第25話 コーヒー屋台
アヤナが落ち着いたところで、シュウはテントの中でコーヒーを二杯召喚する。自販機の紙コップに入ったコーヒーだ。ちなみに砂糖のないこの街で、あまり甘いと怪しまれそうなので、砂糖とミルクの自販の設定は最低値のつもりで召喚した。ブラックにしなかったのは、初めての人には飲みにくいだろうと思ったからだ。
アヤナが見つめる中、シュウはコーヒーを紙コップから木工細工職人の工房で買った木のカップに移した。「さて、いよいよ。開店しようか」シュウが立ち上がってアヤナに顔を向けると、アヤナもやる気の顔で力強く頷いた。
それからシュウが二つの木のカップを持つと、アヤナがテントの入口の幕をめくって開ける。アヤナの脇を通ってシュウは外に出る。その時、シュウはアヤナの匂いを強く嗅いでしまい、狭いテントの中で女子高生と二人でいた事を強く意識し、さらにさっき抱きとめた時の体にかかる彼女の胸の感触も思い出してしまった。
相手は子供、相手は子供、三回り近く下、三回り近く下、俺は大人、俺は大人。シュウはテントから足を踏み出しながら、心を落ち着けようとする。淫行条例違反、警察、逮捕、社会的死。ふぅ、ふぅ。シュウは深呼吸を数回して心を落ち着けた。よし、営業を始めようか。そう決心したところで、後ろから声が掛かる。
「緊張してるんですか? 大丈夫ですよ。気軽にやりましょう」後ろを振り向くと、アヤナが笑顔をこちらに向け、屈んでテントの入口から半身を出していた。その姿勢のせいで普段服越しでも分かる上向きのアヤナの大きめの胸が、下を向いて揺れていた。シュウは心の中で、心を落ち着ける儀式を最初からやり直した。
テントから出て周囲を見回すと、意外なことに、買い物客で最も目立つのは男性のグループだった。いずれもよく日焼けし、泥染みの付いた粗末な服を着ていた。
「男同士で来てる人が多いね。家族連れってわけでもなさそうだし。日本じゃ買い物って主婦が中心なのにね」
シュウがポツリと呟くと、隣で同じ方向を見ていたアヤナがその理由を推測する。
「たぶん、あの人たちは郊外の村から来た農夫でしょう。村や何軒かの家を代表して買い出しに来ているのだと思います。普段は街にいない人たちだから、正直コーヒー屋台の客層には向いてないかもしれませんね」
「ああ、なるほど。じゃあ、客引きするなら他の人を狙ったほうがよさそうだね」
シュウは納得して頷くと、他の買い物客に視線を移した。今度は、街でよく見かける主婦らしき女性たちが目に入る。彼女たちは農夫たちよりもやや上質な、泥染みのない服を着ていた。
普段は二、三人で連れ立って歩く姿が多いが、今日は五、六人で行動し、若い男たちが何人か荷物持ちとして付き従っている。シュウが見ていると、アヤナがそれに気づき、先回りするように説明した。
「あれはこの街の職人や商人の奥さんたちですね。連れてるのは見習いや若手の職人でしょう。いつもより集団で動いてるのは、人が多くなると治安が悪くなるからでしょうね」
「なるほど、じゃあ彼女たちが、我らがコーヒーチェーン店本店のメイン顧客だね」
シュウは真面目くさった表情で言ったが、冗談なのは明らかだった。それを聞いたアヤナは片眉をわずかに上げてみせる。真面目に考えているのに、ふざけられて少しばかりお気に召さなかったようだ。笑いを期待したのに、外したのに気付いたシュウはか細い声で言った。
「ごめん、ふざけたわけじゃないんだ」
「そうでしょうとも」アヤナの返しは冷淡だった。ただ、先程あった怖い目から切り替えて、普段の二人の雰囲気に戻ったとも言える。シュウは自分が滑ろうとも、それで十分だと思った。
そのほかにも、市場には職人や商人本人が見習いを連れて歩く姿、どこかの屋敷の使用人らしき人々、そして身なりの良くない浮浪者や流れ者のような姿もちらほら見えた。シュウはまず、ちょうど通りの向こうから連れ立って歩いてくるら五、六人の女たちを標的とした。
