第29話 クルルボーの少女
広場でイザベラを見てから三日後、次の市の日の前日。家に備蓄していた食材が不足気味になった二人は、それで無理をすることなく、その日の夕食は外で食べる事にした。写本で毎日銀貨十二枚、コーヒー屋台で平均銀貨五枚を稼いでいた二人には、それくらいの余裕があった。
二人がアローデールの街に来た時に通った南門の近く、傾きかけた夕陽に照らされる一軒の建物の前でシュウとアヤナは足を止めた。建物は粗く削られた木材と白い漆喰で造られており、二階建てのつくり。屋根は煤けた石板葺きで、風に軋む看板がガタガタと音を立てていた。
「ここですよ、シュウ。マルタさんが教えてくれた美味しいお店です」
「鹿の看板は分かるけど、何で後ろ向きなんだ。遠近法を気にしているのか、尻がデカく見えるけど」
アヤナが案内してくれたその店の看板には、茶色い鹿が後ろを向き、白い尻を突き出しているような絵が描かれていた。ただ後ろを向いているだけなのに、体とお尻のバランスが悪く、まるで尻を強調しているようにも見える。
アヤナがコーヒー屋台に来る主婦のグループのリーダーから聞いたらしいが、女性に紹介されたにしては薄暗く狭い雑然とした路地の一角にあり、看板も下品な悪ふざけのようにも思える。首を傾げるシュウに、アヤナの冷たい声が掛かる。
「シュウ、下品ですよ」
「ああ、ごめん」
店の扉の前に立ったシュウは、扉越しに聞こえる男たちの低い笑い声に少し怯んだ。しかし、中から漂ってきた肉の焼ける香ばしい匂いに勇気づけられ、扉を開く。店内はそれほど広くなく、無秩序に大小六つの木製テーブルが置かれている。木の壁には毛皮や鹿の角が飾られていた。
まだ日暮れ前だというのに、席の半分は埋まっており、客のほとんどは若い見習いなどではなく、熟練の中年職人や商人らしき者たちばかりだ。彼らは自分たちの会話に夢中で、シュウとアヤナにはほとんど注意を払っていない。常連らしき者たちは奥の方に座っており、二人は自然と入口近くの二人掛けのテーブルに腰を下ろした。
二人が店内を見回していると、絵本に出てくるウィリアム・テルのような羽根付きの狩人帽をかぶった、小太りで八の字髭の男が近づいてきて、こう言った。
「いらっしゃい、『尻の大きな鹿亭』へようこそ。うちは、尻の大きな女は大歓迎だよ。それに運がいいね。昨日、顔馴染みの狩人が鹿を丸ごと持ってきてさ。もちろん、尻の大きいやつだ。今日はまだ、そのうまいところが残ってるから、存分に味わってくれ。うん、あんたにピッタリだ」
どうやら店の給仕らしいこの男は、一見の客であるシュウたちにも愛想よく接しているつもりなのだろう。アヤナを指さしたり、親指を立てたりと、やたらと盛り上げようとしている。しかし、日本なら間違いなく訴訟沙汰になりそうなセクハラ発言の連続に、アヤナは一言も喋らなくなり、シュウも恐ろしくて彼女の方を直視できなかった。
「じゃ、じゃあ、その肉とパン、それとエールに蜂蜜酒を」
「塩漬けと黒パンもいるだろう」
「では、それで」
とりあえず男を下がらせようと、シュウは適当に注文を告げる。だが男は空気を読むこともなく、最後に「モハ・モフ・ヒュム(でか尻、おめでとう)!」とアヤナに言い残し、厨房へと戻っていった。シュウはアヤナの尻を見そうになる視線を、鋼の精神で抑える。
「あ~」
「大丈夫よ。ここは私が連れてきたんだから」
何と声をかけるべきか決めきれず、それでも何か言おうとしたシュウに、アヤナは無表情のまま、わずかに震える声でそう言った。そんな時だった。
「ここから、すっごくいい匂いがするよ!」
