第31話 春の彩りガレット
バルドの噂を耳にした二人は、市で買い物をする合間に、それとなく彼や岩竜の森について尋ねてみた。バルドの領地がここより北、鉱山街リヴェンベルクの方にあることが分かったが、それ以上の新しい情報は得られなかった。
市の喧騒を後に、買い込んだ食材等を抱えて借家への道を歩く二人。昼にはまだ少し早い時刻、アローデールの空はうっすらと霞み、湿り気を含んだ春の風が穏やかに街の通りを吹き抜けていく。アヤナは買ったばかりの中鍋を抱えながら、足取り軽く前を歩く。表情は静かだが、その瞳はどこか遠くを見ていた。
「バルドはリヴェンベルグの方が近いのに、なんでこっちに来たんだろうね」
シュウがそう言うと、アヤナは少し考えてから答えた。
「まず、向こうで売ろうとするでしょう。でも、足元を見られて怒り、意地になってこっちにきたとか。あるいは、彼の邪魔をする誰かがいるのかもしれませんね。まあ、それはここでは分からないでしょうけど」
シュウも、考えながら言葉を続ける。
「随分、切羽詰まっていたようだけど、計画性がなさそうだしな。下手に手を出して巻き添えは御免だよ」
「もちろんですよ。さて、私達もお昼にしましょう」
アヤナはそう言って微笑み、抱えていた中鍋を少しだけ揺らした。シュウも頷き、ふたりは静かな午後の時間へと歩みを進めた。
二人はいつもの裏道を抜け、目指す借家の前にたどり着いた。腰ほどの高さの柵に囲まれ、錆びた蝶番の木戸をくぐれば、すぐ母屋の扉に辿り着く。板壁は風雨に晒され草臥れ、藁葺き屋根は色あせていたが、室内はアヤナの手入れで清潔に保たれている。
屋内に入ると、シュウは荷物を棚の上に置き、アヤナは鍋を抱えたまま調理台の前に立つ。棚の上には先日買い足した保存食や雑穀の袋がきちんと並んでいた。
「さて、昼食の支度ですね。今日は……ふむ、まだガレットがありましたね」
そう言って、アヤナは袖をまくり、調理台の上に並べられた材料に目を通した。そして、干し肉に手を伸ばし、薄く刻み始める。塩の染みた肉は刃を入れるたびにわずかに崩れ、断面からは脂の香りが漂う。
「シュウ、クルミを割ってくれますか? 三つか四つほどで十分です」
シュウは頷きながら、袋からクルミを取り出し、調理台の端に並べた。アヤナは手を休めず、細切りに作業を移す。幅を揃えながらタマネギ、カブ、ニンジンを刻み、包丁の音に合わせて野菜も無駄なく千切りされていった。
その間、シュウはナイフの裏でクルミを割ろうとした。軽く叩いた瞬間、力加減を誤り、一粒のクルミが勢いよく飛び出してしまう。クルミはアヤナの横胸にぽよんと当たり、足元に落ちる。
「きゃっ!」
アヤナは思わず体をひるませ、振り返って眉をひそめた。
「こら、なんですかこのやらしいクルミは! どこに飛ばしてるんですか!」
シュウは慌てて頭を掻きながら、
「ごめん、ごめん! 狙ったわけじゃないんだ」
落ちたクルミを拾い上げ、そっと台の上に戻した。
「当たり前です! 気を付けてくださいね」
アヤナは軽く叱るように言いながら、頬をわずかに膨らませている。今度は慎重にナイフの裏でクルミの殻を割り、中から淡い色の実を取り出した。割り終えたクルミを小鉢に入れ、アヤナは刻み終えた具材と並べた。
すべての下ごしらえが整うと、小さく息を吐いてまな板を拭い、台布巾を丁寧に畳む。それからアヤナは調理台の裏に回った。床の隅にある木の蓋は、この家に越してきた当初は気づかなかった小さな地下貯蔵庫である。入居から二、三日目に彼女が掃除中、わずかな段差に気づき開けてみたのだった。
彼女は布に包まれたガレットをそっと取り出した。数日前に焼き、保存しておいたものである。端を少しめくって焼き面を確かめると、しっとりと柔らかさを保っており、まだ食べ頃だった。
「うん、問題なさそうです」
慎重に包み直し、調理台に戻った。広げたガレットからは香ばしい香りが漂う。茶色がかった生地は柔らかく、それでいて形を保っていた。アヤナは鼻歌を口ずさみながら、並べた具材を一枚ずつ乗せて巻き始めた。やがて物問いたげにこちらを見ているシュウに気づくと、微笑んで、ガレットを一つずつ皿の上に並べていった。
「うふふ、今日のランチは春の彩りガレットです。まず一つ目は……」
ガレットを並べた皿を二つ、テーブルに置いた彼女は、少し芝居がかった様子で語り始めた。
