第26話 市場で買い物
「じゃあ、何から買おうか?」
テントを背負ったシュウが、それを担ぎ直しながらアヤナに声をかける。桶を左手に下げたアヤナは少し考えたあと、真面目な口調で答えた。
「そうですね。本当はじっくり時間をかけて選びたいところですが、あまり時間もありません。相場で買えれば良いとして、手早く決めていきましょう。まずは入れ物ですね」
「ああ、そうか。日本の買い物と違って野菜も肉も剥き出しで渡されるんだよね。小分け用の袋も客が自分で用意しないといけないか」
シュウは改めて気づかされたように頷く。
二人は市場の端に、粗末な衣服を着た女性の露店を見つけた。何度も継ぎを当てられた服には泥染みもあり、彼女は街の外に住む農村の婦人なのだろう。露店には畑で採れたと思われるカブやニンジンのほかに、手作りらしい麻袋も並んでいた。
「こんにちは。そちらの袋、見せてもらえますか」
アヤナがにこやかに声をかけると、女性は疲れたような表情のまま無言で頷いた。了承を得たアヤナは、袋を手に取って一つひとつ丁寧に確認し始める。広げて中に手を入れ、縫い目を左右に軽く引いて強度を確かめていく。
袋の大きさはまちまちで、どうやら古着を切って家庭で作られたものらしい。縫い目には細かいものと荒いものの二種類があり、きっと親子か、熟練と初心者が一緒に作ったのだろうとアヤナは推測する。傷み具合と縫い目の丁寧さを基準に、彼女は日本の規格で言えばB7からA3ほどの大小の袋を十枚選んだ。
「この十枚でいくらですか?」
アヤナが尋ねると、婦人は袋の数を数え直し、ぼそりと答えた。
「銀貨十枚」
「それはちょっと高すぎますよ。布も古くて破れそうですし、縫い目も荒い。これひょっとして、市に出すたびにずっと売れ残ってるんじゃないですか。私は銀貨一枚なら買いますけど、この機会を逃すともう売れないんじゃないですか」
アヤナの強気な言葉に、婦人は最初こそ不機嫌そうな顔を見せたが、怒鳴ることもなく、しばらく黙って考え込んだ。やがて、ぽつりと「銀貨五枚」と返す。そこからしばらく、アヤナの値切りと婦人の呟くような応酬が続いた。最終的に、価格は銀貨一枚と銅貨八十枚でまとまった。
確かに、最初の言い値からすれば無茶な値引きにも見えるかもしれない。しかし、古布を使った手縫いの麻袋十枚でその値段――日本円にしておよそ千八百円というのは、決して安いとは言えないだろう。それでもアヤナは、他の買い物の時間も考え、この値段で手を打つことにした。
そのあと彼女は、この露店のメインであるニンジンを五本とカブを十個選び、「これで銀貨二枚なら買うわ。それ以上なら、さよならよ」と言い放ち、陰気な売り手からあっさり言い値でそれらを買い取った。さらに、塩を入れるための革袋も一つ購入した。
その革袋は、彼女の家で潰した家畜の革を、素人ながらになめして縫い合わせたもので、内側には獣脂を塗り込めて撥水・防湿の処理がされていた。水漏れもある程度防ぐので、塩がこぼれる心配も少ないだろう。これで、とりあえず入れ物の問題は解決した。
「じゃあ、次はアレいこうか」
シュウが指差した先には、露店の梁に干し肉が吊るされていた。
「いいですね。次は肉を買いましょうか」
二人が露店に近づくと、その様子がよく見えてきた。両端に立てられた梁のあいだに横棒が渡されており、そこには数本ずつ束ねられた紐状の干し肉が吊されている。何の肉かは見ただけでは分からない。ただし、開店時にはもっと数があったのだろうが、昼も近い今では残っているのは三束だけだった。
干し肉は一本あたり幅が二〜四センチ、長さは二十〜三十センチほど。表面は黒ずんで革のような見た目をしている。一束で二百から三百グラムといったところだろうか。店の前に立つと、かすかに塩と獣脂の匂いが鼻をついた。
「おう、テレビで見た中東の市場とかこんな感じじゃない。やっぱり異国情緒があって、すごいよな」
シュウは目を輝かせ、露店の干し肉を指さしながら楽しげに言う。
「南欧でもこういう風景はありますけど、それは観光も意識してあえてやってる感じでしたね」
声のトーンは落ち着いていて、シュウほどの高揚感はなかった。