使い込まれた感はあっても、汚れや染みのない身綺麗な格好をした彼女達は、街の職人か商人の妻たちだろう。麻袋や籠を片手に、どの店で何を買うか相談しながら歩いている。シュウはテントから離れ、木のカップを両手に彼女達へと近寄って行った。
「すいません、みなさん。香りのいいハーブティーはいかがですか?少し苦みはありますが、疲れが取れて、気分もすっきりします。この街で売られるのは今日が初めてです。普段は一杯銀貨一枚でお出しする予定ですが、今日はだけ特別に銅貨三十枚です」
アヤナと相談して決めた口上だったが、まだスムーズに話せているとは言いがたい。時折、客の顔ではなく上の方を見てしまったりしたが、それでもなんとか最後まで言い切った。そして期待を込めて彼女たちの反応を見たが――返ってきたのは無言のスルーだった。女性たちはシュウに目もくれず、笑いながら立ち去っていった。
話すら聞いてもらえず、あからさまに無視されて、シュウは凹んだ。五十代まで社会人として働いてきたとはいえ、業務はもっぱら社内でPCに向かってカタカタするもので、営業経験は皆無だ。仕事でここまで露骨にスルーされたことはなかった。
顎に人差し指を当てながら後ろからその様子を見ていたアヤナは、少し考えてから言った。
「次は私がやってみますね」そう言って、彼女はシュウからカップを一つ受け取って、次の客を探し始めた。
シュウとしては、男たちの中にアヤナが突っ込んでいくのは危険だと思って自ら客引きを買って出たのだが、最初の試みが空振りに終わった今では、その主張もやや説得力を欠いていた。それに客層の中心が主婦なのだから、自分がなるべく離れないようにすれば大丈夫だろうとも思った。
しばらくして、さっきとは別の女性グループを発見したアヤナは、にこやかな微笑みを浮かべながら彼女達に近付いて行った。彼女達もさきほど同様、この街の主婦たちのように見える。
「こんにちは、奥様方。こちらのハーブティーの香り、香ばしくて素敵だと思いませんか?」
そう言われた主婦の一人は、反射的にコーヒーの匂いを嗅ごうと顔を近づける。するとアヤナはすかさずカップを差し出し、「どうぞ、お手に取ってみてください。でも、飲むなら銅貨三十枚ですよ」と茶目っ気たっぷりに笑った。
主婦はするりとそのカップを受け取ると、鼻先まで持っていき、ふっと息を吸い込んだ。
「まあ、本当にいい香り」
その一言をきっかけに、周囲の主婦たちも興味を示し、「ちょっと貸して」「私も嗅いでみたい」と、次々にカップを手に取り始めた。
アヤナは微笑みながら様子を見守っていたが、次の瞬間、思わず目が点になる。なんと主婦たちは、匂いを嗅ぐだけでは飽き足らず、次々と回し飲みを始めたのだ。
「うぇ、苦っ」「え、匂いはいいのに、あ、ほんとだ」「私は遠慮しておくわ」「私は好きかも」
アヤナは咄嗟に口を開いた。「お買い上げありがとうございます。銅貨三十枚です」
主婦たちは「全部は飲んでないから払わなくていいでしょ」などと口々に言い訳していたが、結局、「私は好きかも」と言っていた女性が払ってくれた。こうして、二人の店にとって記念すべきコーヒーの最初の購入者が現れた。
その後も二人はコーヒーの客引きを続けた。アヤナは主婦のグループに積極的に声をかけ、見慣れない飲み物にもかかわらず、巧みな話しぶりで売ることに成功していた。しかし、そもそも主婦層の数が限られていたため、全体としては思うように数は出なかった。
一方のシュウも、最初は主婦たちにコーヒーを勧めたものの、無視されたり冗談半分にあしらわれたりするばかりで、成果は出なかった。精神的には五十代の元サラリーマンであるシュウにとって、主婦の輪に割り込んで営業するのは無理があったのだろう。
