第17話 ○○いよ、アヤナさん
アヤナとシュウは、明日の午後も神殿へ来て写本をするとデニスと約束し、静かに神殿を後にする。外に出ると、すでに夕方の気配が街を包み始めていた。傾きかけた陽が、神殿の白い石壁を柔らかな茜色に染め上げている。
二人が向かったのは、職人街の仕立屋だった。夕暮れのまだらに乾いた土の道を進むにつれ、通りのあちこちから仕事を終えた職人たちの談笑が聞こえ、木製の看板が夕風に揺れて軋む音が静かに響いていた。日が傾き、通りは徐々に陰りを増していく。灯りのともる家はまばらで、多くの家々はすでに戸を閉ざし、夜の訪れを静かに迎える準備を始めている。その中で、仕立屋の小窓からだけは柔らかな灯りが漏れ、訪れる者を迎えるように揺れていた。
仕立屋の暖簾をくぐると、奥から店主が顔を出し、「ちょうど仕上がったところだ」と声をかけた。作業台の脇に掛けてあった服を手に取ると、アヤナに渡す。受け取ったアヤナは、今着ている服の上からそのまま新しいワンピースを被り始めた。装飾のないシンプルなリネンのワンピースは、肩から手首にかけて袖がゆるやかに広がり、裾は足首までの長さにぴったりと収まった。淡い灰色の布地は、外から差し込む夕光を受けて、やわらかく揺れている。
「どうだ、ちゃんと丈も合っているだろう。アンタ、胸が大きくて布が持ち上がるから、その分も計算して裾を長めにする必要があるんだぜ」
得意そうに言う仕立屋の話を聞いて、アヤナはチベットスナギツネのような目をする。だが彼女は結局何も言わずに服の端を指先でつまみ、縫い目などを確かめ始める。シュウが横で気まずげ左右に視線を迷わせていると、しばらくしてアヤナは小さく頷いた。
「ええ、そうね。安くお願いしたからちょっと不安だったけど、ちゃんとしてるようで安心したわ。でも女性の前で胸の事を言うのはマナー違反だから、憶えておいたほうがいいわよ」
アヤナは無表情でそう言って、前金を除いた残りの銀貨5枚をわざわざ仕立屋に手渡すことなく、作業机に置いて店を出ようとする。それで済めばよかったが、仕立屋は空気を読まずに話を続ける。
「何でぇ、何でぇ。胸が大きいってのは褒め言葉なんだぜ。なあ、旦那。こんな大きな胸を毎晩揉んで大満足だろう?旦那が奥さんを選んだ理由の半分は胸の大きさだろうぜ。ああ、あとその布は安いだけあって強く引っ張ると、裂けたりほつれたりし易いから扱いや洗う時は気を付けろよ。」
完全なセクハラ発言である。しかも両手は自分の胸の前で、大きなメロンでも持っているかのような形をとって、それを揺らしている。日本の会社なら解雇もありえる。ただし昭和から変わらない古い体質の企業を除く。
巻き込まれ事故を喰らった、元50過ぎの会社員シュウは、この事態に慎重に対処しなければ極めて社会的に危うい立場に追い込まれると息を呑み、まずは自分の心を落ち着けようと深呼吸をする。しかし、事態は彼の心が平衡を取り戻す前に進んでしまうものだった。
「あなた、さっさと行くわよ」
平坦な声にシュウが振り返ると、彼が気づかなかったうちに、既にアヤナの姿は店の外にあった。それを見た彼は慌てて店を出る。後ろからは二人の雰囲気の変化に気づかない仕立屋が、「また来いよ」と機嫌良さげ声を掛けて見送っていた。彼の両手はいまだにイマージナルなメロンを持って揺れていた。
仕立屋を後にした二人は、そのまま夕暮れの通りを戻る。空はすっかり群青色に染まり、星がいくつか瞬き始めていた。職人街に疎らな明かりの中、足元から時々、踏みしめられた小石の擦れる音が聞こえる気がした。
午前中もこんな事があったなと思いながら、口を閉じて足早に進むアヤナにシュウが付いていくと、やがて宿の灯りが見え始める。扉の向こうにある、夕餉の匂いと湯気の立つ温もりを思い描きながら、二人はさらに少しだけ足を速めた。