「ほら、なんとなくケバブっぽくない? あれも肉が吊るされてるだろ?」
手ぶりを交えて言うシュウに、アヤナは肩をすくめる。
「ケバブは回しながら焼いてますけど、これはただ吊して干してるだけですよ」
「いや、何て言うか、空気感?」
言ってから、自分だけがはしゃいでいることに気づいたシュウは、ばつが悪そうに頬を掻いた。
「……そうかもしれませんね」
アヤナはそっと息を吐くと、笑みを見せた。
「こんにちは。これは何の肉ですか?」
気を取り直したシュウが露店の男に声をかける。ぼんやり二人の様子を窺っていた男は、我に返ったように口を開いた。そして、そのまま勢いよく売り口上を捲し立て始める。
「おう、これはうちで潰した豚の足だぜ。六ヶ月育てた若い豚で、赤身が多くて柔らかい。前の市の日に潰して、昨日まで干してたんだ。先週は雨も降らずによく乾いて、もう半年はもつぜ」
「それで、一束いくらなんですか?」
アヤナが訊くと、男は顎を擦りながら少し考えてから答えた。
「そうだな……。奥さん、美人だから大サービスして、銀貨一枚と銅貨六十枚でどうだ?」
男は大声で言いながらも、アヤナの反応を緊張した様子でうかがっており、まだ値下げの余地がありそうだった。
「う~ん……実は私たち、ここに移住してきたばかりで、色々と物入りなんです。銀貨一枚ちょうどにしていただけると助かるんですが」
アヤナは少し上目遣いで控えめに頼んでみる。
「いやぁ、奥さん、それじゃあ俺もカミさんに怒られちまうよ……。しょうがねぇ、銀貨一枚と銅貨三十枚でどうだ?」
店主は少し顔を赤らめながら、条件を引き下げた。
「では、その値段で。ただし、一番多くておいしい束を選んでくださいね」
アヤナがにっこり微笑んで言うと、店主は慌てて言った。
「お、おう、任せときな。俺が一番いいのを選んでやるよ」
男は真剣に干し肉を見比べ、悩んだ末に一束を選びアヤナに手渡した。アヤナはそれを受け取ると、他の束をしばし物欲しそうに見つめる。すると、店主は頭をかきながら、アヤナの視線の先にあった束から一本だけ干し肉を抜き取り、それをアヤナが手にもつ干し肉の束に重ねた。
「奥さん、これで勘弁してくれよ」
「また次の市でも、よろしくお願いしますね」
アヤナは満面の笑みでそう言った。
「交渉を全部任せちゃってごめんね。にしても、どこも最初に吹っ掛けてくるから、買い物一つひとつに時間かかるな」
入れ物とカブ、ニンジン、それに干し肉だけでもう三十分近く費やしていた。シュウは少し焦っていたが、アヤナはあまり気にしていない様子だった。
「まあ、普段は来ない人たちまで集まって治安も悪くなってますし、手分けするのも危ないですからね。それに買えなかったら、多少高くても普通に街で買えばいいんです。だから今は、街の外から持ち込まれた農作物を優先した方がいいと思います」
「そっか。じゃあ、次はあれ買わない? あれ、アルプスの少女ハイミに出てくるやつだよね」
そう言ってシュウは、藁を敷いた木の台の上に黄味がかった丸いチーズがずらりと並ぶ露店を指さした。
「あ、その昭和のアニメ、私見たことないんです」
シュウの何気ない問いかけに、アヤナはちょっと困ったような笑顔を返す。
「そ、そう……。これがジェネレーションギャップってやつか。おじさん発言、失礼しました。で、チーズはどう?」
「いいですね。行ってみましょう」
こうして二人は円盤型のチーズをホール、約二キロ、で購入した。店主によるとひと月はもつそうなので、ゆっくり食べればいいだろう。その後、別の露店で岩塩も買ったが、これは灰色がかった質の低いものだった。後に料理で使った際、小石や粘土が混じっており、苦味まであって、アヤナは顔をしかめていた。
最後に、最初の店とは別の農家の露店でタマネギとニンニク、そら豆を購入した。そこではさらに、自家製の酢とそれを入れる陶器の小瓶、石鹸、蝋燭までも売られており、まとめて買いそろえた。買い物を終えた頃には、すでに昼の鐘が鳴っていたが、二人は一度荷物を家に運んだあと、再び広場へ戻るのだった。
「う~ん、買い物に時間がかかったから、このままだと写本の仕事にちょっと遅れそうだね」