そこで彼はターゲットを変え、街の職人や商人たちに目を向けることにした。彼らもまた無愛想で、ぶっきらぼうな物言いをする者が多く、決して話しかけやすい相手ではなかったが、それでもシュウにとっては、主婦たちの和気あいあいとした輪の中に割って入るよりはずっと気が楽だった。
シュウは何人目になるか、職人風の男に声を掛けた。男は壮年で、背は低めだが肩幅が広く、がっしりとした体格をしている。本人は手ぶらだったが、後ろには三人の若い男たちが続き、それぞれが大きな麻袋を抱えたり、肩に担いだりしていた。
男はふんぞり返るような態度で、いかにも横柄そうに見えたが、これまでの職人や商人たちも似たようなものだったため、シュウが怯む理由にはならなかった。シュウは心の中で、よし行くぞ、と気合いを入れると男に声を掛けた。
「こんにちは、立派な職人の親方殿。珍しい遠方の地のハーブティーはどうですか?これは花や果実のような軟弱なハーブじゃなくて、ガツンと苦い、男のハーブですよ。匂いを嗅いでみて下さい。炭のような渋い匂いがするでしょう。
これが今ならたったの銅貨三十枚です。いつもは銀貨一枚なのですが、尊敬すべき達人に呑んで頂きたくてこの値段です。」
シュウはそう言うと、男にコーヒーの入った木のカップを差し出した。男はジロリとシュウを睨むと、少し躊躇ってからカップを手に取り口に付ける。その瞬間、男は苦みのせいか嫌な顔をする。そこですかさずシュウは言葉を足した。
「これの違いが分かるのは、経験豊かな本物の男だけなのですが。」
コーヒーに文句を言い掛けた男だったが、シュウのその言葉に口を閉じ、それからゆっくりとコーヒーを飲み干していった。「ふむ、気に入った。おい、払ってやれ」男はボソりとそれだけ言って立ち去っていく。彼に続いた若い男が合わって銅貨三十枚を払った。
「まいどあり」シュウは頭を下げて親方達を見送った。
それからしばらく、二人は販売を続け、主に主婦や職人、商人風の男たちに声をかけていった。すると、興味を惹かれたのか、農夫たちも「飲ませろ」と言って寄ってくることがあった。しかし多くの場合、彼らはコーヒーの苦味に文句をつけ、挙げ句の果てには金を払わずに立ち去ることさえあった。
二人は自分たちの買い物もあるので昼まで多少の時間を残して店を畳んだ。シュウが五杯、アヤナが十六杯売り、収入は銅貨六百三十枚。銀貨に換算して約六枚分である。出店料を引いて手元に残った儲けはおよそ銀貨四枚。
「まあ、こんなもんかな」
シュウは腰に手を当て、軽くため息をついた。表情にはやや疲れがにじんでいる。
「そうですね。儲かったとは言えませんが、初日としては想定内でしょう」
アヤナは自分の長い黒髪をいじりながら静かに頷く。視線は通りを行き交う人々に向けられており、声からは彼女の感情は読み取れなかった。
「私達の買い物もありますし、今日はこれで仕舞いとしましょう」
「そうだな、もう片付けるか」
それから二人でテントを片付け始めた。帰り支度の合間に、シュウはチラリと隣の古道具屋の男に目をやる。あの男は何食わぬ顔で商売を続けていた。二人は男を無視して反対側の革の端切れ屋の女に声を掛ける。
「さっきは気にかけてくださって、ありがとうございました。」
「ふん。アンタ、一人でフラフラしないで気を付けるんだよ」
アヤナの礼に対し、女は肩をすくめながら、ぶっきらぼうにそう返した。
「じゃあ、僕達はこれで引き上げます。たくさん売れるといいですね。では。」
「もうお仕舞かい。気をつけて帰るんだよ」
シュウの言葉に、女はぼそりとそう言い、興味をなくしたようにぷいと視線をそらす。二人は女に挨拶を済ませると、今度は自分たちの買い物に向かった。




