第22話 月の見える夜
シュウとアヤナは夕暮れの街道を歩いて借家へと戻った。市の中心部を外れ、人通りの減った通りを進むと、踏みしめられて固くなった土の路が続いている。時折、風に乗って乾いた砂が舞い、靴の先にかかる。
やがて、簡素な木柵に囲まれた一軒の家が見えてきた。柵の扉はきしみながらも開き、その奥にはむき出しの土が広がる小さな前庭がある。雑草がところどころに伸び、壁際には古い木片が積まれていた。二人はその狭い庭を抜け、母屋の扉をくぐる。
中はまだ整いきっていなかった。帰ってすぐにアヤナが窓を開けると、夕方の赤みがかった光が差し込み、舞い上がった埃がふわりと揺れた。
「……う~ん、昼間けっこう頑張ったつもりだけど、まだ埃が残ってるか」
シュウが鼻をひくつかせながら部屋を見回す。隅には、出かける前に使った襤褸布が、まだ水の残る桶の上に置かれたままだ。彼は中央の古びたテーブルに背負い袋を置き、中からパイとパンを取り出した。
「もう陽が暮れます。薪も蝋燭もないので、明るいうちに食事を済ませましょう」
アヤナが肩をすくめ、テーブルへと歩み寄る。
「そうだね。早く食べちゃおうか。……ああ、せっかくこの家で初めての食事なのに、売れ残りのパイでごめん」
実のところ、シュウはそれほど悪いと思っていたわけではない。ただ、二人で家を借りて今日から住もうとなって、家で食事は作れませんではちょっと格好が悪いと思ったからだ。もっとも、それを口にして夫婦でもないのにキモイ、と言われたら立ち直れそうも無いので言わなかったが。
「いえ、気にしないでください。現代でも引っ越し初日は夕食どころじゃなくて、外食とかコンビニ弁当ってよくあるそうですよ」
思いのほかフラットに答えるアヤナに、何の思い入れも無い事が分かった。シュウとしては、そうだろうなと思う一方で、ちょっと肩透かしを食らった気もした。実はアヤナも、夫婦の新居でもないのに変な事を言うと思ったが、それを口に出して変な雰囲気になっても嫌なので言いはしなかった。
「それもそうか」
シュウが肉のパイの包みを開き、アヤナも野菜パイに手を伸ばす。冷めきっていたが、ひと口かじると、香ばしい匂いと肉汁の旨味がじんわりと広がり、空腹の身体に染み渡っていく。決して贅沢な味ではなかったが、腹を満たすには十分だった。
「冷めてるけど、意外といけるな。これ」
シュウがつぶやくと、アヤナもうなずく。
「野菜がくたっとしてるのは惜しいですね。でも、タマネギが甘くて、それなりに美味しいです」
「まあ、何にしろ。家が手に入ったので、少し落ち着いたかな。三日前は森の中で寝てたからな」
シュウは肩の力を抜いて、椅子の背にもたれながら笑う。まるで数ヶ月前の出来事のように思えるが、実際はほんの数日前の話だった。アヤナはまっすぐシュウを見て、少しだけ口元を引き締めた。
「そうですね。とにかく明日は、コーヒーの屋台を始めて、稼ぐと同時にこの街の情報を集めましょう。コーヒーはシュウ頼りなので、改めてよろしくお願いしますね」
「ああ、コーヒーが上手くいくかちょっと心配だけど、頑張っていこうか。何だかコーヒーだけの屋台というのも、学祭より手抜きな感じもするけど。実は僕、ああいうのやった事が無くて、ちょっと楽しみなんだ」
そう言いながらシュウが最後のひと口を頬張る。アヤナは、はしゃいだ様子のシュウに呆れつつも苦笑いを浮かべた。
「それは結構でしたね。それで、改めて屋根裏が私の寝室という事で良いですか?」
「うん。一応、防犯上も下のフロアに男の僕が寝ていた方がいいだろう。屋根裏は基本、僕は行かないから、君が自由に使ってくれればいいよ」
シュウはパイを包んでいた葉をまとめながら、素直にうなずいた。アヤナはその返事に、今度は素直に微笑んだ。
「ありがとうございます。そうさせてもらいます。とにかく、もう日も暮れますから、部屋の中が見える内に寝てしまいましょうか」
アヤナはシュウの食事が終わるのを待ってから、静かに椅子を引いて立ち上がる。窓から差し込む薄明かりが、埃の舞う空気を柔らかく照らしていた。
「了解。今日はお疲れさま。じゃあ、また明日。お休み」
「お休みなさい」
アヤナが梯子を上って屋根裏に入ると、シュウは神殿から持ち帰った彼女用の藁束を手渡した。顔を出した彼女がそれを受け取ると、藁は屋根裏に吸い込まれていく。
「おやすみなさい」
アヤナがもう一度そう声をかけてくると、シュウも微笑んで返した。
「お休み」
