第19話 お部屋探しなら(2)
二人が職人街に入ると、大通りとは音と匂いが変わった。大通りでは食べ物の香ばしい匂いや脂っぽい匂い、何かが燃える炭の匂い、そして人々の汗の匂いと埃や地面の土の匂いが漂っていた。
これに対して職人街では、まず甲高い金属を叩く槌の音と、低い木を切る鋸の音が耳を突き刺す。そして溶けた金属の匂いと皮を鞣す薬品の独特な匂いが鼻に入り込み、そこに切られたばかりの木の香りが混じる。
二人は、店先や店の中から彼らに気づいた職人達の向ける不躾な視線の間を通り、建物の間に張られた紐に干された染布の下をくぐって、昨日訪れた木工職人の工房を目指した。二人はそこに辿り着くと、開け放たれた戸を潜って店内に入る。
「すいません。昨日見せてもらったテントをやっぱり買う事にしました。銀貨5枚ですよね」
「ああ、あれを引き取ってくれるなら助かるよ。もう一度言うが、布が破れているのは承知の上だよな」
「ええ、分かってます。でも、その補修用の布はどこで買えますか?」
職人は自分の顎を撫でながら少し考えてから答える。
「そうだな。布なら織物職人の店だろうが、テント用の厚手の布の在庫があるかはタイミング次第だろうな。あとは仕立屋が何かに使った後の残りの布を持っているかもしれない。」
「そうですか。ありがとうございます」
シュウは礼を言って織物職人と仕立屋の場所を聞いた。仕立屋は昨日アヤナが服を仕立てた店だった。二人はテントとタライ、木のカップのお金を支払いそれらを受け取る。シュウは布と木のペグを巻き付けたテントの支柱を担ぎ、アヤナはタライに木のカップを入れて小脇に抱えた。
「すいません、もう一つ。僕たちこの街に移住して来たばかりなのですが、どこか借家が空いているって話は聞きませんか。あまり高いところは手が出ないんですけど」
「う~ん、いや知らねえな」
「そうですか。やっぱり、そうそう空いてませんよね。じゃあ、僕たちはこれで」
「おう、まいどあり。また来いよ」
木工職人の工房を出た二人は、道の端で足を止めて次にどこに行くか相談した。
「まだ昼間で少し時間があるね。次はどうしようか? テントの補修なら織物職人か仕立屋だけど。」
「仕立屋って昨日の店ですよね。私はあの店にもう一度行くのは嫌です」
アヤナの嫌そうな様子に、シュウは昨日の職人のセクハラを思い出して納得する。
「なら、織物職人か。そう言えば自分の服の分も欲しいんだよね」
二人は織物職人の工房に足を向けた。
織物職人の工房は大きな梁のある建物で、開け放たれた扉の奥からは機織り機の木枠が見えた。踏み板を踏むたびに木の軋む音と糸の擦れる軽やかな音が響き、職人たちが無駄のない手つきで糸を操っていた。
「いらっしゃい。あんたたち、何か探し物かい?」と、年配の女職人が声をかけてくる。
シュウは肩に担いでいたテントをおろし、支柱に巻かれていた布を工房の隅に広げた。布には何度か補修された跡があるが、その中でも特に目立つ大きな裂け目が問題だった。
女職人は布に手を当て、裂け目を指先でなぞりながら黙って頷く。
「これは麻布だね。似たような厚手の平織りがあったはずだよ。丈は……一メートルもあれば足りるだろうね」
そう言いながら、彼女は巻き尺を取り出して測り始めると、棚から一巻きの麻布を持ってきた。
「安い方がいいんだろ? これなら銀貨一枚でいいよ」
アヤナがその布を手に取って確かめる。ゴワゴワとして質は良くないが、テントの補修には十分だろう。
「そうですね。それと、私の服を二着分……リネンも欲しいんです。まとめて買うので、ちょっとオマケしてくれませんか? 安くて丈夫なものをいくつか見せてください」
アヤナの申し出に、女職人はニヤリと笑った。
「なるほど。だったら、ちょっと待ってな」
彼女は奥の棚へと向かい、巻かれた布を何本も引き出して作業台に並べた。淡い灰色、灰茶、淡い茶色、黄味がかったベージュ、薄いオリーブ色……色とりどりの布が広げられる。
いずれも手染めで、現代のような均一な色合いではなく、布の中でも場所によって微妙に色味が異なる。なかにはマダラ模様のようなものも混じっていた。
アヤナはこれまでにない真剣な表情で布地を見定めていく。指で引っ張り、光にかざし、触感と強度を確かめながら、一つ一つを丁寧に選り分けていった。
その様子を見ていた女職人は、満足げに口元をゆるめていた。
やがて、いくつかの布についてアヤナと女職人の間で値段のやりとりが始まる。結果、アヤナはテント補修用の粗布に加え、薄いオリーブ色の布と、麦色に黄土色の筋と灰色の斑点が入った布を、まとめて銀貨十枚で買い取った。それから、アヤナが思い出したように女職人に声をかける。
「実は、私たちこの街で借家を探しているんです。どこか空いている家をご存じありませんか?」
女職人はすぐに答えた。
「それなら、ここから三軒隣が空いてたはずだよ。気になるなら、その隣にいる染色職人に聞いてごらん。詳しいことを知ってるかもしれないよ」
アヤナはシュウと顔を見合わせてから、にこやかに礼を言った。
「ありがとうございます。さっそく見に行ってみます」
シュウとアヤナは織物職人の工房を後にし、指定された空き家に向かって歩いた。職人街の隅にひっそりと佇むその家は、一言で言えば打ち捨てられたような印象だった。