元気な声とともに、店の扉が騒々しく開いた。入ってきたのは小さな女の子――いや、背丈は小学生ほどだが、顔つきはシュウやアヤナとそう変わらないように見える。その服はきちんと繕われているものの、色とりどりの端切れをつなぎ合わせたもので、統一感はなく、ボサボサの茶色い髪には甲虫の羽が付いていた。
少女は店に入るなり大きく深呼吸し、また「いい匂い」とつぶやく。そして入口近くに座っていたシュウの方へ歩み寄ってきて、こう言った。
「ねぇねぇ、人間さん。コボルトの宝、取りに行こうよ。人間さんなら、コボルトより大きいから簡単だよ」
酒場には不似合いな少女と、その少女から発せられたコボルトの宝という言葉。しかも、彼女の言葉には自分達がコボルトと戦うことが暗示されていた。アヤナはシュウと顔を見合わせてから、少女に声を掛けた。
「ねえ、あなたは誰なの? 子供? それとも」
アヤナが優しく声をかけると、少女は人懐っこく笑いながら、ずけずけと言葉を返してきた。
「うわぁ~、女の人間さん、背だけじゃなくておっぱいもお尻も大きいね。あっ、お尻が大きいから、お尻が大きい鹿のお店にいるのね」
その無邪気で遠慮のない一言に、アヤナの喉奥から「ヒクッ」と妙な音が漏れた。笑顔を浮かべたままだが、その表情の裏で頬の筋肉がぴくぴくと引きつっている。
──ヤバい。怒る寸前だ。
そう察したシュウは、アヤナの気をそらすように会話を引き取った。
「コホン、まずは君の名前を教えてくれないか?」
少女は無邪気ににっこり笑って答える。
「私はフィオ。クルルボーのフィオだよ」
クルルボーという言葉にシュウは覚えがあった。神殿で書写をしている時に見た、確か小人族の名前だった気がする。昔、シュウは日本で善の勢力と悪の勢力が魔法の指輪をめぐって争い合う映画を見た。その映画の主人公が、食べ物と音楽と冒険を愛する陽気な小人族だった。
シュウの見た書物では、クルルボーはその映画の小人族とほとんど同じ特徴を持っていた気がする。目の前の少女は背は低いのに、顔は少し大人びて見えた。実際にはシュウやアヤナと同じぐらい年なのかもしれない。その振舞いは、今時の日本では小学生にも滅多にいないくらいの自由奔放さなのだが。
そこで先ほどの給仕の男が、シュウのエールとアヤナの蜂蜜酒を持って来た。そしてフィオを見て、手近のテーブルから椅子掴んで、彼女の横に無造作に置いた。
「へぇ、クルルボーの友人とは珍しいな。何を飲むね」
「エール!」
給仕の問いに、元気に答えるフィオ。
「なあ、クルルボーってこの辺じゃよくいるのか?」
思わず給仕に聞いたシュウだが、アッサリ撃沈される。
「ああっ? 珍しいって言ってんだろ」
「……そうだね」
その間にフィオは椅子に座ると、シュウとアヤナのテーブルに寄せる。
「ちょっと、友人って。アンタも何、普通に座ってるのよ」
アヤナが給仕とフィオに文句を言うが、フィオは目を輝かせながらぐいっと身を乗り出す。
「そうだよね。友人ていうより、冒険の仲間! 草の絨毯を駆け抜けて、きらめく川を小舟でゆらり。森では獣もぴょんと越え、美味しい木の実を見つけてパクリ。さぁ、一緒にコボルトの宝物を探しに行こう!」
歌うフィオに唖然のアヤナ。そこにエールが運ばれてくる。
「ほら、エールだぜ、クルルボー」
「やったー」歓声と共にゴクリとエールを飲むフィオ。そして再び歓声を上げる。
「お~いしぃ~」
シュウもコクリと一口、エールを飲むと仕切り直すようにフィオに声を掛ける。
「それで、コボルトって、魔物かな。名前は聞いたことあるけど、詳しくは知らないんだ」
アヤナは二人を見てガックリと肩を落とし、自分も蜂蜜酒で口を湿らせた。フィオがエールから口を放し、シュウに答える。