蓋が静かに閉まり、屋根裏との間が遮られるのを見届けてから、シュウは部屋の隅へと移動した。そして、床に藁を敷き、簡素な寝床を作って横になるのだった。同じ頃、アヤナは藁を整えてからワンピースを脱ぐと、スモック一枚になって藁の中に沈み込んだ。
早めに横になったものの、静かすぎる家の中ではなかなか眠りが訪れなかった。宿では食堂の灯りがあったのでもう少し寝るのが遅かったが、今日は昨日までより早く寝たせいもあるかもしれない。
天井の低い屋根裏で寝床に身を沈めたアヤナは、しばらく目を閉じていた。しかし、まぶたの裏に浮かぶのは異世界の森とそこで出会った奇妙な生き物、それから映画や資料の中の中世ヨーロッパのような見慣れぬ街の景色ばかりだった。
ふと起き上がると、スモックの裾を払い、月の差す方へと膝を進めた。屋根裏の小さな窓には鍵など無く、軋む音を立てて戸を押し開ける。夜風が一気に入り込み、髪をそっと揺らした。
そのちょうど同じ頃、下の部屋でもシュウは寝返りを打った末に身を起こしていた。布団代わりの藁束がごわついて心地よいとは言えず、夜の静けさがかえって気に障った。
「……眠れないな」
誰にともなく呟きながら立ち上がると、彼もまた窓際へと歩いた。木製の窓の留め金を外し、そっと戸を押す。すると、タイミングを同じくして、上の階からも軋む音が聞こえた。
シュウは顔を上げた。月明かりに照らされた屋根裏の窓辺に、誰かが立っている気配がある。うっすらと揺れる髪の輪郭が、夜の闇に浮かび上がっていた。
「……アヤナ?」
上からすぐに返事が返ってきた。
「シュウさん? そちらも起きてたんですね」
「まあね。……寝つけなくてさ。一人になると、この世界に来てからのことを色々思い出してしまって。よくあの森を抜けられたよな、僕たち」
「私も同じです。最初の日のことは思い出したくありませんが。それにしても、シュウはコーヒーを呼び出せるのに、私はバリアを出せないなんて、女神をぶん殴ってやりたい気分です」
互いに窓越しの姿はぼんやり輪郭が見えるだけだが、声はよく届いた。話しているうちに、距離の壁が少しずつ薄れていく。
「おや、珍しく攻撃的だね。僕は女神の顔なんて思い出せないけど、君はよく覚えているのかい? ひょっとして喧嘩でもしたとか?」
「……そんなことはありませんよ。きちんと話し合って、お互いに納得したはずなのに、おかしいですね」
やや不穏なものを感じたシュウが言葉を止め、アヤナもその話を止めるように黙る。少し間が空き、静けさが戻る。
「でも、こうして月を眺められるのはいいですね」
アヤナがぽつりと呟いた。月を眺めながらシュウがそれに答える。
「そうだね。何だかこっちの月って、日本で見るより大きく見える気がするよ。……いや、本当に大きい可能性もあるのか?」
しばらく、ふたりは何も言わず、月を眺めていた。
「私、実は女神さまからシュウの事を聞いて、三回り近く年上の男性と異世界なんて嫌だなって思ってたんです」
アヤナは少しバツが悪そうに顔を顰めた。
「それはスマンかった」シュウは苦笑しながらも、どこか納得したように頷いた。「まあ、話も合わなそうだし、見ず知らずのおじさんなんて、女子高生からすれば近寄りたくないよな」
シュウの謝罪にアヤナは言葉を選びながら話を続ける。
「いえ、人によっては小娘だって馬鹿にして話を聞いてくれなかったり、命令ばっかりしてきたり、……ヤラシイ事を言ってきたり、するかもしれないじゃないですか」
シュウは少し驚いてから、目を細めて自分の擁護を始めた。
「まあ、僕はそんな事はしないつもりだし、してないつもりだけど、ひょっとして何か困ってる?」
「いえ、違います」アヤナはすぐに首を振って、それを否定した。アヤナの長く艶やかな黒髪が月の明かりの中を揺らめく。
「最初にゴブリンに襲われてた時、助けてくれたじゃないですか。あれ、本当に感謝してます。グイグイ来ないし、協力できそうな人で良かったなって」
アヤナは少し笑って、「まあ、ちょっと頼りないところもありますが」と、軽く肩をすくめた。
「それは面目ない。でも、まあ、これからも協力してくれると助かる」シュウは苦笑しながらも、どこかホッとしたような表情を浮かべた。
「いえ、こちらこそ。よろしくお願いします」
そこで再び会話が途切れた。
「じゃあ、そろそろ寝ようか。明日もよろしく」
シュウがそう締めくくると、アヤナも素直にうなずいた。
「はい。……おやすみなさい、シュウ」
「おやすみ、アヤナ」
それぞれが静かに窓を閉じると、家の中はまた、夜の静けさに包まれた。
 




