第2話 柴田修介というオッサン
柴田修介は、大手メーカーに勤める50過ぎのサラリーマンだった。
若い頃はエースとして名を馳せ、その技術力で周囲から一目置かれる存在だったが、ブラックな労働環境が長く続き、心身ともに疲弊していった。
会社が自社開発を諦め、中国メーカーからの部品調達に舵を切ったことで、彼の専門技術は時代遅れと見なされ、微妙な人材が集められる情報収集部門に異動させられた。
そこでは明確な期待もされず、やりがいのない日々が続いていたが、慣れない仕事で成果を出そうと無理を重ね、ついには体調を崩してしまった。この日は発熱と頭痛に苛まれ、ぼんやりとした頭でいつもより早めに退社し、家路を急いでいた。
頭痛がズキズキと響き、彼は足元がふらつくのを感じた。その時、視界の端を何かが横切った気がして、ふと顔を上げた。小さな人影が彼の前を駆け抜けた――そう、小さな子供の姿だったかもしれない。
(こんな夜遅くに子供が一人で…?)
そう思った瞬間、彼は不意に何かにぶつかった。鋭い衝撃が体を突き動かし、足元が崩れるようにして転んでしまう。反射的に両手をついて地面に倒れ込んだ時、彼は目の前がぐらりと揺れ、そして全てが真っ暗になった。
それが、彼にとっての地球最後の光景だった。
柴田がぼんやりと目を開けると、そこには奇妙に輝く空間が広がっていた。あれ、ちょっと眩しいけどスーパーかコンビニにでも入ったかな。ふわふわと浮かぶような心地で立っていると、目の前に誰か女性がいるようで何かを言っている。何か買うんだっけ。
アヤナを異世界に転生させた女神はため息をつく。元々、幼い女神を助けたアヤナに恩恵を与え転生させるのは規定事項だったし、ついでに同じ場所で死んだばかりの男一人を転生させるのは大した問題では無かった。
しかし女神の自分を恐れる事も無く、ゴチャゴチャと交渉しようとするようなアヤナのような反応は想定していなかったし、久しぶりの人間との会話がいっぺんに面倒になってしまった。それでも神界の規則で転生させる前の魂には、きちんと説明をしなければならない事になっていた。
そこで女神は死んだ男が死ぬ直前に体調不良で頭がぼうっとしていたのを思い出し、本来肉体から離れた魂は体調不良などからは解き放たれるのだが、そのまま頭をぼうっとさせて思考力が低下した状態で転生の話を終わらせて、さっさと送り出そうと考えた。
女神は柴田の魂を呼び出すと、その顔を窺いながら話し始める。
「あなたは先ほど…まあ、ある事情で命を落としました。そして、その功績により別の世界で新たな人生を始めるチャンスを差し上げます。加えて、あなたの希望する特別な恩恵も差し上げましょう」
柴田はどこか遠い目をして口を開く。「ギフト…海苔よりコーヒーがいいかな。えっとお歳暮だっけ、それともお中元」
女神は彼の言葉に一瞬困惑したが、規定通りに転生者の希望を聞いて恩恵を与えて、この仕事を終わらせる事にした。
「分かりました。いつでもあなたがコーヒーを飲めるようにしましょう。味も好きに選ぶ事ができるし、器も陶器でもステンレスでも紙コップでも好きになさい。ただし、器はコーヒーを飲むか零すまでしか存在しないので売る事はできませんよ」
柴田はそれを聞いても、まるで理解していないようにぼうっとしながら呟いた。「ああ、コーヒーは好きなのに、1日2杯以上飲むと腹を壊すんだよな。若い時はもっと飲めたのに、あの頃みたいに腹など気にせず飲みたいよ。」
それを聞いた女神は眉間に皴を寄せるが、それも一瞬で解けて柴田に宣言するように言い放つ。
「まあ、恩恵がコーヒーだけではあの娘とバランスが悪いから、お腹を気にせずコーヒーが飲めるようにあの娘と同じ年齢まで肉体を若返らせてあげましょう。」
そして女神は最後に少しの生活物資を与えることを伝えると、無表情に左手を胸の前に上げ、「それじゃ、元気でやってきて」と言うなり指をヒラヒラと振って送り出す。
次の瞬間、柴田はまばゆい光に包まれ、神界から姿を消した。女神は彼の去ったあと、「はぁ、やれやれ…」と小さくため息をつく。その空間に静けさが戻った。
柴田は、意識を取り戻すと同時に、自分の体から消えた重みと痛みを感じ取った。頭痛も、体を蝕んでいた倦怠感も嘘のように消え去り、何年も味わっていなかった軽やかさがあった。目を閉じたまま深呼吸すると、濃厚な森の匂いが鼻をつく。湿った土と草、枯れた葉の腐葉土が混じり合い、生命力に満ちた香りを漂わせている。
だが意外にも湿気は少なく、空気は乾き気味で心地よい。耳を澄ますと、鳥の囀りや遠くで聞こえる虫の羽音がかすかに響き、風が木々の間を通り抜ける微かなざわめきが聞こえた。柴田は、意を決して目を開いた。
そこには現実離れした原生林が広がっていた。モミの木がそびえ立ち、どっしりとした幹には苔が生い茂り、ブナの柔らかな葉が風に揺れている。さらにオークの巨大な枝が地面に影を落とし、その下には落ち葉やドングリが散乱している。周囲には無数の木々が密集し、森の深い緑が視界を覆っていた。木々の間から差し込む太陽の光は、葉の間で細かな線を描き、地面には光と影の複雑な模様を生み出している。
目を足元に移すと、根が地表に露出した太いモミの根や苔むした石、枯れ葉が重なり合っている。地面はやや柔らかく、靴の底が僅かに沈む感触がある。陽光が届く場所には草花がちらほらと咲き、青々とした茎が光を浴びている。
柴田は、森の美しさと異様な静寂に戸惑いを覚えながらも、一言叫ばずにはいられなかった。
「どこじゃこりゃー!」
その声は森の奥深くへと反響し、彼の困惑を一層深めるかのように長く尾を引いた。