「違うよ。コボルトは妖精だよ。じいさんばっかりの、ケチ臭い奴ら。アイツら、宝物をいっぱい溜めこんでるのよ。でも私じゃ、アイツらと同じくらいのちびっこだから、ちょうだいって言ってもくれないと思う。人間さんなら大きいから、大丈夫よ」
コボルトは妖精なのか。シュウは思った。あの指輪の映画の印象で、妖精といえば一般に美男美女のイメージがある。しかし、イギリスの伝承の妖精と言えば、日本の妖怪みたいな奴らだと聞いた事がある。じいさんばっかりと言うから、きっとここのコボルトは妖怪系なのだろう。
とはいえ、彼女の言っていることは、そのコボルト達の巣か、住みかに侵入するか、脅迫して宝を巻き上げるという事ではないのだろうか。コボルトが人間に害をなす魔物ならともかく、ただの異種族だったり、人間と友好関係があったりしたら問題ではないだろうか。
シュウがチラリと横目でアヤナを見ると、最初の騒ぎを忘れたように、唇に指を当てて思案顔で何かを考え込んでいた。アヤナがこの手の話に興味を持つとは思っていなかったシュウは、その様子を見て訝しむ。だが、予想に反してアヤナが口を開いた。
「コボルトは、どうして宝を持っているのかしら? ひょっとして人間から奪った物だったりするの?」
フィオは腕を組み、しばし考え込んでから答えた。
「う~ん、そういうのもあるかも。でも、アイツら洞窟に住んでて、地下の宝を掘り出してるって話よ」
「なるほど、正当な所有者がいるわけではなさそうね。それで、コボルトはどこに住んでいるのかしら?」
アヤナがフィオの話にずいぶん熱心に耳を傾けているのを見て、シュウは内心で首をかしげた。彼女は冒険のようなことには、あまり関心を持たないタイプだと思っていたからだ。
「『岩竜の森』だよ、女の人間さん。知ってるでしょ。森の中から竜みたいな岩がいっぱいとび出しているって、あの。眠った竜が岩になったって話もあるけど、私はほんとだと思うな。だって竜みたいな形だって、みんな言ってるし。でも私は岩よりも美味しい物を見つけたいな。そういえば豚キノコって知ってる?土の中に生えてて、いい匂いなんだって。それから……」
「待って、待って」
ペラペラと話し始めるフィオに、アヤナが思わず手を上げて制した。
「『岩竜の森』はどこにあるのかしら?」
「嘘でしょ、知らないの女の人間さん。だってあそこは……」
また話が逸れそうになるのフィオの言葉に、アヤナが割り込む。彼女は言葉をひとつずつ区切って強調する。
「フィオ、私はアヤナ。女の人間さんじゃなくて、アヤナって呼んで。それから『岩竜の森』はこの街から歩いて何日でいけるのかしら?それとも、もっと遠く?」
シュウが怯みそうになるアヤナの様子だが、フィオはそれに気づいた風もない。それでも、彼女に流されて素直に答えていく。
「う~ん、三日かな、それとも一週間? 一か月かも。でも、そっちに向かって歩いていけば、そのうち着くのよ」
アヤナに聞かれて、首をひねるフィオ。そこに先程の給仕の男が、テーブルに黒パンと塩漬けを置いていった。シュウはアヤナとフィオの会話を聞きながら、黒パンに手を伸ばす。シュウは黒パンに手を伸ばし、ナイフで固い皮を押し切るようにして一切れ取り、塩漬けを載せて頬張った。
あ、塩が効いてて美味しい。噛みしめた瞬間、香ばしいライ麦の酸味と、塩気の効いたカブとタマネギの風味が口いっぱいに広がった。素朴ながらもいい味を出している。
「分からないのね。いいわ。それでどうして私達を誘ったの? 私達より強そうな人はいくらでもいるでしょう? 街の門番さんとか」
「えっ、そんなむつかしい事いわれても。う~ん。このお店からいい匂いがしたから? 人間さんなら誰でもコボルトより大きいし」
困ったように答えるフィオに、アヤナはため息をついた。
「なるほど、たまたま目に付いただけということね。では……」