宿に戻って女将に声をかけると、もう夕食が始まっているから食堂へ行くように促された。食堂ではすでにいくつかのテーブルが埋まり、客たちは思い思いに湯気立つ夕食を楽しんでいる。シュウとアヤナも空いた席を見つけて腰を下ろし、料理を運んでいた昨日の料理人に声をかけると、まもなく二人の夕食が運ばれてきた。
木のスプーンでスープをすくいながら、シュウがぽつりとつぶやいた。
「……昨日より、ずいぶん軽いね。肉の類は無しか」
スープの中には、砕けた鶏ガラの骨と豆が静かに沈んでいた。脂は少なめで、滋味深い香りがほんのりと鼻をくすぐる。
「そうですか。でも、豆はたっぷり入ってるし、これはこれで悪くないですよ。それにチーズやクルミがあるじゃないですか」
そう言いながらアヤナはパンをちぎり、白くほろりと崩れるチーズをそっとのせる。パンもチーズも現代のものより酸味が強く、それに反して塩気は少ないがそれも悪くない。日本の白い食パンと違って、こちらのパンはどっしりと重く、噛むたびにライ麦やオート麦の香ばしさが広がる。
現代日本ではこういうパンは逆にオシャレなお店でしか食べられないが、確か欧米のホテルで食べたパンがこんな味だったかと、アヤナは思いを巡らす。
シュウはアヤナに言われて、タンパク質の物足りなさを補うように木皿の片隅に置かれたクルミを手に取った。マイナイフを取り出して柄で殻を叩くと、ぱきりと音を立てて割れ、中からしっとりとした実がこぼれた。それを口に放り込んで、ほのかに渋みのある香ばしさを楽しむ。
銃刀法があって刃物を持ち歩けない日本と違い、宿の夕食でマイナイフ前提なのも異世界感があって面白い。シュウは品行方正で草臥れたサラリーマンから、映画のアウトローになった気分で少しワクワクした。
そこでは、一度は中年まで年を重ね、そこから若返ったという奇妙な経歴を持つ男が、まるで悪ガキのような顔でニヤニヤしながらクルミをかじっていた。その様子をちらりと目にしたアヤナだったが、気の毒そうに目を逸らし、見なかったことにした。
二人が概ねテーブルの上の物を食べてから、シュウは周囲を見回して他の客が見ていない事を確認してからコーヒーを三つ召喚した。
「出たな。」シュウがチラリと横目で時々調理場から出て来る料理人を見ながら言う。するとアヤナが神妙な顔で続けた。「やっぱり、飲む者の数で出せるカップ数が変わるのですね。」
それぞれ木のコップに入っているが、その内一つを職人街でサンプルとして1つだけ買って来た木のコップに移す。今回、温かいのも不自然なので、コーヒーの温度はわざわざ室温に合わせた。ただし、味は全部違っていて、1つは帝都ホテルのラウンジのコーヒー、もう一つはシュウが昔よく行ったチェーン店のコーヒー、最後は自販の紙コップコーヒーを薄く調整した物だ。
「なあ、料理人さん。ちょっとこれ、試して感想をくれないか。僕の故郷のちょっと変わった茶なんだけど。」
そう言って呼び掛けるシュウに、料理人は一瞬きょとんとしたが、コップを受け取って鼻を近づけた。
「料理人さんなんて呼ばれたら、背中が痒くなる。グルトンと呼んでくれ。それはともかく、なんだこれは。ハーブ茶か何かか?」
ひと口飲むと、眉がひそめられた。
「……味が、妙に水っぽいな。色のわりにコクがない。変な苦味もあるし……いや、悪い、これはちょっと合わねえな。」
それだけ言ってグルトンは調理場に戻ってしまう。シュウは肩をすくめてアヤナに話し掛けた。
「これで少なくとも、お客の分のコーヒーも出せそうだと分かったね。」
「ふふ、もう少しサンプルを取る必要がありますが、予想通りではありますね。」
アヤナはシュウの様子も見ずに、それだけ言って手元のコーヒーを飲み続けた。
夕食を終え、アヤナとシュウは部屋へと戻った。薄暗い部屋の中に入ると、アヤナは慣れた様子でベッドの端に腰を下ろす。それを見たシュウは何も言わずに、壁際に置かれた木箱に腰掛けた。荷物をしまっていたそれは、もはや彼の定位置になりつつある。
