第18話 お部屋探しなら(1)
翌朝、シュウはふと、柔らかな光に目を覚ました。昨夜は閉めていたはずの木板のシャッターが、いつの間にか開け放たれているらしい。冷たい朝の空気が流れ込み、道端の湿気を含んだ土の匂いが部屋に漂ってきた。シュウはぼんやりと天井を見上げながら、ゆっくりと意識を取り戻していった。
ふと、気配を感じて視線を巡らせる。アヤナが、既に身支度を整えてベッドに座っていた。昨日職人街で買った、淡い灰色のワンピースを身にまとっている。
だが、その服はどうにもアヤナの体型に合っていない。立体裁断など望むべくもないこの世界の服は、胸も尻も大きいアヤナが着ると、布が膨らんで本来のすらりとした印象を隠してしまっていた。
──正直、太って見えるな。
ドキマギさせられた昨夜の姿とのあまりの違いに心の中で苦笑いしながら、シュウは上半身を起こした。床で寝ていた彼は酷く体が凝っていて、腰や腕を解しながら立ち上がる。
「……おはよう、アヤナ。」
「おはようございます。やはり床で寝るのは辛そうですね。コーヒー屋台よりも借家を探すのが先でしょうか」
アヤナはシュウの様子に少し心配そうに挨拶を返す。服のことなど気にしていない様子だ。
「ああ、まあ、確かに体は凝るけど、若返ったせいか日本にいた時より目覚めはいいんだ。借家はそんなに急がなくても大丈夫だよ。それより準備が良いなら朝ごはんに行かないかい? お腹がペコペコなんだ。
日本にいた時は朝起きても、僕の場合は大腸の辺かな、ストレスで痛かったり不快感があったんだけど、今は若かった時みたいにすっかり元気で気分がいいんだよ。」
「そうですか。それは良かったですね。では下に行きましょうか」
アヤナはいつもの涼しげな笑みを浮かべながら言った。二人は簡単に荷物をまとめると、まだ静かな宿の廊下を並んで歩き、朝食を取るために食堂へ向かった。
薄明かりの差し込む食堂で、二人は木の卓に向かい合って座っていた。卓上には、パンと昨晩の残りのスープや、チーズに塩漬けの野菜が並んでいる。まだ宿の客も少ない時間帯、静かな空気の中で二人は今日の予定を話し始めていた。
「今日は午前に買い物、午後は神殿で写本の仕事だよな」シュウは雑穀パンを手に取って、ちぎってチーズをのせると、パンを口に運びながら言う。
「そうですね。でも、買い物の前に屋台の認可を取りに行きましょう。無いとは思いますが、屋台用の備品を買ってから認可に時間が掛かっても面白くないですから」
アヤナもスープを飲むスプーンの手を止めて言う。シュウがチーズをもう一切れとり、口に運んでから言う。
「商業ギルドだったっけ。……そういえば、借家ってさ。商人ギルドでも紹介してくれたりするのかな? あるいは不動産屋みたいなところがあるといいんだけど」
アヤナはパンを手に取り、塩漬けの野菜を一緒に挟んで一口。
「どうなんでしょう。でも、聞いてみれば、なにか教えてくれるかもしれませんね」
「そうだね。あと宿の人にも、一応聞いてみようか」
「ですね。後で聞いてみましょう」
食事を終えたタイミングで、二人は席を立ち、女将のところへ向かった。そこでシュウが、さっきの話を切り出す。
「すみません、ちょっといいですか。俺達、このアローデールにしばらくいようと思うんですが、どこか借家を斡旋しているところって無いですかね? 流石にずっと宿暮らしもお金が続かないかもなので」
女将は腕を組み、しばらく考えこんだ。
「うーん……そういうのを専門にやってる人は知らないねえ。そういうのは、知り合いづてに話が回るもんじゃないかい」
「そうなんですね……」シュウは女将の言葉に相槌を返してから、小声で呟いた。「不動産屋みたいなのは無いのか」
「まあ、あたしも知り合いに、どこか空き家はないか聞いてみるよ」
「ありがとうございます。お世話になります」
シュウが礼を言って、二人で軽く頭を下げる。それから二人は支度を整えて宿を後にした。