その時、ウィリアム・テルのような給仕の男がアヤナの言葉に割り込む。
「尻の、大きな鹿の、足の美味しいところを、持って来た、ぜ」
シュウ達のテーブルに、どんと皿が置かれた。そこに載っていたのは、骨付きの鹿のもも肉を輪切りにした豪快な一枚だった。中心には骨が残っており、その周囲を赤身が分厚く巻いている。焼き目はこんがりと香ばしく、脂は皿の底に滲み出し、鼻孔をくすぐるような濃厚な匂いを漂わせていた。
「お、本当に旨そうだ」
シュウが自分のナイフを抜いて、鹿肉を切り分けようとした時、それより早くフィオの手に短剣が現れ、スッパリと肉を大きく切り取った。刃が内側にくの字に曲がった変わった短剣だ。フィオはその肉の切れ端をパクリと口に放り込む。
「うわぁ~、やっぱり美味しいよぉ」
「ちょ、フィオ。それ、私達のよ。勝手に食べないで」
アヤナが立ち上がりかけて声を上げた。が、フィオは頬を膨らませたまま、幸せそうに目を細めていた。
「モハ・モフ・ヒュム!」
給仕の男はアヤナに笑顔を向け、片目をつぶってそう言った。それから帽子を押さえながら芝居がかった動きでくるりと回ると、厨房へと消えた。狩人のわけがないから、彼の服は狩人の店というコンセプトに合わせた、いわばコスプレ居酒屋のようなものか。シュウはどうでもいい感想を持った。
「モハ・モフ・ヒュム!」
フィオが口をモグモグと動かし、給仕をマネして楽しそうにそう言った。アヤナは、再び浴びせられた、突然のでか尻コールに口をパクパクさせる。
「アヤナ、ちょっと落ち着いて。普段の君らしくないよ」
シュウは自分も肉を切り取りながら、再び事態を収拾させるべく動く事にした。
「フィオ。アヤナはそう言われるのは、嫌なんだ。だから、もうやめてくれよ」
「え~、だって子供が沢山産めそうで、威張っていい事じゃない。それにあのオジサンも楽しそうだったよ」
フィオを非難がましく見るアヤナも、ナイフを手に肉を切り分け始める。アヤナも肉を口に放り込むと、頬に手を当て目を細めた。
「とにかく彼女は嫌なんだ。それでも続けるなら、これ以上君とは話ができない。コボルトの巣に行くのも、誰か他を探してくれ」
肉を味わいながらも、フィオを嗜めるシュウ。それを聞いたフィオは目を輝かせる。
「それって一緒に行ってくれるってことだよね、人間さん」
「僕の名前はシュウ。君の話は考えてみるよ、フィオ。でも突然の話だし、君のことも良く知らないからね。もし僕たちが君の話に乗るのなら、どこに行けば君に会える」
「えっ、私、この街にお家はないから、シュウのお家に泊めて欲しいのよ」
「それは無理だな。僕たちの家は狭いし、それに宿屋以外は初対面の人を泊めないものなんだよ」
「何でよぉ~。クルルボーはお客さんは大歓迎よ」
そこで、二人の会話にアヤナが割り込む。
「フィオ、私達は広場でコーヒーっていうハーブティーの店をしているわ。二、三日したら寄ってちょうだい」
それを聞いたフィオは、がっくりとうなだれた。鹿肉の皿には、脂と骨だけが残っている。それを見たフィオは笑顔を取り戻すと、黒パンの残りで最後のひとかけらをすくい、口に放り込んでからシュウたちに向き直る。
「むう、仕方ないからそうするのだわ。忘れないでよ、アヤナ、ショー!」
そう言い残し、軽やかに椅子を降りて踊るように酒場の外へと駆けていった。アヤナは空になった鹿肉の皿を見てため息をつく。シュウは、ショーじゃないよと、思いながら苦笑いをする。残った黒パンと塩漬けを、二人でモソモソと口に運んでいると、さっきまでの喧騒が嘘のように、テーブルには静けさが戻った。
二人が店から出ていく時、例の給仕がアヤナに親指を立てて言うのだった。
「モハ・モフ・ヒュム!」