「それで、明日はどうしようか?」と、シュウが口を開いた。「午後は神殿で写本のバイトがあるけど、午前中は空いてる。」
アヤナは少し考える素振りを見せてから、手元の布袋を膝の上に乗せて言った。
「午前中は職人街に買い物に行きましょう。コーヒー屋台の営業用に、木のコップを四つと、洗い物用のタライ。それと、召喚を隠すためのテントですね。テーブルは……コーヒーがある程度売れるようになってからでいいと思います。」
「そうだね、最初は必要最低限で始めよう。」
「あと、私は生地と針と糸、それにハサミが欲しいです。元の荷物にも針と糸は入ってたんですけど、服を仕立てるには足りなくて。服をあつらえなきゃならないって思ってたんですが、今日買った服を見てると、自分でも作れそうなんです。」
「服を自分で作るの?」と、シュウが少し意外そうに眉を上げる。
アヤナはうなずき、すぐそばに置いてあった服を広げた。それは今日受け取ったばかりの淡い灰色のシンプルなリネンのワンピースだった。
「これ、今日の服ですけど……見てください。」
シュウは服を眺めるが、アヤナが何を言いたいか分からない。その様子を察して、アヤナは服の裾をつまみ、縫い目の幅を指で示しながら説明を続けた。
「これがここの職人の仕事ですが、縫い目が4〜5ミリくらいあるんです。現代の服だとミシンで2〜3ミリの細かさですから、同じものは無理でも……このくらいなら、手縫いでもできそうかなって。しかもこの服、平面的に作られてるんで生地を同じ形に切って縫えば、同じように作れると思います。」
「ふーん……」とシュウは唸りながら、自分の着ている服の袖口を引っ張って縫い目を確認してみた。確かにアヤナの言う通り、自分の服の方が縫い目は細かく、整っている。他もそうだが、女神が用意したと言われる自分達の持ち物は、現地に馴染む素材やデザインでありながら、微妙に現地の物よりも現代に近い品質となっているのだ。
「なるほどな。そう言われてみれば、確かに違うね。」
「そうでしょう。ですから、生地が手に入れば二着くらい自作したいんです。今のところ、まともに着られる服がこの一着しかなくて……このツギハギと着回さなければならないので。」
そう言いながらアヤナは今着ている、前を縫い合わせた服の首元を少し引き上げた。その動きに合わせて少しきつくなった胸元もポヨンと持ち上がる。ついシュウの視線がそちらに惹き付けられた。それに気づいたアヤナが表情を硬くして、両手で胸を抱いて庇うように上半身を半ば後ろへ捻る。
細い腕に真ん中を抑えられた胸が、上と下に逃れるようにむにゅんと形を変える。さらに腰を捻った事で尻が横を向き、捻りによって引かれた布が尻に張りつき、その形のいい輪郭がプリっとクッキリ見えた。彼女にその意図は無かったが、胸と尻が同時に見える魅惑のグラビアポーズである。
エロいよ、アヤナさん
シュウは危なかったと思った。自分が10代、20代の若者だったら、50過ぎのオジサンじゃなかったら、彼女の魅力に抗って飛びつかずにいられただろうか?若返った体が反応しそうになるが、オジサンの倫理観がそれを押し止めた。そんな視線に気づいていたアヤナだが、すぐに襲われる事は無さそうだとスルーした。
「早く借家も探しましょう。それならベッドを二つ入れても他の人には分かりませんし、お互い一人になれる場所は必要でしょう。」
ベッドに横なったアヤナはそう言いながら、シュウの方を向いて寝る。シュウは昨日より見張られてる気がしたが、さっき脳内を駆け巡った物のせいでそれを非難する気にはなれなかった。
「そうだね。お休み。」
シュウはアヤナの視線を逃れるように、床の上で外套を体に巻いて上を向いて寝る。その背後からアヤナの声が聞こえた。
「おやすみなさい。」