「塩漬け豚肉のしっかりとした旨みに、甘くとろけるタマネギの味わい。それに、クルミの香ばしさをそっと添えました。お次は、春の爽やかさを感じるキャベツとニンジン。そこに山羊のフレッシュチーズがやさしいコクを加えて、軽やかにまとめています。
そして最後は、旬のそら豆と甘みのあるカブを組み合わせた一品。さらにチーズのまろやかさが重なり、春らしい彩りと味わいが広がります。さあ、召し上がれ」
シュウは頷きながら、手で示されたガレットを一口かじった。
「うん、豚肉の塩気がしっかりしてて、タマネギの甘さもあって、クルミのカリッとした感じがいいアクセントだね」
アヤナもガレットに手を伸ばし、一口かじると口を抑えながら、ゆっくりと噛んで味を確認していく。
「よかった。たぶん、合うとは思ったのですが、ちゃんと出来てて良かったです」
一つ目を食べきって、二つ目を食べ始めたシュウがアヤナの言葉を思い出しながら、味わう。
「なるほど、野菜のシャキシャキ感が新鮮で、チーズがまろやかだ」
それからシュウは、機嫌の良さそうなアヤナに興味深そうに尋ねた。
「ところでクレープとガレットの違いって薄さとか、色というか焼き加減なのかな?」
アヤナは自分の料理に満足するように頷きながら、それに答えた。
「クレープは主に小麦粉だけで作るのですが、日本のガレットは基本そば粉で、色が少し濃く、味も素朴です。クレープより厚みがあって、香ばしいのが特徴です。今回は雑穀だけですけどね」
シュウは考え込むように言った。
「あれ? でもこれって、確かおとといの夜に焼いたやつだよね? まだ食べれるの?」
それを聞いたアヤナは、少し怒り気味に返す。
「カビると思います? あの貯蔵庫、私が一生懸命掃除して熱湯で消毒したので、保存環境に問題はありませんよ。お忘れかしら?」
シュウは申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめん、そういえばそうだった。掃除をしてくれたアヤナに感謝しつつ、じっくり味わわせてもらうよ。あ、美味しいコーヒーはいかがかな、お嬢様?」
「仕方ありませんね。帝都ホテルのコーヒーで今回は許してあげましょう」
おどけながらご機嫌を取ろうとするシュウに、怒った様な口調で返すアヤナ。しかし、その目は笑っていた。それから二人はコーヒーを手に、中世風のアローデールで現代風のガレットを楽しんだ。
「岩竜の森ですか?」
「はい。そこのコボルトの宝を取りに行かないかと、クルルボーの少女に誘われまして」
午後になって神殿を訪れた二人は、書写をしながら神官デニスに尋ねてみた。シュウは話しながら書き写すと文字が乱れてしまうため、自然と問いかけ役はアヤナとなっていた。これに対して、神官デニスは穏やかに首を振る。
「クルルボー達は冒険好きですからね。ただ、岩竜の森のことは知りませんが、森はどこも魔物や盗賊が跋扈する無法地帯です。真面目な善人の行くところではありません」
会話に加わることはなかったが、シュウは文字を写しながら耳をそばだて、思案していた。
中世くらいの文明圏では、森は狼や熊の肉食獣、あるいは盗賊の隠れ家として、まっとうな者は足を踏み入れない危険地帯だったという。現代でも、例えばインドの森などには虎が出るため、地元の人々でも滅多に入らないと聞いた。
そんな場所に踏み込むには、魔物を易々と倒せるほどの武力か、気づかれずに財宝を盗めるほどの腕がいる。少なくとも、自分たちにはどちらもない。諦めるしかないだろう。アヤナも、きっと同じことを考えているに違いない。
シュウの考察をよそに、アヤナは小さくうなずいた。
「そうですか。栗拾いのように簡単な話だとは思っていませんでしたが、私達のいた田舎と違い、この辺りでは時々あることなのか、ちょっと気になりまして」
デニスはさらに慎重な口調で続ける。
「どこでも同じことですよ。それにコボルトのことも私は噂話程度しか知りません。実際どんなもの達なのか、宝物を持っているのか、そもそもそこに本当にいるのかも分かりませんよ」
おそらく、街でも有数の教養と良識を備えたデニスさんがこれなら、ここでこれ以上の情報を得るのは難しいでしょうね。アヤナは考えた。その森に実際に入った人や、魔物の研究者とたまたま出会いでもしない限りですが。あとは、南から来た隊商なら少しは森のことを知っているかもしれませんね。アヤナは腑に落ちた様子で、静かに答えた。
「もちろん確かなことが分からないうちに、足を踏み入れるほど向こう見ずではありませんから。ご助言、ありがとうございます。それと、話は変わるのですが、市でバルド様という大きな方を見掛けまして」