アローデールの街路を歩くシュウとアヤナは、朝の混雑する石畳の通りを踏みしめ、街の中心部へと向かっていた。荷車を引く商人や、籠いっぱいに丸パンを詰めた女性たちが行き交い、二人はその合間を縫うようにして目当ての建物を探す。
やがて、中央広場の一角に堂々とした石造りの建物が姿を現した。高い位置に掲げられた木製の看板には、力強い書体で《交易と誓約の館》と刻まれている。昨日はさほど気に留めなかったが、どうやらこれがこの街の商業ギルドの屋号らしい。もっとも、住民たちも普通に「商業ギルド」と呼んでいるようだが。
シュウが重い木製の扉を押し開けると、中には年季の入ったカウンターが並び、奥では帳簿を開いた書記らしき人物が座っていた。ホールでは昨日と同じように、商人風の男たちが数人、雑談に興じている。
二人は空いているカウンターへと向かう。対応していたのは、がっしりとした体格の中年職員だった。短く刈られた髪と節くれ立った指が目に留まる。
「いらっしゃい。何の用向きだ?」 職員ががらりとした声で問いかけてきた。
シュウが一歩前に出て答える。
「屋台の営業許可を取りたいんです。移住者ですが、商売を始めようと思っています。費用については、昨日聞いてあります」
「へぇ、移住者か」
職員は顎を引いて頷くと、手慣れた様子で羊皮紙を広げ、木ペンを取り出した。
「何を売るんだ?」
二人が覗き込むと、羊皮紙には屋台の登録リストが並んでいるようだった。シュウが職員の問いに答えを返す。
「ハーブ茶です。故郷から持ってきた、この辺りでは見かけないハーブを使っています。少し苦味がありますが、癖になる味なんです」
「ふ~ん、茶だけか。まあ、同じ品を売ってるやつはいねぇし、文句は出ねぇだろうな。名前と、いつから出すか言ってくれ」
そこでアヤナが、シュウと職員の会話に口を挟む。
「夫の名前はシュウです。屋台は明日から出したいのですが、出すかどうかは当日の朝決めてもいいでしょうか? それと、最初はハーブ茶だけの予定ですが、そのうち故郷の小物細工も売りたいんです。最初から両方で登録できますか?」
職員は一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わずに「シュウ」「ハーブ茶」と書き込んでいく。そして、再びシュウを見て、黙って返事を待つ。シュウはその視線の意味を察し、隣のアヤナに軽く目配せを送った。アヤナは静かに頷く。
シュウは小物細工の話は初めて聞いたが、アヤナに何か考えがあるのだろうととりあえず肯定する事にした。
「妻の言う通り、後から小物細工も屋台に並べるつもりでした。最初から品目に加えてもらって構いませんか?」
「茶と小物細工……何の屋台だか分かんねぇが、書類は変わんねぇ。二回に分けりゃ手数料が二倍だ。奥さんのおかげで得したな」
「ええ、それでお願いします」
シュウが頷くと、職員は項目に「小物細工」を書き加えた。
その間、アヤナが少し間を置いて切り出す。
「……あの、もし借家を探していた場合、こちらで何かご紹介いただくことは可能でしょうか?」
職員は顎に手を当て、考え込むように視線を宙に泳がせた。
「貸家そのものをここで扱ってるわけじゃねぇが……ひとつ心当たりがある。中心街にある建物で、屋根裏の部屋だ」
「いくらくらいですか?」アヤナが問う。
「月に銀貨四十枚。ただし、移民じゃ保証人もいねぇだろ? だったら、保証金は金貨二枚と銀貨四十枚が必要だ」
それは無理だ、そう言いかけたシュウの袖を、アヤナがそっと引く。そして彼女がにこやかに言った。
「見せていただけますか?」
職員は頷き、「いいとも」と、短く返して、カウンターの奥に向かって声をかけた。
「ティモ、来い!」
しばらくして、十二、三歳の小柄な少年が姿を見せる。質素な麻の服を着ているが、キチンと洗濯されているようで清潔そうな印象を与える。ギルドかこの職員の個人的な小間使いといったところだろう。職員は彼に鍵の手配と案内を命じる。
