第23話 アヤナの朝のお仕事
夜が明け、柔らかな朝の光が屋根裏の小さな明かり窓から差し込んでいた。埃の浮かぶ光の筋の中で、アヤナは一人目を覚ました。藁を敷いただけの屋根裏の寝床では、木の匂いとほのかに残る旅の荷物の匂いが混じっている。身体を起こすと、軋む床板が小さく鳴った。
昨夜のことが、ぼんやりと思い出される。この古びた借家、シュウと二人で手に入れた自分たちの寝床。まだ家具もろくにない空っぽの家に、わずかな荷物と、疲れ切った身体を持ち込んで眠った初めての夜。眠りは浅く、夢も現も曖昧だった。
アヤナは小さくため息をつくと、細い梁に手を添えて身を起こし、灰色のワンピースに手早く袖を通した。慎重に梯子を下りて一階へと降りる。朝の空気はひんやりと肌に触れ、頬を撫でる風が心地よい。戸を開けると、通りにはまだ人影もまばらで、近くの家々の煙突からは、薄く煙が昇っていた。
彼女は桶を手に、借家から少し歩いたところにある共同の井戸へと向かった。木の枠に囲まれた古びた井戸。桶を垂らして引き上げると、冷たい水が陽光にきらめきながら揺れた。桶を両手で抱え、慎重に家まで運ぶ。
家に戻ると、アヤナは桶を入り口近くに置き、部屋の隅をちらりと見やった。シュウはまだ眠っている。藁の上で体を丸め、穏やかな呼吸を繰り返す寝顔は、どこか無防備に見えた。若返ったその姿と中身が五十代というギャップを思い出し、アヤナは思わずクスリと笑った。
アヤナは音を立てぬよう手拭いを取り出し、桶の水にそっと浸した。ひんやりとした水が布に染み込み、手のひらにも涼しさが伝わる。そのまま屋根裏へ戻り、静かに戸を閉めると、ワンピースを脱ぎ、続けてその下に着けていたスモックも脱いだ。
屋根裏の小さな窓から差し込む朝日の光に、アヤナの白い裸身が露になる。アヤナは人目を気にせず身体を拭ける事に、ささやかな解放感を感じていた。
合流してからは安全のため、常にシュウと一緒に行動していた。年頃の少女にとっては、たとえ見た目が同年代に見えようと、中身が五十代だろうと関係なく、家族でも恋人でもない異性と四六時中一緒にいるのは、正直つらいものがあった。
シュウには最初に命を助けられたし、着替えや身体を拭くときには見ないよう気を遣ってくれているのも分かっていた。ここ数日でその人柄も信用してよさそうだとは感じていた。――それでも、異性のそばで肌着になったり、裸になったりするのは緊張するし、彼の寝ている隙を見計らって済ませるのも正直、面倒だった。
昨日、シュウにはそれほど喜んでいる様子を見せなかったが、アヤナは内心、ようやく手に入れたプライベートスペースに密かに歓喜していた。たとえそれが薄暗く、狭くて、あまり手入れが行き届いていないとしても。
アヤナは布を絞り、冷たい水で肌を丁寧に拭きはじめた。まず顔を、それから長い黒髪を梳くようにして、埃をぬぐっていく。さらに順に体を下へと拭っていった。濡れ布で胸を撫でたとき、早朝の空気で冷えたその感触に思わず身がふるえた。だが、それさえも緊張や不安が少しずつほどけていくようで、気持ちがすっと軽くなった。
アヤナは身体を拭き終えると、すぐにスモックと今度は継ぎはぎの作業用のワンピースを身にまとった。朝のひんやりとした空気が、彼女の肌に心地よく感じられる。屋根裏の戸をそっと開けると、一階へと慎重に降りた。
シュウがまだ目を覚ます前に、アヤナは溜まっていたスモックの洗濯に取りかかった。手に取った薄いクリーム色の布は、汗と埃を吸い込んで汚れ、ほのかに匂っていた。アヤナは思わず顔をしかめる。
木桶に張った冷たい水の中で、スモックを手早く、しかし丁寧に揉み洗いする。洗剤が無いため水洗いしかできなかったが、それでも汚れはある程度落ちた。今のところは、それで良しとするしかないだろう。
洗い終えると、アヤナは屋根裏へと戻り、木の梁に手を伸ばした。裸の梁はざらりとした質感で、温かみのある茶色に日差しを受けている。彼女はスモックの袖を折り返し、梁にかけて干した。布は軽く垂れ、風はないが、屋根裏の乾いた空気がゆっくりと湿気を奪っていく。
スモックを屋根裏の梁に掛けて干し終えると、アヤナは手を払いながら階下へ降りた。シュウはまだ藁の上で静かに眠っている。気配を立てないように、そっとテーブルに歩み寄ると、ワンピースを作る為に裁断中の生地を取り出した。
それは素朴なリネンで、薄いオリーブ色だった。彼女はそれをテーブルいっぱいに広げ、灰色のずん胴ワンピースを上に重ねる。丁寧に皺を伸ばし、肩から裾までを慎重に合わせていく。布の端に指を這わせながら、昨日の続きを始めた。
布を押さえながら鋏を滑らせる音が、小さく室内に響く。昨日から始めていたので、しばらくしてなんとか一着分の裁断を終わらせた。それから手元に針と糸を用意し、端からひと針ひと針、手早くも正確に縫い始める。
ほどなくして藁の上でわずかな身じろぎが聞こえた。そろそろシュウが目を覚ましそうだし、日が出てからもそれなり時間が経っている。アヤナは針を置き、縫いかけの布を素早くたたむと、糸と一緒に手提げ袋にしまい込む。作業の間に顔に掛かった前髪を指で直しながら、ふっと一息ついた。
「……おはよう」