「それは巨人殺しのバルドですか」
「はい。市の人々が言っていたので、そうなのだと思います。何でもご領地が上手くいっていないとかで、オーツ麦を売りに来たとか」
「そのようなことが。この時期にオーツ麦を売るのは難儀するでしょうに」
「私たちは、以前は親戚の農園を手伝っていたので、何かお手伝いができるのではと思ったのです。もちろんバルド様がお仕え甲斐のある方ならですが。あの方のことは何かご存知ありませんか?」
「ふむ。北の村々を苦しめていた巨人を退治し、国王陛下より御領地を賜ったとか。お人柄までは存知ませんが、悪い噂はないようでしたよ」
アヤナは情報を吟味する。バルドについてもこんなものですか。インターネットのある現代と違い、遠隔地の情報はあまり期待できませんね。あのリヴェンベルクから来た隊商に聞ければ、もっと何か分かったかもしれませんが、あんなことのあった後では聞きづらいですし。いえ、それでも後で少し聞いてみましょう。
「なるほど、それを聞けて安心しました。それと、バルド様がお困りのオーツ麦ですが、大口の買い手は難しいご様子。宿屋や馬屋、兵舎などに小分けであれば売りさばけるのではと考えています。どう思われますか?」
「そうですね。神殿でも少量なら買い入れることができるでしょう。それで信用を得られれば、お仕えする事も不可能ではありますまい」
その後は大した話もなく、夕方まで書写を続ける。神殿を出た二人は、街の外から来た隊商を探して北門を目指して歩いていた。隊商なら出入りのしやすい門の近くに泊まっているだろうし、北の方が安価な宿や酒場が多いので、移民でしかないシュウとアヤナでも接触しやすいと考えたからだ。
「アヤナ、やっぱりフィオの話は……」
「可能なら南から来た隊商に話を聞いてみたくはありますが、現状では無しでしょうね」
「僕もそう思うよ。……ってことは、バルドの方を考えてる?」
「ええ、悪い噂がないようなら、明日は午前中にオーツ麦の買い手を軽く探ってみて、できればバルドご本人に会いたいですね」
「明日? いくらなんでも急すぎるんじゃ……」
「バルドが街を離れたら意味がありませんから。早めに動いた方がいいです。明日はコーヒー屋台をお休みにして、そちらを優先しましょう」
「そ、そうか。分かったよ」
門の近くまで来た二人は、外から来た隊商がいる場所を聞いて回った。
「今日、市で鍋を買ったのですけど、いい品だったのでもう一つ買えないかと思いまして」
「へぇ。その隊商なら蹄鉄の夢路亭にいるぜ」
「あら、ロマンティックな名前ですこと」
アヤナが通りにいる人に聞いてみると、アッサリとその酒場は見つかった。二人は教えられた所に行ってみると、飾り気のない藁葺き屋根の建物が立ち並ぶ中に、すすけた看板のかかる小さな窓の背の低い平屋があった。看板には丸くデフォルメされたような、何だか分からない四つ足の動物が描かれていた。
中に入ってみると、三つのテーブルにそれぞれ数人の男達が集い、酒を酌み交わしていた。中には昼間見た隊商の男たちもいる。二人に気づいた彼らが目を向けたのを見て、シュウはアヤナの前に立った。少し静まり返った空気の中、男たちの視線を受けながら、シュウは店主に声をかけた。
「え~と、すいません。エールは一杯おいくらですか」
「銅貨五十枚だ」
財布から銀貨三枚を取り出し、彼は続けた。
「これで今いる皆さんに、一杯ずつ奢るのは難しいでしょうか」
店主は了承してジョッキを客たちに配るが、その中身は半分程度だった。店主も、客達もまだ不審げな目を向け、次のシュウの言葉を待っていた。彼は少し緊張しつつ切り出した。
「みなさん、商売のネタを教えてくれってワケじゃないんです。妻が、昼間見た“巨人殺しのバルド”のことを知りたがってて……このエールはそのお礼です。よければ、知っていることを教えていただけませんか」
沈黙。反応の鈍い空気に、彼は何を間違えたのかと焦りを覚えた。客たちが顔を見合わせる中、ふと店の空気が一変した。
「うぉーっ」
歓声とともに、場の雰囲気が一気に和んだ。奢りに裏がないと分かり、警戒が解けたのだ。やがて隊商の面々も、他の客たちもバルドの話をし始める。彼らは互いの話を待つことなく、それぞれが勝手に語り始めたが、アヤナはそれらを聞き分けているようだった。
あまり新しい情報はなかったが、デニスの話の裏取りは出来た。唯一、隣接する領主と仲が悪いという話だけが、妙に印象に残った。