「この夫婦をトラヴィス商会に連れてってくれ。貸家を見たいと言って鍵を借りて、現地も見せてやるんだ」
ティモに導かれ、三人は中央広場から南側へ抜けていく。やがて中央通りに面した《トラヴィス商会》の看板が見え、少年が手短に用件を伝えると、事務員が貸家の鍵の束を手渡してくれた。
鍵を手にしたティモが振り返って言う。
「さ、こっちです。物件は中心部にある建物で、ちょっと古いですけど、便利な立地ですよ」
通りを引き返すようにして辿り着いたのは、やや奥まった石畳の小路に面した五階建ての建物だった。一階は重厚な石造りで、二階より上は古びた木組みが外に露出している。日照はやや悪いが、中央広場にも出やすい場所にある。
「ここです」ティモが鍵を差し込んで扉を開けると、油と煤の匂いが鼻をかすめた。
一階には共同の水場と竈があり、火の気があるのはここだけだとティモが説明する。
「各階に竈はありません。煮炊きや洗い物はみんなここでやってます」
二階からは、幅の狭い木の階段が続いていた。板は軋み、すでに何度も打ち直された跡がある。通り抜ける風がなく、空気はよどんでいた。
三階、四階と上がるごとに壁板の隙間から外光が薄く差し込み、ところどころに住人の洗濯物が吊されている。
「五階は……ちょっと特殊です」
ティモが言い、四階の突き当たりにある垂直の梯子を指差した。
「ここから屋根裏に上がります。貸し出し予定の部屋は、そちらになります」
ティモは梯子を上ると、その先の落とし戸というか上げ戸についた南京錠を開け、戸を押し上げて中に入っていく。それに続いてシュウ、アヤナの順で梯子を上がった。これまでの廊下や階段も暗かったが、この部屋の明かりは閉じられた両端の小窓の木枠の隙間から入る光だけでほどんど見えない。
ティモは慣れた様に入っていくと、窓の木戸を開けていく。それでやっとシュウの目にも部屋の様子が見えるようになる。
そこでは斜めに迫る天井が圧迫感を与える六畳ほどの空間だった。中央のごく限られた範囲だけが立って歩ける高さで、あとは腰を屈めるしかない。シュウが一歩踏み込むと、床板が軋み、その拍子に舞い上がった埃が光の筋の中でちらちらと揺れた。
「……しばらく誰も住んでなかったんですね」
アヤナが口元を覆いながら言った。鼻の奥に乾いた埃の匂いが刺さる。家具はなく、床の板目には埃が均一に積もり、歩くたびに足跡がくっきりと残っていく。上げ戸を振り返ると、中からは横棒で施錠する簡素な作りだった。
アヤナは窓の隙間を覗き込んだが、そこからは隣の屋根の斜面が見えるだけだった。
「これくらいの広さでも、労働者や職人なら四人家族で住んでいる人もいますし、お二人なら十分な広さかと」ティモが補足する。
「夏は暑そう……」アヤナが小さく呟き、手についた埃を払いながら口をつぐむ。
「何だか忍者屋敷か秘密基地みたいだ」あまり乗り気でないアヤナに対し、シュウはどこか楽しげな調子でそう感想を漏らした。
結局予定通りお断りしたシュウとアヤナ。ティモによると、借りないのであれば商業ギルドへ戻る必要はないとのことだった。そこでシュウとアヤナはそのまま職人街へ向かうことにした。
「六畳くらいの一部屋に家族四人って、ちょっと狭すぎるよね。」
「低所得の家庭が中心部に住む場合、そういう構成もあるんでしょうね。たぶん夫婦と子ども二人くらいの想定でしょうけど……。持ち物がほとんどないから成り立つのだと思います」
シュウがあの部屋に4人で住む様子を想像して顔をしかめると、アヤナが淡々と分析する。
「っていうか、あの暗くて狭い階段と梯子を荷物を持って上がるとか、結構制限多そうだね」
「日本でも大型テレビがエレベーターに入らなくて、クレーンで上げたり、一度壁を壊して入れたりしますよね」
「・・・アヤナの周囲はそうかもだけど、一般的にはそんな大きなテレビ買わないよ」
「テレビは大きい方が見やすいですよ」
「部屋が狭いと近すぎて見づらくなるんだ、たぶん」
二人は道すがら、この街の住宅事情について話し合いながら歩いた。