ちますから、街の人達から細々といろいろ聞いていたのですよ」
「そうか。本当に頼りになるな、アヤナは」
シュウはそう言って、水差しからカップに水を注ぎ、アヤナの分も軽く持ち上げて注いでやった。アヤナは静かに礼を言い、カップを手に取る。
「じゃあ、明日の予定はそんなところかな」
「そうですね。明日も早いですから、今日はもう休みましょうか」
二人のアローデールの日々はもうすぐ終わろうとしていた。