アヤナがふと振り返ると、シュウが眠たげに目を開けた。掠れた声でそう言う彼に、アヤナも微笑んで返す。
「おはよう、シュウ」
しばらくまどろむように天井を見ていたシュウは、ゆっくりと身を起こし、欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。シュウが入り口近くに置かれていた桶を見ているのに気付いて、アヤナはシュウに声を掛けた。
「その水、私が身支度するのに使った残りですから。使うなら捨てて、また井戸に汲みに行って下さい」
「ほいよ」
まだ、少しぼうっといた頭でアヤナに気軽に答えたシュウは、桶を手に取ると、戸を開けて裏庭へ向かい、中の水を庭の片隅へ静かに流した。そのまま桶を持って、朝の空気が残る通りへ出て行く。井戸までの道はまだ人通りも少なく、家々の煙突からは煙が立ち昇っていた。
やがて戻ってきたシュウは、汲みたての水を裏庭に運び、桶を地面に置くと、顔を洗い、首筋まで手早く濡らして清めた。そのままスモックを脱ぎ、冷たい水に布を浸して身体を拭いていく。動きは慣れていて、無駄がない。
体を拭き終えると、まず膝丈ほどのゆったりしたトランクスのような下着――ブレーを履き、続けて新しいスモックをかぶる。それから、足にぴたりと沿うレギンスのようなズボン――ホーズを引き上げ、最後にチュニックを頭からかぶって身支度を整えた。
シュウが裏庭から戻ると、アヤナはすでにテーブルの上に、昨日屋台で買っておいたパンを並べていた。シュウはアヤナの期待するような目と目が合うと、少し気合いをいれた。
「じゃあ、いくか。コーヒー召喚」
シュウが片手をかざすと、空中にわずかな歪みが生まれ、次の瞬間には湯気の立つコーヒーの香りがふわりと広がった。テーブルの上には日本で見た物と同じ白い陶器のソーサーの上に、同様の白いカップが載っている。
「新しい生活に、乾杯」シュウがそう言うと、アヤナがイタズラをする子供のような目をした。
「世界を名作にするコーヒーと、この瞬間に乾杯」「グハッ、もうイジメないでくれよ」
アヤナがからかうようにそう言うと、シュウは心の中で吐血した。
「イジメるなんてトンデモない。この世界で唯一の文化的な食事に敬意と信仰を捧げているのですよ」
そう言うと、祈るように目を瞑って両手を組むアヤナ。そして彼女が片目だけ開けて、シュウを見る。
「うふふ」
アヤナの苦笑に、頭を掻くシュウ。それからふたりはパンをかじりながら、ゆっくりとコーヒーを味わう。
「……にしても、今日はいよいよコーヒーの屋台か。少し緊張するよ」
シュウがカップを片手に言うと、アヤナは頷きながらパンのかけらを口に運ぶ。
「そうですね。あと、この家にはまだ足りない物がいろいろあります。やっぱりシーツは必要ですし、ランプか蝋燭などの照明は買っておきたいですね。あと自炊するなら食材や薪も要りますね」
「買い物か。こう言うのって、市の日にまとめ買うのが基本なんだろ。次の市の日って、いつか知ってる?」
アヤナは手を止めて、すんとした顔で彼を見る。
「今日です」
「えっ!? ……それじゃ広場も混むだろ。露店がたくさん並んで、僕たちの屋台を出すスペースなんて残ってないんじゃないか?」
シュウは驚き、そのまま勢いよく椅子から立ち上がる。だがアヤナは、そんな彼に淡々と返した。
「商業ギルドでは、場所取りは早い者勝ちだって言ってました。でも、地元の人たちと揉めてまでいい場所を取るよりは、空いてる場所を見つけて大人しく開く方が無難でしょうね」
「ああ、この世界はまだ暴力的っぽいからな。せっかく早く行って場所取っても、『ここは毎回俺が使ってるんだ』って因縁つけられたら面倒だよな」
少し気持ちを落ち着いけたシュウは、椅子に座り直し、手にしたカップから立ちのぼるコーヒーの香りを嗅いだ。
「とにかく朝食をちゃんと食べたら、午前中は広場でコーヒー屋台。きっと市のピークも午前中ですから、合間を見て必要な物の買い出しも済ませたいですね。それから午後はまた、神殿で写本のお仕事……今日の予定はそんなところですね」
シュウの様子を気にする事なく、今日の予定を話すアヤナ。白い陶器のカップを細い指先でつまむようにして口元へ運ぶ。その何気ない所作でさえどこか洗練されていて、彼女に備わる気品が垣間見えるのだった。
シュウはアヤナの様子に感心し、少し見入っていたが、ついカップ越しにアヤナの大きな胸が目に入ってしまった。今のアヤナの服は、外に出る時の灰色のずん胴ワンピースではなく、室内作業用にした、継ぎはぎして身体の線が出やすくなってしまった服だった。
そのせいか、ちょっとした動作でぽよんぽよんと胸が揺れているのが分かる。そしてそういう視線は、アヤナにすぐに察知された。コホン、とアヤナが警告の咳ばらいをする。女子高生の胸をガン見していて、それを気付かれた精神五十代の男は、反射的に訴えられるのを恐れて慌てて視線を外した。
そんな事をしているうちに、二人共パンを食べきり、コーヒーを飲み終わる。
「うん、じゃあ、そろそろ広場に行こうか」「……そうですね」
誤魔化すように元気よく言うシュウに、アヤナは力が抜けたようにそっと答えた。