幅は二人が両手を広げたくらいで、その境界が木の柵に囲われているが所々が崩れている。手前の柵の入口から真ん中の母屋までは小さな前庭があるが、膝丈まで育った雑草に覆われている。
その先の母屋は風雨にさらされて色あせ、黒ずんだ木板が貼られていたが、その真ん中に倒れて来そうな木の戸と小さな窓がある。その上には緩い傾斜で左右に広がる藁ぶきの切妻屋根が載っているが、所々が朽ちていたり、逆に草の葉やキノコが生えていた。
シュウも無言で家を眺めていたが、すぐにその表情が曇った。隣の家から、濃い薬品の匂いが風に乗って漂ってきた。染色職人の家からだろうか、その独特な薬品臭は鼻を突き、息をするのも嫌になるほど強烈だった。アヤナも顔をしかめ、目を細めて隣の家を見た。
「これじゃ、ちょっと……」アヤナが軽く呟くと、シュウも頷きながら口を開く。
「そうだな、あんな匂いがずっと続くのは厳しいな。少し遠くの金槌を叩く音に目を瞑るとしても、すぐ隣からあれだと……」
二人は再度入り口を見つめたが、結局その家に対する興味は薄れていった。アヤナが再びシュウを見て、ふっと肩をすくめる。
「もう少し、別の場所を探すしかないですね。」
シュウは少し考えてから、静かにうなずいた。
「そうだね。あの匂いじゃ、健康被害とか気になるし。」
二人は深くは探らず、その場を後にすることにした。少なくともこの家ではないと、心の中で決めながら、再び職人街の道を戻り始めた。それからアヤナは鍛冶屋で針とハサミを買い、昨日の職人街の仕立屋で糸を買った。
昨日の仕立屋は、自分の仕立てた服を着てずん胴スタイルのアヤナを見て、胸の下を紐で縛った方が旦那も喜ぶと言っていたが、彼女は彼をゴミを見るような目で見ただけで無言で立ち去った。ちなみにそれを聞いたシュウは一瞬アヤノの亀甲縛りを想像したが、頭を振って口には出さなかった。
職人街での買い物を終えたシュウとアヤナは、街に響く昼の鐘の音を耳にしながら、石畳の道を抜けて広場へと戻ってきた。昼時とあって屋台の周囲にはパラパラと人影がある。
「午前中も結構歩いたから、腹が減ったな……あ、ソーセージの匂いだ」
煙を上げて焼かれるソーセージの香ばしい香りに誘われ、シュウは銀貨を一枚差し出すと、焼きたてのソーセージを二本手渡された。アヤナはそこから少し離れた野菜スープの屋台に行って、たっぷりと野菜の入ったスープを注文した。柔らかく煮込まれたカブと人参が、木椀の中で揺れている。
二人は広場の片隅、低い石壁に腰かけて簡素な昼食を取った。吹き抜ける春の風がほんのりと暖かく、周囲の喧騒もどこか心地よい。
食後、彼らは神殿へと向かった。昨日と同じように神官デニスと一緒に、あの本の詰め込んだ紙と革、埃とカビの匂いのする書庫に籠った。アヤナは最初からデニスに写す書類と羊皮紙を渡されたが、シュウはまた書き損じの余白に練習をすることになった。
この時、シュウが練習の見本として渡された書類はこの街の年代記だろうか、去年の街や周囲の出来事が書かれていた。謝肉祭やイースターのような神殿で行われる祭事や、有名人の結婚や死去、作物の出来高、起こった犯罪や、この世界特有と思われる森からの魔物の出現などだ。
シュウはこの情報は共有した方が良いと思ったので、アヤナにも見せた。シュウはそれらの出来事の中で、キングズリーという名前が気になっていた。と言っても記載は僅かで、この街ではなく周辺の土地で殺人や強盗をした犯罪者で、魔術師らしいという事しか分からないのだが。
結局はこの日、半日でアヤナは三枚の書写を終えて銀貨九枚を受け取り、シュウは二日目にしてやっと書写が許され、一枚だけ完成させて銀貨三枚を貰えた。それから神殿を辞去する間際に、デニスに借家について尋ねた。穏やかな表情の神官は、少し考えてから首を横に振った。
「思いつくものはありませんね。そういう話を聞いたらお知らせしましょう」
その答えに、アヤナは「そうですか」と丁寧に礼を言い、シュウも軽く頭を下げた。外に出ると、陽は少し傾き始めていた。
白楡の館亭に戻ったシュウとアヤナは、食堂の隅の席に腰を下ろした。外は日中こそ暖かかったものの、夕方になると少し肌寒くなる。けれど、宿の中はほんのりとした木の香りと、外気よりもやわらかな温もりに満ちていて、二人の体から自然と力が抜けていくようだった。
夕食は炒め玉ねぎ入りの麦粥、キノコと干し肉の炒め物、茹でキャベツ。素朴ながらほっとする味わいで、二人それを味わいながら、翌日のコーヒー屋台について話をしていた。そこへ、料理人グルトンが布巾を肩に掛けたまま、どっしりとした足取りで近づいてくる。
「おう、食ってるとこ悪いがな。明日の朝、うちのが空き家のことで話したいってよ」
そう言って立ち去ろうとするグルトンに、アヤナが首をかしげながら声をかけた。
「“うちの”って、どなたのことですか?」
グルトンは立ち止まり、気楽そうに答えた。
「今朝、帳場にいたろ。あれが俺の女房さ」
「えっ、じゃあ……あの女将さんが奥さんで、グルトンさんがこの宿のご主人なんですか?」
「ああ、そういうこった。じゃ、伝えたからな」
軽く手を振って、グルトンは厨房へと戻っていった。二人は目を見合わせ、なるほどと頷き合った。