「先に神殿に行って、今日は少し遅れてもいいか聞いてみましょう」
まだ昼食を取っていなかったシュウとアヤナは、薪なども買っておきたかったため、まず神殿へ寄ってデニスに相談することにした。神殿に入ると、運よくすぐにデニスに会うことができた。
「そうですか。お二人はまだこの街に来たばかりで、必要な物も多いでしょう。今日は市の日ですし、写本は買い物が終わってからで構いませんよ」
「ありがとうございます、デニスさん」「ありがとうございます」
日本なら、午後の仕事は十三時には始めなければならないという感覚がある。だが、ここは中世ヨーロッパに似た文化水準の異世界だ。始業時間が多少ずれても、あまり気にされないようだった。
シュウはふと、日本も明治時代に近代工場制度が導入されるまでは、時間にそれほど厳しくなかったことを思い出した。そういえば、東南アジアの国々でも、つい最近まで似たような雰囲気だったと聞いたことがある——そんなことを考えながら、彼は神殿をあとにした。
神殿を出る頃には、昼の鐘からもう一時間近くが経っていた。朝から屋台に買い物にと動き回っていたシュウは、そろそろ空腹を感じ始めていた。
「デニスさんもいいって言ってたし、まずはお昼にしようか。何か食べたいものはある?」
シュウがそう言うと、こういう場面ではめずらしくアヤナの反応が早かった。
「さっき蜂蜜入りのパン菓子があったのですが、あれを食べてみたいです」
最初から目を付けていたのだろう、彼女の目はちょっと輝いているようにも見えた。
「ああ、あの甘い香りが漂ってたやつか。うん、いいよ。それにしよう」
アヤナの先導に従って、二人はパン菓子の露店の前まで来る。二人はひとつずつ買ってから、市場の端に場所を移して食べてみた。直径十センチほどのそれは、ライ麦らしいどっしりとした生地に、焼き上がったあとに蜜が塗られているようだった。
シュウはもぐもぐと噛みしめながら味わう。やはり、日本のふんわりしたパンとは違い、歯ごたえがあり、やや粉っぽい。表面には蜂蜜の甘さがあるが、生地からはやや酸味も感じられる。「まあ、無しじゃないけど……」酸味が苦手なシュウには、積極的に食べたい味ではなかった。
ふと隣を見ると、アヤナはそれをニコニコしながら食べていた。甘味は久しぶりだから、こんなのでも女子にはウケがいいのかもしれない。
――でも、昼が甘パンって、アメリカ映画のドーナツランチみたいだな。
シュウの頭の中に、ニューヨークで警官やビジネスマンがコーヒーでドーナツを食べるシーンが浮かぶ。そんなことを考えていたとき、口の乾きを意識した。
「……ああ、パサパサすると思ったら、コーヒー出してなかった」
「そうですね。私も久しぶりの甘味に夢中になっていましたが、飲み物は欲しいです」
そう言うアヤナは気づけば半分ほど食べ終えていた。なにげに食べるのが早い。
「人が多くて出しづらいな。ちょっと、こっちに寄ってブラインドになってよ」
「はいはい。ここでよいですか」「うん、その辺で」
シュウは通りに背を向け、周囲に目を配りながら片手を空けた。アヤナはいつもより近くに寄って、彼の手元を身体でさりげなく隠す。
「コーヒー召喚」
現れたカップを、斜め後ろのアヤナに渡そうと腕を動かした瞬間、肘にふよんと柔らかいものが当たる。
――うっ、当たってる……当ててんのよ、ってヤツか?
シュウがそんな事を考えた一瞬で、アヤナは半歩離れてシュウの肘から柔らかいふよんが離れた。謝るべきか迷いながら、シュウは恐る恐るアヤナの顔をうかがう。だが彼女は視線を合わせることなく、黙って手元だけを見てコーヒーを受け取った。
「自分の分も早く出して下さい」
アヤナはそのまま目を合わせることなく、シュウを急かす。顔は無表情でその感情は見えない。
「あ、ああ。コーヒー召喚。……えっと、ごめん」
アヤナが怒っているのか分からず、シュウは謝っておくことにした。
「いえ、ワザとじゃないのは分かりますから。もうその話はしないでください」
せっかく市場で上がっていたシュウのテンションは、最後に気まずさを残して終わるのだった。




